古井戸に纏わる
そうざ
A Fairy Tale about an Old Well
夏草の合間からぽっかりと口を開けた古井戸。小学三年生だった僕は、その奥底へと懸命に虫取り網を差し伸べていた。
すると、リフちゃんが唐突に僕の背中を押した。か細い悲鳴を上げ、コンクリート製の井桁に
リフちゃんの笑みは不思議だ。我が子を見守る母親のように柔らかでありながら、どこか意地悪そうな侮蔑の色も含んでいるのだ。
いつからか近所に存在していた廃屋。その裏庭が僕達の遊び場だった。
古井戸はそこにあった。錆の浮いたトタンの蓋が被せられていて、もう長い間、使われていない様子だった。リフちゃんが言うには、水もすっかり涸れているらしい。確かめた訳でもないのに、リフちゃんはよく断言する。
トタンの蓋を除けて中を覗き込んだリフちゃんは、ヤッホーッと叫び始めた。反響を伴った声は、古井戸の内側にぶつかりながら落ちて行く。面白くて堪らないようだった。山でもないのにどうしてヤッホーなのか――それでも、僕は疑問を口にしなかった。リフちゃんを否定するような発言は、控えた方が良い。それは、小学生時代の僕が自然と身に付けた処世術だった。
やがて、リフちゃんは、僕にもやってみるように誘い掛けて来た。僕は戸惑った。僕は普段から意識的に古井戸を無視していた。近寄る事さえ嫌だった。もし覗いたら中に引き摺り込まれてしまう――そんな何の根拠もない恐怖に囚われていた。
人は何故、井戸に恐怖心を呼び起こされるのだろう。
水は人間が生きて行く為に必要不可欠なものの一つだ。その水を湛えた井戸はもっと『生』の象徴として立ち現れて良いと思うのだが、圧倒的に『死』を連想させる。地方によっては、人が亡くなった時に井戸の中に向かって亡者の名を呼び、この世に引き戻そうとする風習があると聞く。井戸が冥界へ通ずる穴だと信じられていたのだ。
一方で、井戸には井戸の神様が居ると考えられていた。これは、人々が生活必需品である井戸に対し、感謝と畏怖の念を同時に抱いていた証しかも知れない。
井戸は恐怖の拠り所として今も昔も頻繁に物語の中に登場する。怪談『番町皿屋敷』を始め、数々の映画、漫画、小説と枚挙に暇がない。恐らくこのような数々の物語やその元ネタの言い伝えが自殺や殺人、死体破棄の舞台装置としてイメージを定着させたのだろう。
もし実際に井戸に落ちてしまったら、と想像してみよう。落下の恐怖、負傷の恐怖、暗闇の恐怖、閉所の恐怖、窒息の恐怖、脱出不可能の恐怖、孤独の恐怖、死の恐怖――井戸は根源的、本能的恐怖の宝庫だ。
しかし、子供の僕にこんな
僕は、井戸端のリフちゃんと一定の距離を保ったまま佇み続けるしかなかった。リフちゃんは例の含み笑いを湛えながら僕を押し退けると、直ぐにまた井戸を覗き込み、ヤッホーッと叫ぶのだった。
リフちゃんは、僕より二つ年上の小学五年生だった。
大人びた顔立ちに
そんなリフちゃんだが、何故かしょっちゅう僕と遊んでくれた。理由を訊いても、家が近所だからとしか答えない。近所には他に幾らでも子供は居るのだ。僕は納得が行かなかったが、追求しようとも思わなかった。自分と同じ一人っ子のリフちゃんに親近感を持っていたし、リフちゃんを失ったら友達と呼べる存在が居なくなってしまう。人見知りの内弁慶だった僕は、何よりもそれが怖かった。
リフちゃんが、あっ、と声を発した。花飾りがあしらわれたお気に入りのヘアピンが古井戸の中に落ちてしまったと言う。
今にも泣きそうなリフちゃんを見たのは初めてだった。何だ
僕の弱腰に気付いたリフちゃんは、直ぐにまた勝気な表情に戻り、虫取り網でヘアピンを
どんなに虫取り網を差し伸べようと井戸の底に届く筈がない事は火を見るよりも明らかだったが、リフちゃんの射抜くような瞳に睨まれた僕に反抗の余地はなかった。
いつだって、今だって、そしてこれからも、僕はリフちゃんの言い成りに生きて行くのだろう。それを半ば当り前の事として受け入れる僕は、それを愉悦と感じているのかも知れない。
僕は、怖ず怖ずと
気の
次の瞬間、差し伸ばした虫取り網から妙な感触が伝わった。それは確かに下へと引っ張られる感覚だった。古井戸の底から何者かが虫取り網を掴み、引っ張り込もうとする手応えだった。
一瞬にして総毛立った僕は、慌てて身を起こそうとした。ところが、リフちゃんは信じられない行動に出た。僕の身体を井戸の中へ押し込もうとしたのだ。動転した僕は必死に声を上げた。それでもリフちゃんは力を込めて来た。
最初からこれがリフちゃんの目的だったんだ、僕を
眼前に知らない
消防隊員だった。周囲で見守っていた人々が歓声を上げた。その中に、僕の両親やリフちゃんの両親の姿もあった。
隊員は、古井戸の底から突き出て来た虫取り網を掴んで一気に引き上げた、と興奮気味に語った。
僕達が古井戸の中に居ると判ったのは、捜索隊が出動してから一昼夜経った頃で、廃屋の近くを捜索していた隊員がヤッホーッという女の子の声を耳にし、それが発見に繋がったのだと言う。
事故の衝撃なのか、僕は自分達がどういう経緯で古井戸に転落してしまったのか、全く思い出せなかった。
リフちゃんも僕に続いて引き上げられた。ただ、既に息を引き取っていた。
ほんの数日、病院で過ごした後、僕はリフちゃんの家を訪ねた。気になっている事があった。リフちゃんが花飾りのヘアピンを髪に着けていたかどうか――それが知りたかった。
二十年振りに事故現場を訪れた僕の眼から、涙が止め処なく溢れ出ている。
大方、僕達はふざけ合っている内に
一方で、ずっと疑問が
その時、僕は反響する声を聞いた。
ゆっくりと振り返る。
含み笑いを湛えたリフちゃんが居た。
急に辺りが暗くなったよう気がした。思わず天を仰ぐ。空はやけに小さく、遠くにあった。視野が狭まり、丸く切り取られていた。
僕は今、古井戸の外に居るのだろうか、中に居るのだろうか。僕はまだ小学三年生なのだろうか。リフちゃんもまだ小学五年生なのだろうか。
リフちゃんが古井戸を指差し、ヘヤピンを落とした、と言った。が、もう一方の手を不自然に背中へ回していた。明らかにヘヤピンを隠し持っている。
僕は、目の前にある古井戸を覗き込んだ。
いつだって、今だって、そしてこれからも、僕はずっとリフちゃんの言い成りに生きて行くのだ。僕はそれを半ば当り前の事として受け入れ、愉悦に感じているのだ。
忍び足で近付いて来るリフちゃんの気配を背中で感じながら、僕は終りのない遊戯に身を投じる覚悟をした。
古井戸に纏わる そうざ @so-za
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