3-9 人を傷つけた痛み
目を開けると樹の顔があった。心配そうな表情を浮かべている。何を心配しているのだろう。気持ちよく寝ていただけだ。起こさないで欲しい。遅刻でもするというのでない限り――遅刻? ああ、だから心配そうな顔をしているんだ。遅刻するんじゃないかって。
はっとなり、梓は飛び起きた。樹は今は独立して一人暮らしをしている。遅刻を心配する人間は一緒に暮らしている柊のはずだ。
あたりを見回す。白衣の若い女性が樹の隣にいた。保健室の先生だ。梓は保健室のベッドに寝かされていた。
「いっくん? どうして? 何で僕は保健室に?」
「それはこちのセリフだ。柊兄さんから連絡があって、お前が学校で倒れたからかわりに迎えに行ってくれって」
「柊兄さんは?」
「出張からの帰りの新幹線に乗っているところだってさ。倒れたって、何があったんだ?」
「ええと……」
文化祭だったはずだ。軽音学部は講堂でライヴ演奏する予定で……いや、講堂でのライヴは出来なくなった。吉元のせいで――
「頭を打ったんでしょうか? 何だか混乱しているみたいですが」
樹が不安げに保健室の先生をうかがった。保健室の先生は小首を傾げてみせた。
「見た目には傷はないようですが。私はその場にいなかったので、何が起きたかわからないんです。気を失ったからって先生方に運ばれてきたので。もしかしたら、意識を失って倒れたかしてその時に頭を打ったかもしれませんね」
「意識を失うって?」
「吉元くんの話だと、いきなり殴りかかってきて、また殴られると思っていたら、藤野くんの方が意識を失ったそうなんです」
「殴った? 梓が?」
樹が眉をひそめ、梓に向き直った。
「どういうこと?」
「殴ったのは本当だよ。その後のことは……覚えていない」
「殴られた子の怪我の具合は?」
すかさず樹が保健室の先生に尋ねた。
「頬が腫れて、口の中を切っていました。幸い、歯は折れていなくて軽傷で済んでいます」
「そうですか……」
樹の顔面から血の気が引いていた。樹の方が倒れてしまいそうだ。
「先生、僕、もう少し保健室で休んでいっていいですか?」
「ええ、気分が良くなるまでいていいわよ」
保健室の先生は衝立のむこうへと去っていった。
「何だか、僕より吉元の心配をしているみたいだ」
「どうして殴った梓が倒れたんだ?」
梓と樹と同時だった。
「吉元?」
「僕が、その、殴った生徒だよ」
「ああ。当たり前だろう。下手したら死んでいたかもしれないんだ。そうなったらお前はどうなる? お前のことを心配しているんだ」
樹は今にも泣きだしそうだ。幼い頃、母親がわりの樹にはよく叱られたものだった。いたずらをしたり、してはいけないと言われたことをしでかした時など、真っ赤な目で叱られた。厳格な祖母に叱られる時は冷たく突き放されるような感じだったのに対し、樹に叱られている時は叱っている樹自身が泣きそうだった。樹を泣かせてはいけないと幼心に反省し、いつの間にかいたずらをしなくなった。
吉元に殴りかかっていった時、後先は考えていなかった。吉元の身に起こったかもしれないこと、自分に降りかかったかもしれない最悪の結末を想像すると梓の背中を冷たいものが駆け落ちていった。
「ごめん……」
右手が熱く痛んだ。手の甲の関節が赤く腫れている。吉元の頬を殴った箇所だ。人間の体は柔らかいという思い込みがあったが、意外と硬い。梓は赤く腫れた部分をさすった。
「人を殴ると自分が痛いだろ?」
樹が穏やかな声音で言った。
「人を攻撃して傷つくのは自分だ。痛いほどわかったろう?」
梓はこくりと頷いた。
「何があったんだ?」
「あいつが、吉元があんなことを言うもんだから」
「あんなこと?」
「うん……。あいつ、静佳にむかって『死ね』って言ったんだ」
ああと唸り、樹が天井を仰いだ。その目が固く閉ざされている。吉元がうんだ言霊を見たくないのだろう。梓も聞きたくはない。樹は花として、梓は音として言霊をとらえる。嫌な音だった。黒板に爪をたてるような音だ。思い出しただけでも気分が悪くなり、梓は耳を塞いだ。
「何でそんなことになった?」
「あいつ、静佳を目の敵にしていて、嫌がらせばかりしてくるんだ」
静佳のスマホが壊されたこと、路上ライヴでの一円玉の嫌がらせ、ネットでの書き込み……静佳が受けてきた嫌がらせの数々を梓は一気にぶちまけた。
樹は顔の前で両手を組み、黙って梓の話を聞いていた。組んだ手のせいで口もとが隠れてしまい、樹の表情が読み取れない。
「文化祭の出し物の『縁日』で、静佳がちょっとしたへまをやったんだ。でも、その失敗だって吉元たちがわざと静佳を手伝おうとしなかったせいなんだ。それなのに、吉元の奴、イライラし始めて、静佳の悪口を言い始めたんだ。最近、人気があるのは口がきけなくてかわいそうっていう同情にすぎなくて、本音では足手まといだとか邪魔だとか思っている。みんなお前をうっとおしく思っている、お前なんか『死ね』って……」
「それで殴った?」
「取り消させたかったんだ。わかってる、わかってるよ。生まれてしまった言霊は取り消せないって。でも、どうにかしたかったんだ……」
樹が組んでいた両手をほどき、深いため息をついた。
「謝らないとね」
「どうして?!」
梓は樹に食ってかかった。
「悪いのは向こうなんだ! あいつ、静佳に向かって『死ね』って言ったんだ! 『死ね』って、絶対に口にしてはいけない言葉だ。樹だってわかってるよね? 『死ね』という言霊が生まれてしまった以上、静佳が死んでしまう!」
梓は両手で顔を覆った。閉じた瞼の裏に、「死ね」という言葉を浴びせかけられた時の静佳の顔が浮かぶ。まるで死人のように真っ青な顔をしていた。
言霊の力は強い。存在してしまった以上、言霊はその言葉を現実化させる。藤野の家の人間は言霊の力を嫌というほど知っている。人を呪うな、人の死を願うな、幼い頃から叩き込まれてきた。
「そうだね。死ねと言われた以上、静佳という子は死ぬ運命にある」
「それでもまだ、樹は僕に吉元に謝れっていうの?!」
「そうだよ」
樹はきっぱりと言い放った。
「どんな理由があろうとも、梓は人を傷つけた。そのことに関しては謝らないとならない」
「納得いかないっ」
梓は声を荒げ、樹を睨んだ。梓の剣幕にも樹はひるまない。
「窓ガラスを割って人助けをしたとする。人助けだとしても、ガラスを割ったことについては謝らないとならないよね」
子供を諭すかのように樹はゆっくりと言った。穏やかな口調だが有無を言わさない力強さがある。
「でも、まずは『死ね』の言霊をどうにかしないとな」
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