第222話 冷渦氷刃、覇王断つ
剣を手に階段を駆け上がったエリンスは、両開きの大扉に両手をつく。そのまま力任せに扉を開け放ち、転がり込む勢いで玉座の間へと踏み入った。
だが、エリンスの勢いは自然と落ちる。そこで目にすることになった光景に釘付けにされて、無意識のうちに足を止めた。
肌を撫でるひんやりとした冷気、玉座の間に漂っていたのは青白い氷の
黒いつるりとした石床に、大広間とそう変わらない造りで両脇には黒い柱が立ち並ぶ。その中央に敷かれているのはふかふかと毛が立つ赤い絨毯。長く続いたその先には、階段が五段ほどあって、壇上となった場所には玉座が一つ、鎮座している。
皇帝の椅子は金で縁取られてはいるものの、黒を基調としている総大理石。宝石のような輝きは豪華絢爛でありながら、品位を表したかのような造りをしている。
その椅子に腰かけていたのは、皇帝ではなく、白いスーツを着ていた魔族だ。尖った耳に開かれた口から覗く牙が、そいつを魔族だと示すかのようだ。
しかし、その目は驚きに見開かれ、絶命したその瞬間に輝きを止めていた。
駆けつけたばかりのエリンスにも、何が起こっているのかは一目瞭然だった。
無礼にも玉座に片足をかけるようについた男の背中。くすんだ灰色の長髪に、擦り切れた黒いマント。首元から垂れる黒いマフラーが周囲に巻き上がる
その両手にはしっかりと、黒い大振りの剣が握られている。刃は魔族の心臓を貫くようにして左胸に突き刺さっていた。
周囲に溢れ出していた
「シドゥ……」
エリンスはその勇者候補生の名を呼んだ。
顔までは見えないが、背中からも溢れ出す覚悟にエリンスの身も震える。
玉座までもが凍り付きそうになり、シドゥは勢いよく魔族に刺さっていた剣を抜いた。
血も溢れない。既に全身が凍り付いてしまっているのだろう。
剣を抜いたシドゥはそのままの勢いで刃を振り上げる。そして、氷像となった魔族へと叩きつけるように振り下ろす。
大きなガラス細工が割れたように壮大な音を上げて、氷像は粉々に砕け散った。いくら魔族と言えど、そうなってしまってはひとたまりもない。
シドゥは自身にも降り注ぐ氷の破片を手で払うようにすると、ゆっくりとエリンスに対して横顔を向けた。。
「覇王だかと名乗っていたが、呆気ないものだな」
シドゥは「ふっ」と軽くあしらうように鼻で笑った。その目は氷のように冷たい冷静さを宿したままだ。
エリンスは壇上でそうしているシドゥから目が離せなかった。
覇王ダンデラス・ランは、シドゥの一撃によって死亡した。
エリンスたちが目標とした覇王討伐は、もう成されてしまった。
「仲間じゃ、なかったのか」
エリンスはてっきりダンデラスも
呆然としたままそう口にしたエリンスに、シドゥはちらりと目を向ける。そうしてから玉座の上に積もった粉々に散った氷の破片を手で払って落とした。
だが、シドゥは玉座には腰かけようとはせずに、振り返ってから口を開く。
「仲間? はっ、くくく……手は貸してやったが、そんな風に考えたことはなかったな」
目を閉じて噛みしめるように笑ったシドゥに、エリンスはさらに言葉を重ねた。
「おまえは……何がしたいんだよ!」
口から飛び出したエリンスの本音は、思ったよりも大きな声になった。
ただ、シドゥは壇上から静かにエリンスのことを見下ろしてこたえる。
「ここまで、辿り着いてしまったんだな。エリンス・アークイル……」
何か含みがあるかのような言い方に、エリンスは緊張を呑み込むようにごくりと喉を鳴らす。
どこか寂しくも、シドゥは遠くを見つめるようにそう零す。エリンスはすかさずこたえた。
「俺は、頼まれたんだ。皇女……シルメリナに。エノルだって、おまえのことを心配して――」
「別に……心配なんてされたくて、こうしているわけではない!」
左腕を振り払うようにして反論するシドゥ。その激情に反応するかのようにして、周囲を舞う冷気も増した。靡くマフラーの裏側に見えた表情に、エリンスは束の間、シドゥの本音が見えた気がした。
「くくくくはは、貴様は、優しすぎるんだよ、エリンス」
エリンスは言い返すことができない。
「とんだお人好しだ。落ちこぼれと後ろ指を指されようとも、ここまで来てしまった……」
「俺は、自分が信じた道を進んだだけだ! その先でおまえが待っているというのなら、俺はおまえだって救いたい」
「自惚れんなよ、落ちこぼれが。優しさで世界は救えない。運命は変えられない」
青白い冷気が舞っている。
黒い剣を手にしたシドゥの右腕が震えている。
エリンスも、そこに何か事情があることを察する。
――本気で、向き合わないと……。
でないと、シドゥはもっと遠くへ行ってしまうだろう。
「だからって……シルメリナのために、帝国を落としたのか!」
声を荒げたエリンスに、シドゥは静かな怒りをもはらんだような眼差しを向け続ける。
「そのために、多くの犠牲を払って、父親である皇帝をも殺害して、こんな風にしたのかよ!」
溢れ出す想いを口にするエリンスに、だけど、シドゥは静かなままにこたえた。
「……貴様に何がわかる」
腹の底から響くような低い声だ。
「犠牲? 父親? くくくく、くくくふふふははははっ」
シドゥは一人笑うが、相変わらず玉座には座ろうとはしなかった。玉座を一瞥して、再びエリンスへと目を向けた。
「……ラーデスア帝国が、何を犠牲にして立っていたと思う?」
聞き返してくるシドゥに、エリンスはこたえることができなかった。
「貴様は、何も知らないだろう。世界のことを知って、全てを知った気になったか? その力を手にしていて」
シドゥがすっと左腕を上げて、エリンスの右手を指した。未だ白き輝きが溢れ出す、そこを。
「シドゥ……おまえは、知っているというのか」
「俺はこれでも、皇帝の血を引くモノだ。貴様よりは知らされたよ、この世界の歪んだ有様を」
勇者の話も、勇者協会に纏わる話も――。
エリンスが持つ力を指してそう言ったということは、エリンスが知り得た世界に纏わる話も知っているのだろう。
「虚しいだろう? 悲しき宿命を背負わされた勇者候補生は」
「だから、
「それもあったが、違うな。俺はあいつの創る世界に興味はない」
――やはりか、とエリンスは思った。
「だよな、シドゥ。おまえは……
エリンスが咄嗟に言い放つと、シドゥは「あぁ?」と、その言い様が気に障ったような顔を浮かべた。
「ここに来て、覇王を刺しているおまえを見て、こうして顔を合わせて言葉を交わして、確信したんだ」
エリンスは静かに話を続ける。
シドゥは苛立ったように足を震わせた。
「おまえは、裏切ったんじゃない」
「何が言いたい? エリンス……」
シドゥは剣も持ち上げて、腕すらも振るわせる。
「おまえも自分が信じた道を突き進んだだけだろ、シドゥ!」
「俺は裏切ったんだよ、貴様ら勇者候補生を! 勇者協会だ? 『くだらない』。世界を救えもせずに民を騙し続ける愚かなやつらが!」
「じゃあどうして、シルメリナを勇者協会に預けるような真似をしたんだ!」
シドゥはエノルとバンドルに、何よりも大切にして、帝国をこうしてまで救いたいと願った
何よりも守りたいモノだったはずなのに、大切な彼女のことを任せて、独りで突き進んだ。
そのために自分が汚名を浴びようとも、手を汚そうとも、祖国を滅ぼそうとも、魔族に手を貸してでも。
「……」
シドゥはこたえられなさそうに歯を噛みしめる。
エリンスは真っすぐと睨みつけながら、言葉を続けた。
「大切で救いたいモノだったと言うのなら、手元に置いておくのが一番安全だ。でも、おまえはそれができなかった。そうしてしまえば、シルメリナにもあらぬ汚名が降りかかる。だから、おまえは手放した。勇者協会に預けることで、帝国の希望を託した。口ではそう言いながら、勇者協会のことを信じていたんだろう。そして、そうした先に見据えていたのは、それだったんだろ!」
エリンスは
「覇王を斬って、
エリンスは、それを『勇者』だとは認められなかった。
真っすぐと目を向け続けるエリンスに対して、シドゥもまた真っすぐとした眼差しを向けていた。
「シドゥ、おまえの背中は寂しすぎる。そうした先に何が遺るって言うんだ!」
全てを一人で背負うために――。
シルメリナもきっと、そんなシドゥの気持ちに気づいていた。だから、エリンスとアグルエへ想いを託した。
「……俺は、何も遺さなくていいんだ」
シドゥは静かにこたえる。
「やはり、エリンス。貴様は、優しすぎる」
静かな眼差しに付き纏う冷たい空気。シドゥは芯の底まで冷え切ったかのように、冷静だった。
霊峰で向き合ったとき、セレロニアでひと言交わしたとき――あのときにはない、何よりも冷たい眼差しをしている。
「腐った帝国は俺が叩き潰した。その後の未来はシルメリナが築いてくれればいい」
「だから自分は汚名を背負って死んだっていいだなんて言うなよ、シドゥ!」
エリンスの胸のうちに湧き上がってくる想いは怒りにも似ていた。
自分勝手に、自分独りで、周りの想いにも向き合おうことが
何がそうさせたのか、エリンスにはわからない。
帝国に纏わる闇、彼に何があったのかはわからない。
だけど、その想いに気づいてしまったシルメリナが、シドゥを失えば何を想うか。
それがエリンスの言いたかったこと。シルメリナに託された想い。それは、シドゥにも伝わったのだろう。
「くくく……くく、くふふふははははははははははは!」
盛大に天井を見上げて、シドゥは大笑いを上げた。
その瞳に涙が浮かんでいるのは、エリンスからも見えた。だが、シドゥはそれすらも呑み込むように天井を見上げ笑い続けた。
エリンスはそうしたシドゥが想いを呑み込むのを待つ。
シドゥは一頻り笑うと、瞳に覚悟を灯したようにしてエリンスへと向きなおった。
「俺は、貴様を斬りたくはなかった。だが、ここまで来てしまったというのならば、仕方がない」
黒い剣を構えるシドゥに、エリンスも半歩下がる。
「まさか、落ちこぼれと見下した貴様に、ここまで想わされるとは思わなかった。だが、霊峰で貴様に再会したとき、サークリア大聖堂では見せなかった光が見えた。あのとき不思議と、こうなるんじゃないかと予感はしていたんだ」
エリンスも真っすぐと目を向けたまま、手にしている
信じて願う想いは変わらない――それが、シドゥにも伝わっているのだろう。
「俺を救う? 別に、俺は救いを求めてはいない。それでもこんな俺を救いたいと言うのなら――」
一層、凍えるような冷気が周囲に広がる。
「……だったら、死んでくれ、エリンス・アークイル。貴様の暑苦しい優しさは、俺にはいらないものなんだ」
二人の勇者候補生の想いは、言葉だけでは交わり合うこともない。
エリンスもどこか、霊峰で出会ったあのときから――こうなる予感はしていたことだった。
決して交わらなかった二つの想いが今、刃を通して、交わろうとしている。
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