アスタ・ルエーゴ
うつりと
星メルカド
常夏のマイアミ。10月だというのに、真夏と同じような気候だ。
アメリカとはいえ、海に近いマイアミ。空調の効いたターミナルを出ると、青空と、日本の夏に近い、ちょっと蒸し暑い空気が広がっていた。
アヤメは、一人でマイアミにやってきた。
別に失恋したわけではない。
自暴自棄になったわけでもない。
昔読んだ小説に、アヤメと同じ24歳の女性が一人でアメリカ東海岸を旅行し、最後にマイアミにたどり着いた、という話があり行ってみたくなったのだ。
ターミナルを出て、乗り合いのシャトルバンに乗り、ホテルを目指す。
予約したホテルに着いたので、角刈りで背が高く、ちょっと目付きの鋭い若いアジア系男性の運転手に運賃を払い「Thank You」と伝えてバンを離れようとすると、チップを要求された。
中々慣れないこの「チップ制度」。何かサービスを受けたら、必ずチップが必要になる。アメリカに来たのは初めてではなかったけれど、前回は学校の団体旅行で、チップが必要な場面では添乗員さんが一回ずつ「XXドルくらいのチップを置いてくださいね~」と教えてくれたので問題は無かった。今回は、全て自分でやらなければならない。
ビーチ沿いのホテルにチェックインして、宿泊料を払い、鍵を受け取った。ポーターなど居ない安ホテルなので、自分で荷物を運んで部屋へ向かう。マイアミはシーズンオフの時期で、宿泊客らしき人とすれ違うことも無かった。アヤメはとりあえず疲れたので、ベッドの上に寝転んで大声で叫んでみた。
「やっと会えたぜ、マイアミ~!」
アヤメは一息つくと、必要な物を買うためにホテルを出てショップが立ち並ぶ界隈に向かった。
道路沿いのパームツリーやアール・デコ調の建物が南国に来たことを教えてくれる。
現地で必要なものは現地調達が一番!と思ったアヤメが日本から持ってきた荷物は、最低限の着替えや洗面用具だけ。ショップを回って、服やサンダル、日本では見かけないようなお菓子や飲み物などを購入した。
買い物も一通り終わり、いくつかのショッピングバッグを手にしたアヤメがホテルの部屋のある二階に上がると、内装工事をしていた、目が大きく肌がちょっと浅黒いラテン系の若い男性に「Hi!」と声をかけられた。アヤメも「Hi!」と返したら、彼は近づいてきて、声をかけた。
「どこから来たの?」
「日本の東京からよ。日本はご存知?」
「名前は知ってる。行ったことは無いけどね」
「あなたの出身は?」
「コロンビアだよ。知ってる?」
「ええ、もちろん。でも行ったことはないわ」
アヤメの中でコロンビアという国は「治安が悪い」というイメージしか無かった。彼は、いわゆる「出稼ぎ」でマイアミに来ているのだろうか?
もしかしたら、不法就労とか? でも、そんなことを思ってしまったら、相手に失礼だと思い、顔には出さなかった。
彼が
「僕の名前はアルベルト。A・L・B・E・R・T・O、ね。君の名前は何ていうの?」
唐突に聞いてきた。
「アヤメよ。A・Y・A・M・E、でアヤメ」
アルベルトは背は高く、顔立ちは精悍で整っており、スタイルも良く、手足も長い。モデルみたいな外見をしていた。そして、ずっとニコニコと笑っていて、話す口調もとても陽気だ。
仕事の邪魔になっても行けないので「またね」と言って自分の部屋に入った。
部屋に入って冷房をつける。日本の暑さほど蒸してはいないが、それでも蒸し暑い。ベッドに横たわり、旅行ガイドを広げた。
ただ、マイアミには観光というよりは静養に来た感じだ。
人・人・人! 平日は常に人が絶えない暑苦しい東京都心のオフィス街。
やってもやっても次から次から増やされて終わりのない仕事。
「アヤメくんには期待しているんだよ」
上司はそう言うが、そんなの嘘だ。締め切りギリギリの仕事を沢山抱え、抱えきれなくなった面倒な作業をアヤメに回してくる。断りたいと思ったことは数え切れないくらいあるが、上司は「断る」ということを決して許さず、なんだかんだと押し付けられ、アヤメは常にたくさんの仕事を抱えていた。
一人暮らしの会社近くのマンションに帰っては寝るだけの生活。
会社は「土日祝日休み。週休二日制」となっているが、最後に土日の両方を休めたのは、いったいいつだったろうか? 有給も代休も溜まりに溜まっている。
そんな日常に心底嫌気が差し、仕事が一区切りする時期に、会社に「休みますっ!!!(休ませてくれないなら、辞職しますから!)」とだけ言い休暇届けを出してマイアミにやってきた。
帰国すればまた「心底嫌気がする日常」が待っているのだろうけれど、今は、ただただマイアミの空気に愛されていたかった。
翌日、目が覚めて時計を見たら午前11時を過ぎていた。
チェックイン時に、このホテルでは朝7時~10時のあいだにフロントの前のロビーでトーストとコーヒーの無料朝食が付く、と説明を受けていた。
10時は過ぎてしまったので、とりあえず身支度をしてブランチを食べに行く準備をする。マイアミの太陽はジリジリと熱く、日焼け止めは欠かせない。体中に塗ったくってアヤメは部屋を出た。
昨日仲良くなったアルベルトに出会った。
「おはよう、アヤメ! どこか行くのかい?」
相変わらず陽気な口調だ。
「朝ごはん、食べそこねちゃったから、食べに行くのよ」
「朝ごはん、って、もう昼だよ」
「朝と昼と、2食分食べてくるわ!」
そう明るく言うと、彼は陽気に笑い「またね」と言ってくれた。
ホテルの周辺にはあまり食べるところが無かったので、目についたファーストフード店で食事をすることにした。食事をしつつ、午後のプランを考えた。毎日毎日仕事に追われまくっていたのにいきなり暇になってしまったので、何をしたら良いか分からないのだ。
アルベルトならなんて言うかしら? 「ボーっとしてみたら?」「ビーチに行ってみたら?」とか、それともラテン系らしく「歌ってみたら?」とか「踊ってみたら?」とか?
アルベルトが一緒に居たら、ビーチで歌って踊ってくれるかもしれない。
色々考えているうちに、アヤメは楽しくなってきた。
ビーチで一人で歌いながら踊ってたら、日本だったら変人扱いされるかもしれないけど、マイアミなら許してくれる気がする。アルベルトもそうだけれど、マイアミの道行く人達は、本当に陽気なのだ。
そう思って、ビーチに行くことに決めた。海で泳ぐなんて、何年ぶりだろうか?
ホテルに戻ると、またアルベルトに出会った。
「アヤメ、ご飯は食べたかい?」
と聞いてきたので笑って答えた。
「うん。お腹いっぱいよ」
すると、アルベルトがニコニコしながら聞いてきた。
「今日はこれからどうするの?」
「ビーチに行こうと思って」
「それは良いね!ところでさ……」
「ん?」
「今日の夜、暇?もし暇だったら、どこかに食事に行かない?」
誘ってきた。そしてアヤメに近づいて耳元で
「You are Beautiful……」
囁いた。
アヤメは一瞬驚いたが、それがラテン系特有の挨拶みたいなものだということは知っていたので、赤面せずに済んだ。でも、悪い気はしない。
アヤメはアルベルトの外見を今一度見た。アルベルトはイケメンの部類に入ると思う。ラテン系特有の陽気さを持ち合わせており、話すときはいつも人懐こい笑顔を浮かべている。正直、アヤメだって心惹かれていないといえば嘘になる。でも、知り合って2日も経ってない外国人の男性と夕食を食べに行って大丈夫なのだろうか?
実際、アメリカに限らずだが、旅行者が現地の人と仲良くなって、家に招待されたら飲み物に強力な睡眠薬が入っていて、眠っている間に身ぐるみ剥がれて公園に捨てられ、パスポートも財布も失ってしまった、なんて話はよくあることだ。
懸念事項は他にもある。マイアミは治安が悪い。昼間はそうでもないが、日が暮れてくるとガラが悪そうな連中がウロウロしている。だからアヤメも日が暮れてからは極力ホテルの外には出ないようにしていた。そんな夜に、アルベルトと二人で食事に行って、変なチンピラみたいなのに絡まれて、アルベルトがやられちゃったら私はどうすればいいのよ?!警察沙汰にでもなったらやっかいだ。
アヤメの頭の中では「やめとけ~!やめとけ~!」と警告ランプが作動していた。
「アルベルト、ごめんなさい。今日の夜はやることがあるの。また今度ね」
アルベルトのがっかりした顔は見たくなかったので、さっと立ち去り自室に入った。
嫌われちゃったかな……「今度」なんて来ないのだろう、きっと。
翌日も目が覚めたら11時を過ぎていた。ああ、また朝ごはん食べそこねちゃったな。ベッドから出て日焼け止めを塗ったくって外出の準備をする。今日はアルベルトに出会わなかった。お仕事、お休みなのかしら?
そう思って、またも昨日と同じファーストフード店に入る。
午後は何をしようかな? ホテルのプールサイドでぼーっとしてみようか?
でも、正直言って宿泊しているホテルのプールはキレイとは言えない。またビーチに行こうかな。それともまだ入ったことがないお店でショッピングしようかな?
とりあえず、ブラブラ歩いてホテルに戻った。
ベッドの上に横たわると、強烈な睡魔に襲われて、そのまま眠ってしまった。
翌日も、その翌日も、アルベルトには出会えなかった。
お休みなのか、別の場所で作業をしているのか、現場が変わったのか……。
「アルベルト……もう会えないのかしら?……」
「そんなの、イヤ!」アヤメは心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。
更にその翌日、「アルベルトは居ないかしら?」と、ホテル内の廊下をウロウロしていると後ろから「Hi!」と聞き慣れた声が聞こえた。
「Hi!アヤメ!どうしてたの?」
振り返ると、ニコニコ顔のアルベルトが立っていた。
まさか「あなたを探してウロウロしていたの」とは言えず「ホテルの中を散歩してたのよ。外は暑いでしょう?」と言った。
「今日はちょっと忙しいんだ。またね」
彼はそれだけ言い残し、ニコニコしながら去っていった。
折角久しぶりに会えたのに全然喋れなかった……アヤメはちょっぴり寂しさを感じながら自分の部屋に戻った。
楽しかったマイアミも明後日で終わり。明日はマイアミ滞在最後の日だ。明後日はフライトがかなり早いので、早朝にホテルを立たなければならない。アルベルトに会えるとすれば、明日が最後のチャンスだ。会えるかな?
会いたいな? うん、すごく会いたい!恋にも似た予感? ううん、これはきっと恋。
翌日、帰国前日。家族や友人、職場の人達にお土産を買うためにショッピングに行こうとしたらアルベルトとばったり出会った。アルベルトはいつものように陽気に話しかけてきた。
「Hi!アヤメ!どこか出かけるの?」
「うん、お土産を買おうと思って」
「お土産?誰に?」
「家族や友人、職場の人たちによ。明日、東京へ戻るから」
「そうなんだ。それで、次はいつマイアミに来るの?」
アルベルトはニコニコしている。アヤメは声を振り絞って言った。
「アルベルト。あのね、次はいつマイアミに来られるか、分からないわ。日本とマイアミって、ものすごく遠いの。時差も14時間もあるの。それに、日本の会社は、まとまった休暇が中々取れないのよ。今回はホントに特別に休暇を取って来たの。だから、次にマイアミに来られるかどうかは、わからないのよ」
アルベルトの顔から笑顔が消えた。
「そんな……じゃあ、僕はもう二度とアヤメに会えないのかもしれないの?」
「そういうことになるわ。私もまた、あなたに会いたい。でも、仕方ないのよ」
アヤメもアルベルトも泣きそうだ。
「じゃあ、じゃあ、せめて、今日、一緒に夕食を食べない?」
アルベルトの必死の形相が伺えたが、明日は早朝6時にホテルを立たなければならない。
「ごめんなさい。明日、早朝にホテルを立たなければならないの」
アルベルトのがっかりした顔が見たくなくて、アヤメは顔をあげられない。
「分かった。じゃあ、住所を教えてよ。手紙、書くから」
「うん、分かった。教えるね。あまり難しい英語はわからないけど」
「僕の英語だって、酷いよ。ちょっと待ってて。手を洗ってくるから」
アルベルトの顔にはいつもの笑顔が戻っていた。
しばらくして、アルベルトが戻ってきた。ペンでメモ用紙に住所を書いてくれた。アヤメも自分の住所を書いて渡した。
アルベルトはいつもの屈託のない笑顔で
「アヤメ。君に出会えて良かった。本当に良かったよ。」
そう言い、アヤメをグイと引き寄せて、軽く抱きしめた。そして耳元で
「アヤメ、You are beautiful」
囁くと、額に軽くキスをした。
アルベルトの母国語はスペイン語だ。「さようなら」という言葉は、英語にもスペイン語にもあるけれど、日本人は「さようなら」っていう言葉はあまり使わない。「またね」とか「また明日」とか、そんな言葉を使う。
だから私もアルベルトには「アディオス(さようなら)」とは言わない。「アスタ・ルエーゴ(またね)」って言葉を使おう。
「アスタ・ルエーゴ、アルベルト!」
自室へ戻ると、アヤメは堰を切ったように泣き出した。
もっと一緒に居たかった。何で夕食のお誘い、断っちゃったのよ? 食事が深夜になったとしても、ホテルまで送ってもらえばよかったじゃないの?
夜中まで飲んで、タクシーで帰って数時間寝て出社、なんて得意技みたいなもんじゃなかったの?
何で、何で断っちゃったんだろう……心の奥底で警告ランプが鳴ってたのね、きっと。私の心の99%が「お誘いに乗りたい!」と思ってたけど、残りの1%が私を止めたのね……。恋よりも、トラブルを避けることを取ったのね、私。恋する女子、失格……かな?
これは「失恋」に入るのかしら? ううん、それはきっと違う。だって私の恋は始まったばかりで、その思いは淡すぎて「恋」にすらなってなかったのだろうから。
アルベルトに「私のこと、どう思う?」って聞いたら「好き」って言ってくれたかしら?
帰りの飛行機の中、アヤメはアルベルトに向けて長い手紙を書いた。自分でもこんなに長文の英語の手紙が書けるなんて、思ってもみなかったが。
「あなたのこと、マイアミのこと、コロンビアのこと、仕事のこと……聞きたいこと、知りたいことがたくさんあります。これから書くから手紙で教えてね。私のことも教えるから」
そう、書いた。
日本に帰ってから、エアメールで手紙を出した。が……いつまで経っても返事は来なかった。「住所不明差し戻し」にはなっていなかったので、アルベルトの元に手紙は届いているはずなのだが。
アヤメはそれから、更に2通の手紙を書いた。でも、返事は来なかった。
あ~あ、これだからラテン系は……アヤメは「今頃、別の女性に『You are beautiful』とか言ってるのかしらね?」と、思って苦笑した。
「アスタ・ルエーゴ、マイアミ!」
アスタ・ルエーゴ うつりと @hottori
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