ツインズ・バスタード

車田 豪

第1話・ケース

「そのケースを持って逃げろ! 絶対に渡してはならんぞ!」


 そう怒鳴った父を研究所に置きざりにして、私、ミシェル・インヴァースは走り続けていた。少し前に買ってもらったウェッジソールのサンダルが所々欠け始めている。


 お気に入りのサンダルだったのに。追って来る連中は、そうやって嘆く時間もくれないみたいだった。綺麗な仕立てのスーツパンツの裾を躊躇なく汚し、革靴を鳴らしながら、私の事を血眼になって探し回っている。


 一旦足を止め、隣に捨て置かれていた鉄製の大きなゴミ箱の中に身を隠す。ゴミ箱なんて最近はめっきり見なくなった。町の至る所に配備された清掃ロボットが、街に出るゴミをすべて回収してくれるから、人間がゴミを集める必要が無くなったのだ。


 そのせいか、そのおかげか、どちらと言うべきなのか分からないが、町行く人のポイ捨てを見る機会が多くなったような気がする。


 それで出たゴミは、すぐさま清掃ロボットが回収してくれる。生活が便利になった分、人間が怠惰になったという訳だ。


 ゴミ箱は樹脂製の蓋が着いているタイプだったので、少しだけ蓋を持ち上げ、隙間から中へ転がり込んだ。打った肘を摩りながら、ゴミ箱の側壁に背中を預け、体育座りの態勢で息を潜める。


 ゴミ箱の外を足音が通り過ぎていく。「こっちだ!」だの「何処へ行った!?」だの「見失うな!」だの、飛び交う怒号が段々と離れ、周りが静かになったのを確認すると、私は蓋を少し持ち上げ、外の様子を確認してから外に出た。


 その時、ゴミ箱の縁に眼鏡をぶつけ、鼻先に鋭い痛みが奔った。


「痛ッ……!」


 思わず発した言葉を抑え込むように、私は口元を押さえた。誰かが近づいて来る気配は無い。よかった、誰にも聞こえなかったようだ。


「うわっ、ドロドロだよ」


 着ている白いワンピースの裾に、赤い錆び汚れが付着しているのが見えた。三日前、父が買ってくれた物だった。「ミーシャにはこういうのが似合うと思うぞ」と言葉を弾ませながら言った父の笑顔を思い出す。


 父が無事でありますように。私はそれを切に願った。


 眼鏡のフレームを右手の指でつまむ。右目のレンズが切り替わり、周辺地図が目の前に浮かび上がった。現在地は路地裏だ。ここから少し行けば、街の大通りに出られるようだ。


 大通りに出て、そこから先は? 


 わからない。何もかもが一瞬にして変わってしまった。父は安全な場所へ行けと言っていたが、何処が安全な場所なのか見当もつかなかった。


 取り敢えず街を出る。そう決心して、大通りの方へ歩を進めた。


 雨上がりにサンダルを履くのは失敗だった。足を上げる際に、靴裏にへばりついた泥が飛び、白いワンピースを汚すからだ。


 足をとる泥に四苦八苦しながら、大通りにたどり着いた。路地裏から顔を覗かせ、左右に目をやってみる。ちらほらと通行人の姿が見えたが、追って来たスーツの連中は見当たらなかった。


 左へ折れ、そのまま真っ直ぐに進む。繁華街の歩道のすぐ側には、飲食店や高級ブランド店の入ったビルディングが所狭しと並んでいて、そこから伸びたひさしが歩道の上を覆っていた。暑い日や雨の日には、日よけや雨除けになるのだが、日の暮れかかった今の時間帯では、何ら意味を成していない。


 庇の影に身を隠しながら進もうかと思った矢先、取り付けられていた照明が点灯し、大通りの歩道を明るく照らした。何てタイミングが悪いのか。


 端に寄り、顔を俯かせながら歩道を進んだ。さっき眼鏡に映した地図で、この先にバス停があるのは分かっている。まだ終電の時間じゃない。それに乗って、取り敢えず街を出よう。


 そう独り言ちながら進んでいると、歩道の一か所を借りて露店を出している中華料理屋さんの店主に声を掛けられた。


「ハイ、お姉さん。肉まんヤスイヨ」


 片言で話しかけられ、つい言葉に詰まってしまった。


「お姉さん旅行者? 何も食べてないネ、肉まん食べてくヨ」


 右手にアタッシュケース。服は涼しげなワンピース。今の姿では、旅行者と間違えられても仕方ないかもしれない。


 人の良さそうな笑みで差し出された肉まんを受け取る。


「二百四十アル」

「えっ?」

「肉まん、二百四十ヨ」

「あっ、お金」


 そうだ、お金だ。そう思った所で、財布を研究所に忘れた事に気が付いた。これでは肉まんどころか、バスにも乗れないじゃないか。


「お姉さん、お金」


 そう言って手を着き出す店主の表情に、怪訝そうなものが浮かび始めた。


「無銭飲食、駄目ヨ」

「あ、はい、お金ですよね?」


 そう場を取り繕うが、無い物は出しようがない。どうしよう。ふと店主から視線を逸らした先に、テーブル席に座った若者二人の姿が見えた。


「……で、この額」

「いくら何でも使い過ぎだよ」

「仕方ねぇだろ、あれポンコツなんだから」

「だからあの時点で……」


 そんな会話をが聞こえたが、今はそれどころじゃない。無いお金をどう工面するのか、いいアイディアが頭の中に浮かんでこない。


「あ、あの……また今度に――」


 意を決して肉まんを突き返そうとした時、歩道をずっと行った先から怒号が響いた。


「居たぞ! あそこだ!」


 ハッとして声を方向を向くと、追って来たスーツ姿の連中が目に入った。マズい! と思った矢先、その先頭に居た男が躊躇なく拳銃を引き抜いて、私の方へ向ける。


「キャッ!」


 咄嗟にその場に屈みこむ。瞬間、銃声が鳴った。少しの間があって、私の前で何かが倒れ込む音がした。


 身を低く保ったまま、追手が来た方向とは逆に進む。露店のすぐ側を通り抜ける時、ふと右を見ると、頭を撃ち抜かれてこと切れている店主の姿が目に入った。


「ひッ……!」


 息を詰まらせ、腰が抜けそうになる。しかし、逃げなければ自分もこうなってしまう。そう思い、私はなんとか立ち上がって、すぐ側にあった路地裏へ続く側道へ必死で逃げ込んだ。


 頭を上げた私のすぐ側の壁に銃弾が埋まり、砕けたコンクリート片が頬に散らばった。


「痛ッ! もう!」


 先程抜けて来た路地裏よりもっと狭い側道に身を押し込み、奥へ奥へと進む。やっと広い空間に出て、後ろを振り返ると、スーツの連中がすぐそこまで迫って来ていた。しかし、小柄な私ですら狭かった道なので、身の大きな彼等はかなり難儀なんぎしているようだ。


 彼等を待つ義理は無いので、私は路地裏の奥へ逃げ込もうとする。


 その時、突然前から現れた大男が私の首を掴み、私を路地裏の端へ投げ飛ばした。


 私はされるがまま地面に倒れ込み、咳き込みながら上体を起こす。雨上がり、土の上に投げ飛ばされたため、ワンピースが泥だらけになってしまった。


「さて、ケースを渡してもらおうか、お嬢ちゃん」


 私を投げ飛ばした男が言った。横にも縦にもデカいブ男だった。幸い投げ飛ばされた先の空間は広く、ブ男の左右に空間が開いている。


 男の隙をついてそこへ逃げようと考えたが、甘かった。後から来たスーツの連中が、逃げる得物を追い詰めるハイエナの様に左右を固めたのだ。


 前を囲む男達は皆、見つけた獲物に舌なめずりするかのような、イヤらしい笑みを浮かべている。


 私は父のケースを両手で抱え込み、後ろへ這いずった。ゴツンと背中が何かにぶつかる。エアコンの室外機だった。


 室外器の向こうに聳え立つのは、建物の外壁だ。


 逃げ場が無い。


 私は左手をケースから放し、地面掬い取った泥をブ男の顔に投げつける。


「近づかないで!」


 精一杯声を貼り上げて見たものの、ブ男は獲物が抵抗することに喜びを感じる変態だったようで、イヤらしい笑みをより一層強く歪めた。


「イイねぇ、そう来なくちゃハリがねぇ」


 そう言って、ブ男は私の手からケースをひったくった脇へ投げ、ワンピースの胸元に手を掛ける。その手を引き剥がそうと手首を掴み返して見るが、ブ男の力は強く、ビクともしない。


「どうした? もっと抵抗しろよ。じゃねぇと――」


 ブ男は息が掛かるくらいまで顔を近づけて言い、私のワンピースを小さく破いた。


「やめて!」


 叫び声を上げ、ブ男の顔を押しのけてみるが、やはりビクともしない。


「助けて! 誰か――」


 そこまで言った所で、口を塞がれた。私の目に涙が滲み、視界が揺れる。


「ケースは後回しにして――」


 ブ男がそこまで言った時、別の声が響いた。ブ男の声でも、スーツの男達が出した声でも無いようだった。


「なぁ、一つ言いてぇんだけどさ」


 軽薄な若者の声、というのが、ここまでぴったりと当てはまる声も無いだろうと、私はブ男に馬乗りになられながら思った。妙に冷静な頭に、自分でもびっくりした。


 スーツの男達が声のした方に向き直る。ブ男も私から顔を離し、上体を捻って声の方を向いた。


「恥ずかしくねぇのか? ガキ相手に大人たちが寄ってたかって」


 口元を腹立たし気に歪め、両手を紺色のカーゴパンツのポケットに突っ込んでいる。金髪をツーブロックに借り上げた頭に、快活そうな顔の鼻の辺りに大きな傷跡があった。灰色のTシャツを着て、真っ赤な上着に腕を通している。上着には金色のアクセントラインが入っていて、サイバーパンクな雰囲気のある厳つい上着だな、と私は思った。


「何と言うか」


 また別の声だ。と、思った矢先、金髪の若者のすぐ隣の空間がにノイズが走った。バチバチという電撃が弾けるような音と共に、いきなり姿を現したのは、髪の長い青年だ。


「女の子にする仕打ちじゃないね」


 甘い声、というのはこういう声の事を言うのだろう。実際、聞いていると無意識に警戒を解いてしまいそうな声だった。肩まで伸びたサラサラの黒髪の下から覗くのは、非常に整った、端整な顔だ。白いワイシャツに、すらっとした黒のチノパン。羽織った黒のロングコートがよく似合っている。というか、何を着ても似合いそうな顔だ。


 ただ、その二人がカタギで無い事に気づくのに、時間は掛からなかった。何故なら、金髪の彼の腰には二丁の拳銃が、コートの彼の左手に、時代劇でしか見た事の無いような、鞘に収まった日本刀が握られていたからだった。


 二人は賞金稼ぎだった。それを知るのは、もう少し後になってからの事だ。









 


 


 

 





 

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