腐敗する私と死なない貴方
津尾尋華
第1話 名家の私と腐敗の呪い
その日から、私の身体は腐り始めた。
指先から、徐々に体全体に広がっていく腐敗。絶え間ない痛みと、何もしなくても口と鼻を埋め尽くす、汚物を発酵させたような強烈な臭い。そうして私は全てを失った。
十五の誕生日の時だった。
大諒国の八名家の一つ
私は父と共に訪問客からの挨拶を受けているところだった。何か匂う、腐ったような匂い。まさか鈴家の者が来客への食事に腐った物を出すはずがない。そう思いつつ、心配になって父に報告しようとした時だった。喉を潤す為に手持ちの杯に口をつけた瞬間、強力な臭気と吐き気を催すような生温い酸味、すえた苦味が口の中に広がった。鼻に突き抜ける腐敗臭。生ゴミを口と鼻に詰め込まれたように、その臭い以外何もわからない強烈な臭気。あまりにも不快で杯を落とし、座り込んでその場で吐き出す。行儀が悪いなどと考える暇もなかった、口の中から不快な味がなくならない。
「大丈夫か? 翠蓮?」
「どうしましたお嬢様⁉︎ 」
「腐ってる……。ゴホッ! オホッ! ベッ! 臭いがっ!」
父が私を気遣い、何が起こったのかわからず狼狽している中、優秀な使用人が水を運んできた。涙を流して苦しんでいた私は、口を洗おうとして含んだ水から、新たに更に酷い臭気が広がるのを感じて盛大に咽せた。同時に左手の指先が痺れるような痛みを発した。
「痛いっ! 痛いっ! 指がっ!」
右手で左手を押さえて、痛む指先を見る。
白かった指先は灰色に変色し、ぐずぐずに膨らみ、ドロドロと黄色い膿を流していた。そして、そこからは、口の中の比ではないほど強烈な腐敗臭が漂っていた。
「イャァァァァー!」
そうして私は絶叫して、意識を手放した。
***
目が覚めても、臭いはなくなっていなかった。
そして、左手の指先が腐っているのも夢ではなかった。
父は、手を尽くしてくれた。州で最高の医者、国のお抱え祈祷師、軍の呪術師、金に糸目をつけず最高の治療を受けさせてくれた。結果、解ったことは少なかった。これが腐敗の呪いであり、治すことはできないこと。徐々に進行して、半年ほどで私の命がなくなること。人間には解呪が不可能なほど強力な呪いであること。呪いをかけた者でなければどうしようもできないこと。
私はそれを、床に臥しながら、いたましそうな顔をした軍の呪術師より伝えられた。
その頃には、左手の腐敗は手首まで進んでいた。目に見える形で「死」が進行してくるのがわかる。左手からは常に痺れるような激痛が、嫌が応にも呪いの存在を伝えてくる。身体の内側から腐る呪いは、味覚と嗅覚にも影響を与え、酷い腐敗臭が口と鼻を漂っている。何を食べても、水を口にしてさえ腐った味しかしない。歯磨きなど反吐を口に塗りつけているような感覚にさえなった。食事が苦痛になった。
父は、その後も、裏社会の祈祷師や、呪い師を連れてきたが、一向に成果は上がらなかった。そして、私も流石にここに至って、おそらく自分は死ぬのだろうということを理解してしまった。左手の腐敗は肘まで進んだ。嗅覚も味覚も痛覚もだが、身体が徐々に腐っていく「進行」を視覚により突きつけられる恐怖は耐え難いものがあった。痛みも臭いも苦痛ではあったが、それ以上に毎日少しづつ身体を侵食するこのおぞましい腐肉と膿と腐汁が全身に広がっていく事を想像すると、気が狂いそうだった。
おまけに、家中のものも、招かれた祈祷師や呪術師も、時には父と母でさえ、自分の事を厭わしく見るのだ。いや、それは私の惨めな自尊心と、ぶつけようのない被害者意識と、どうしようもない生への執着が、そう感じさせただけだったのかもしれない。父も母も、最善を尽くしてくれたことに疑いは無かった。
しかし、「腐敗の呪い」などという得体の知れないものが歓迎されるわけがない。他者に感染しないのかという不安も、穢れたものがいる家という蔑視も、物理的に家の外にまで広がっていく臭いも、鈴家が名家だと言っても、いや、名家だからこそ抑えて置けるものではなかった。
私は鈴家の持つ、人里離れた山にある別荘に移動することになった。これ以上父と母に迷惑をかけたくなかった私は、自分からそれを望んだ。毎日、家中の物が食事や必要な物を届けてくれる。ほとんど可能性はないが、病状が好転するか、私が死ぬまで、私はここで過ごすことになる。左手の腐敗は二の腕まで進んだ。もう全く動かすことはできない。
山中の庵で暮らす生活がはじまった。鈴家の翡翠と呼ばれた髪は白く変色し、左腕はピクリとも動かない。一応包帯を巻いてはいるが、治療というよりも、腐肉を見たくないから隠しているだけのことだった。
家族とは離れ、八家の一つと約束されていた婚約は解消、宮廷で行われる才人を集めて行う演奏会への出演は辞退、もっとも左腕が動かないのだ、楽器が演奏できるはずがない。鈴家の役に立つこともできず、寧ろ汚名を与えてしまった。歴史、教養、楽器、舞、書、香道、馬術に体術、さまざまな分野で師父を集め、最高の教育を受けさせてもらったのに何の恩も返せなかった。
龍笛の腕ならば、宮廷楽師にも負けないという自負があった。とんだお笑いぐさだ。清浄な音色は邪気さえ祓うと言われた。その私が、不浄の極みともいう腐敗の呪いで死のうとしている。
鈴家の後継者も残せず、呪いにしろ奇病にしろ、名家の名は底まで堕ちた。何もかも失った。
八家の娘として、恥ずかしくないようにと、自国のみならず近隣諸国の歴史・風俗・言語・文化・人物、教養を、立派な淑女として、舞を、笛を、書を、歌を、香道を、女らしく、所作を、身だしなみを、話術を、装いの流行を、感性を、研鑽してきた。完璧であることが、翠蓮の誇りで、生きる意味だった。
何もかも失って、思う。
自分の生はなんだったのだろう。
幼少の頃は違った。翠蓮にも子供らしい夢があった。
人間を攻め苛む邪悪な八体の妖魔、それを封じて諒国を作った「建国の八英雄」。翠蓮は、その物語が好きだった。鈴家の高祖・
勿論、少年でありながら機転を効かせて小気味良く難敵を討伐する理知的で正義感の強い太祖・「大英雄」
今、全てを失って後悔が押し寄せる。
ただの一度くらい、我儘を言っても良かったかも知れない。
(なんで……、私は……、何も……)
寝ているしか、することがないから益体もない事を考える。私は、頭を振って眠りについた。
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