現実の始まり

 藤川の入院生活も、三日目になった。

 先ほど昼食を食べたばかりだが、後の時間は退屈で退屈で仕方ない。スマホがなく、テレビを観るくらいしか娯楽がないのだ。食事は味が薄く、量も多いとは言えない。こんな状態なのに、見舞い客が来る気配もない。そして今も、マスコミらしき連中が病院の前で待ち構えている。

 まあ、仕方ない。何せ藤川は、連続殺人事件の関係者だ。テレビをつければ、死んだ七尾や村本に関する話題で持ち切りである。その中には、生き残った藤川の話題もある。廃墟の中で、彼らは何をしていたのか………好き勝手なことを言っているコメンテーターの顔は、不愉快で仕方なかった。

 まあ、いい。考えてみれば、今までが働き過ぎだった。ちょうどいい機会だ。今は休んで、今後に備えよう。まずは明日、弁護士と打ち合わせだ。

 そんなことを考えていた時、突然ドアが開く。何事かと思いきや、刑事の大上正志が険しい表情で入ってきたのだ。遠慮する様子もなく、ずかずかと歩いて来る。

 挨拶も無しに入ってくるとは、なんとも失礼な態度である。藤川はベッドで上体を起こし、露骨に不快そうな顔をしてみせた。


「あ、刑事さん、こんにちは。ノックも無しに入って来るとは、よほどの大事おおごとなようですね。どうかしましたか?」


 皮肉を込めた口調で言いながら、ぺこりと頭を下げる。いったい、何をしに来たのだろうか。ひょっとして、秋山を逮捕したのかもしれない。そうだとしたら、多少の無礼は大目に見てやってもいいだろう。

 すると大上は、面倒くさそうに軽く会釈した。慇懃無礼という言葉を、そのまま絵に描いたような態度である。いったい何様のつもりなのだろう。


「それはすまなかった。だが、こちらとしても急いでいるものでね。申し訳ない。では、本題に入らせてもらうよ」


 大上の口調はそっけない。前回とは違い、口調も乱暴だ。どうしたのだろうか……と思う間もなく、ベッドの脇にある椅子にどっかと座り込んだ。

 その口から、とんでもない言葉が飛び出す──


「まず、最初に言わなくてはならないことがある。藤川亮さん、今朝あなたに逮捕状が出た」


 聞いた瞬間、藤川はきょとんとなった。自分に逮捕状だと? この刑事は、何を言っているのだ?


「は、はい? なんかの冗談でしょうか?」


 口から飛び出たのは、恐ろしく間抜けな言葉だった。しかし、大上はニコリともしなかった。冷たい口調で言い放つ。


「悪いけどな、これは冗談じゃないんだ。極めて真面目な話なんだよ。罪名は、殺人だ。村本修司さん殺害の容疑で、これからあなたを逮捕することになる。治療が終わり次第、警察署に身柄を移して取り調べ開始だ。あなたには黙秘権がある……なんていうお決まりの文句は、その時でいいよな」


 そこで藤川は、ようやく己の置かれた立場を理解した。

 村本は、目の前で秋山に殺された。その犯人が、自分だと思われているらしい。死んでからも、村本のしでかしたことに悩まされるとは……もはや疫病神だ。


「ちょっと待ってください! 俺じゃないです! 前にも言ったでしょう! 村本を殺したのは、俺じゃなくて秋山なんですよ! 前に、ちゃんと言ったはずですよ! 聞いてなかったんですか!」


 思わず大声を出していたが、それも仕方ないことだった。こんなバカバカしい話はない。村本は、目出し帽を被った秋山に後ろから喉を切られた。暗闇にもかかわらず、大量の血を流しながら喉を両の手で覆っていた姿を、藤川ははっきり見ている。

 そのことは先日、目の前にいる刑事にはっきり言ったはずだ。にもかかわらず、自分を疑うとは……。

 しかし、大上は冷静な口調で話を続ける。


「まあ、待て。とりあえず、俺に話させてくれや。村本の死因は、刃物で刺されたことによる失血死と見られている。死体を調べたところ、複数回さされた後があった。滅多刺しという奴だよ。ちなみに、正確には十三ヶ所の刺し傷があったらしい」


 十三ヶ所? そんなバカな……呆然となっている藤川に向かい、大上は語り続ける。


「あんたは確か、目の前で秋山が村本の喉を切り裂いた。村本は、喉から血を流して死んだ……そう言っていた。確かに、喉にも切り裂かれたような傷はあった。しかしな、他にも十二ヶ所の刺し傷がある。この時点で、あなたの証言とはだいぶ食い違っているんだよ。これを、どう説明するんだ?」


 説明など、出来るはずはない。村本は、目の前で喉を切られて死んだのだ。その後、村本の死体に蹴りを入れたのは覚えている。だが、刺した覚えはない。秋山も、滅多刺しにはしてないのだ。

 しかし、驚くのはまだ早かった。大上の話は、まだ続いている。


「それだけじゃない。犯行に使われたとおぼしき刃物が、村本の死体のすぐ近くで発見された。しかも、あんたの指紋付きでだ。これまた、あんたの話とは違ってる。なあ、説明してくれよ。これは、いったいどういうわけなんだろうな」


 どういうわけだ……などと言われても、藤川は何も言えなかった。何が起きたのか、聞きたいのはこっちだ。刃物に自分の指紋がついているだと? どういうことだ? なぜ、そうなった?

 いや、こんなものは簡単だ。すぐ答えにたどり着く。


「あ、あいつです。秋山が、気絶した俺にナイフを握らせたんですよ。そう、あいつは俺に罪をなすりつける気なんです」


 つっかえながらも、どうにか答える。

 村本が殺された後、秋山は藤川の首を腕で絞めたのだ。抵抗すら出来ず、気絶したのをはっきりと覚えている。なぜ藤川を殺さなかったのかはわからない。だが、秋山により気絶させられたのは間違いないのだ。

 その時、はっとなった。確か、意識を取り戻した時に自分はナイフを握っていたのだ。すぐに捨て去り、半狂乱で逃げ出した。指紋は、あの時に付いたのだ。

 秋山は、藤川に罪を着せるためナイフを持たせたのか──

 様々な考えを巡らせる藤川だったが、続いて刑事の口から出たのは意外な事実だった。


「その秋山薫さんだけどね、あんたに言われて一応は調べてみたんだよ。そしたら、完璧なアリバイがあった。その日、彼は永石市内のホテルに泊まっていたんだよ。念のためホテルの防犯カメラもチェックしたが、秋山さんが外出した形跡はない。窓から脱出しない限り、無理だろうね。ちなみに、そのホテルの窓は自殺防止のため必要以上に開かない構造になっているから、窓から出るのも不可能だけどな」


「えっ、そんなはずは……」


 言ったきり、藤川は絶句した。そんなバカなことがあるか。あいつは確かに、あの場にいた。声も聞こえていた。

 だが、すぐに頭を切り替える。そう、奴は目出し帽を被っていたのだ。小柄だが、それだけで秋山とは判断できない。

 そう、あいつは別人。秋山に雇われた殺し屋なのだ──


「じゃあ、あいつが誰かを雇ってやらせたんですよ! そうに決まってます! 秋山のスマホとか、ちゃんと調べてみてください! とにかく、主犯はあいつなんです!」


 そうとしか考えられない……藤川は必死で訴えたが、大上に心を動かされた様子はなかった。冷めた表情のまま話を続ける。


「まあ、ちょっと待ってくれよ。ひとまず、あんたから聞いた話を整理するよ。あんたは、秋山薫を名乗る者から招待状をもらい廃墟に行った。だが、その招待状は捨てちまった。廃墟で待っていたら、村本ら四人が後からやってきた」


「はい、間違いありません」


 もちろん、正確ではない。だが、今はこれで押し通すしかない。


「やがて、あんたらのいた部屋に声が聞こえてきた。声は秋山薫と名乗り、あんたたちにゲームと称した何かをやるよう指示してきた。廃墟内を探検し箱を探してくる、という内容のゲームだ。あんたらは素直に、そのバカバカしい命令に従った。ところが、ゲームの途中で村本がおかしくなり、全員を殺した後あんたに襲いかかってきた。あんたは殺されそうになったが、目出し帽を被った誰かが村本を殺した。これも間違いないね?」


「はい」


「その後、目出し帽の男はあんたを気絶させた。腕を首に巻き付け絞める技、いわゆる裸絞めだな。あんたが意識を取り戻したら、目の前に村本の死体がある。怖くなり、すぐに廃墟から逃げ出した……」


 ここで、大上は口を閉じた。無言で、こちらをじっと睨み付ける。

 藤川は、そっと目を逸らした。この刑事が、何を考えているかわからない。だが、自分を疑っていることだけは確かだ。ならば、冷静な言動を心がけよう。冤罪などということになったら、自分の人生は終わりだ。

 少しの間を置き、刑事は口を開いた。


「やっぱり、あんたの話はおかしいんだよ。思い違いとか見間違いとかいうレベルじゃない。俺たちも廃墟を調べてみたが、全く違っているんだよ」


 全く違うとは、どういうことだ? 隠している部分はあるにせよ、事実に沿って話したはずだ。


「何がですか?」


「検死の結果、死亡した山口彰と神崎美奈代は素手で撲殺された可能性が高い、とのことだ。肋骨が何本もへし折れ、内臓の損傷も激しい。こんなことが出来るのは、プロの格闘家である村本だろうな。これは、あんたの証言の通りだ」


 神崎だと? 何者だ? 藤川は一瞬、それが誰なのかわからなかった。

 だが、すぐに思い出す。木下だ。彼女は結婚し、神崎という名字になっていたのだ。


「ああ、木下ですか! はい、村本の仕業に間違いありません!」


 藤川は、今もはっきり覚えている。二階に転がっていたふたつの死体。あれは、片方が女だった。暗くて顔はよく見ていないが、あれは木下だ。

 このふたりを殺したのは村本だ。それどころか、三階にいた七尾も、間違いなく村本が殺したはずだ。

 だが、直後に予想もしていなかった話を聞かされる──


「ところがだ、七尾恵美は違うんだよ。彼女には、刃物による傷が十ヶ所以上あった。これは、村本の犯行ではないと思われる」


「はい?」


 完全に意表を突かれ、藤川は口ごもる。刃物で十ヶ所? どういうことだ? 

 そんな藤川に向かい、大上は冷静に語り続ける。


「聞こえなかったのか。じゃあ、もう一度言うぞ。七尾を殺したのは、村本ではない。断言は出来ないが、その可能性が非常に高い。村本は、刃物を持っていなかったしな。刃物を所持していたのなら、山口や神崎のことも刺殺していたはずだ」


「じゃ、じゃあ……」


 秋山がやったのか、と言おうとした。しかし、それも違っていた。


「実はな、七尾を殺した凶器と思われる刃物が、二階で見つかったんだよ。刃に、七尾の血液がべっとり付着していた。そして、柄には指紋が付いていた。調べたところ、神崎のものだった。さらに、神崎の体にも七尾の血液が大量に付着していた。おそらく、殺した時の返り血だろう。以上の点から見て、七尾を殺したのは、神崎美奈代である可能性が極めて高い」


「そんな……」


「つまり、最初に七尾が神崎に刺されて死んだ。その後、村本が神崎と山口を素手で殺した。これが、警察の見立てだ。そうなると、あんたの証言とは大幅に食い違ってくるんだよ。あんたと一緒に一階を探索していたはずの神崎が、何の脈絡もなく、いきなり三階に上がって行って、刃物で七尾を殺したっていうのか? おかしいだろうが。そもそも、動機は何なんだよ?」


 藤川は思わず下を向き、こめかみを片手で撫で擦った。いったい何があったのだろう。なぜ木下が、いや神崎が七尾を殺したのだ?

 だが、そんなことに頭を悩ませている場合ではなかった。続けて、決定的な一言が放たれる。


「その後、村本が素手で神崎と山口を殺した。これもまた、動機がわからないんだよな。まあ、それはおいおいわかるだろう。問題なのは、その後あんたが村本を殺したってことだ。まず、催涙スプレーで視力を奪う。続いて、ナイフでめった刺しだ」


 その言葉に、藤川は顔を上げた。


「違います! 俺は……俺は絶対にやってない!」


 必死の形相で叫ぶが、大上の表情に変化はない。


「そうか。じゃあ、誰がやったんだよ? きっちり聞かせてくれ」


「あ、秋山です! 秋山が、誰かを雇ってやらせたんだ!」


「俺たちも、あの廃墟はちゃんと調べてみたんだ。しかしな、あんたの言っていた箱みたいなのは、発見できなかったんだ。しかも、秋山薫なる人物には完璧なアリバイがある。あんたの話を裏付ける証拠は、何ひとつないんだよ」


 どういうことなんだ……藤川が必死で考えている間にも、大上は喋り続ける。


「それだけじゃない。あんた、催涙スプレーのことを言ってなかったな。三階で見つかったんだが、あれはあんたの物だろう」


「そ、それは……」


 口ごもる藤川に、大上は容赦なく畳みかけていく。


「村本は、プロの格闘家だ。ナイフ持って正面から刺しに行ったところで、殺せるかどうかは難しい。だから、催涙スプレーを使った……そうなんだろ? なあ、正直に言っちゃえよ」


「ち、違いますよ! あれは、ボタン押しても出なかったんです!」


「ほう、ボタンを押したがガスが出なかったのか。どういう状況で催涙スプレーなんか使ったのか、詳しく聞かせて欲しいな」


「だから……あいつが襲いかかってきたから、催涙スプレー出したんです。でも、ガスが出なくて……」


「最初に話を聞いた時、何でそれを言ってくれなかったんだ?」


 痛いところを突かれ、藤川は黙り込む。一方、大上は語り続けた。獲物を追い詰める猟犬のような目になっている。


「初めて話をした時、あんたは催涙スプレーのことを言わなかった。自分から言ってくれるかと思ったんだが、最後まで言わなかった。つまり、嘘をついたってことだ。つまらないことで嘘をつく奴は、大切なことでも嘘をつく。これは、刑事をやってきた経験則からの信条だよ」


 そう言った時、病室にスーツ姿の若い男が入ってきた。おそらく刑事であろう。

 若い刑事は、大上に何やら耳打ちした。大上は、うんうんと頷く。それを確認すると、刑事は出ていった。

 直後、大上は藤川の方を向いた。


「あんたに、もうひとつの知らせがある。ここに入院する時、尿検査したのを覚えているな?」


「だ、だから何です?」


 確かにした。看護師らの、念のためという言葉に従い検査を承諾したのだ。あの時は全身が痛くて、それどころではなかった。

 尿検査がどうしたというのだ……などと思っていたら、想定外の話が飛び出す。


「今、検査の結果が出た。あんたの尿から、覚醒剤の陽性反応が出たそうだ」


「えっ……」


 何を言っているのかわからなかった。呆然となっている藤川に、大上はゆっくりとした口調で語る。


「わからなかったか? じゃあ、わかりやすく説明しよう。あんたの尿からは、覚醒剤をやったという反応が出たんだ。今のあんたには、覚醒剤使用という罪名が追加されたんだよ」


 ようやく事態を把握した藤川は、慌ててかぶりを振る。


「ふ、ふざけるな! 俺は覚醒剤なんかやってない! 嘘をつくな!」


「嘘をつくな、と言われても困るんだよ。現に尿検査で、反応が出ちまったんだからな。それとも、科捜研が間違えたとでも言いたいのか? 有り得ないよ」


 刑事は、すました表情で答える。

 だが、そんなはずはないのだ。覚醒剤など、生まれてから一度もやったことがない。何をどうしたら、尿から覚醒剤が出ると言うのか。

 混乱する藤川に、大上は語り続ける。


「あの山口彰には、覚醒剤の所持使用で二度の逮捕歴があったんだよ。刑務所にも、二度入っている。しかもだ、念のため殺された村本と神崎と七尾の遺体も調べてみた。すると、全員から覚醒剤の反応が出たそうだ。あんたはさっき、覚醒剤はやってないと言ったが……この事実を、どう説明するんだ? なあ、教えてくれよ。覚醒剤をやってないはずのあんたの尿から陽性反応が出て、死体となった全員の体から覚醒剤の反応が出ているのかを、な」


 山口に、覚醒剤での逮捕歴があった──

 もちろん初耳だ。そもそも、奴と会ったのは卒業式以来である。どんな生活をしていたかなど、知るはずもない。

 しかも、他の連中の体からも覚醒剤反応が出たとは……もはや、何が起きているのかわからない。これは、悪夢ではないのか。めまいを起こしそうになっていた。

 そんな藤川の事情など、お構い無しに大上は喋り続ける。


「今のところ、俺はこう思っている。あの日、あんたは古くからの幼なじみと廃墟に集まり、ドラッグパーティーをやった。山口が覚醒剤を調達し、皆でやった。ところが、廃墟という異様な環境のため、シャブが効きすぎてしまった。あんたらは全員、幻覚を見たり幻聴を聞いたりした。あんたが聴いたという秋山の声も、ただの幻聴なんじゃないのかね」


 幻聴だと? そんなはずはない。

 藤川は、必死で当時のことを思い出そうとした。確かに、声は聴こえていた。それも、聞いたのは自分ひとりではない。あの場にいた全員が、秋山の声を聞いているはずだ。

 では、それも幻聴だというのか。そんなことは、有り得ない。

 正気が崩壊しそうな藤川に向かい、大上は静かに語り続ける。


「挙げ句、その場にいた全員が疑心暗鬼に陥った。いわゆるバッドトリップだ。ヤク中には、よくあることだ。ところが、ここから先はよくあることじゃない。幻覚や幻聴に導かれるまま、全員で殺し合いになり……あんたが運よく生き延びた。違うかい?」


 違う。何もかも違う。自分は、誰も殺していない。だが、それを証明する方法がない。

 これは、もう無理だ。秋山にハメられたのは間違いない。だが、それを証明するには時間が必要だ。ならば、今は時間を稼ぐ。まずは弁護士と相談だ。


「弁護士の横地俊博ヨコチ トシヒロ先生を呼んでください。横地先生が来るまで、何も喋りません」


 そう言って、口を閉じ目を逸らした。

 まずは、会社の顧問弁護士である横地に来てもらい、今後のやり方について話し合う。それまでは、黙秘を貫くのだ。これ以上、下手なことを口にしては命取りになりかねない。今、やれることはこれしかないのだ。

 すると、大上は顔を近づけてきた。


「あのリュックに入っていた一千万円だが、あれは何なんだ? もしかして、あんたは強請られていたんじゃか? って言ってる奴もいる。あるいは、覚醒剤を買うための金だったか。いずれにしろ、もはやプライベートなんて言葉は通用しねえぞ。その辺のことも、きっちりと調べさせてもらうからな」


 低く、凄みの利いた声だった。ようやく、この刑事が本性を現したのだ。思えば、初めて会った時から藤川を疑っていたのだろう。

 しかし、藤川は何も反応しなかった。ひたすら目を逸らし、口を閉じていた。

 すると、大上は口元を歪める。


「なるほど、だんまりで押し通すつもりかい。だがな、警察なめない方がいいぞ。それにだ、あんたはもうおしまいなんだよ」


 そう言った後、大上はくすりと笑った。この刑事の笑顔を、初めて見た。

 だが、その口から出たのは思いもかけぬ言葉だった。


「ひとつ教えてやる。あんたがさっきからしつこく言っている秋山薫さんだがな、ついこの前あんたは直接会っているんだよ。みんなの見ている前で、本人と話もしている」


「えっ……そんな……」


 黙秘を貫く、と決めていたのに、思わず声が出た。何を言っているのだろう。秋山と、どこで会ったというのだ。藤川は、必死でここ数日間の記憶をたどる。だが、それらしき人物には思い当たらない。

 次の瞬間、大上の口から意外な人物の名前が飛び出した──


「あんた、こないだ作家の朝倉風太郎と対談したらしいな。実はな、あいつの本名が秋山薫なんだよ。朝倉ってのは、ペンネームだ。俺も、調べてみるまで知らなかったことさ。実際、今まで本名は公表していなかったらしい。あんたはな、中学の時の同級生と十五年ぶりに顔を合わせてた。話もした。なのに、全く気づかなかったようだな」


 予想もしなかった話に、藤川は愕然となっていた。思わず、口を開けたまま目の前の刑事を凝視する。

 だが、大上の話は終わらない。


「あんな作家先生が、どうやって村本を殺すっていうんだよ。それ以前に、先生には完璧なアリバイがあるんだけどな。あのアリバイを崩すのは、シャーロック・ホームズにも不可能だぜ」


 そこで、大上はくすりと笑う。だが、藤川は何も言えなかった。呆然となり、口はあんぐりと開いたままだった。

 あの作家が、秋山薫だったのか──


「事情聴取に伺ったら、秋山先生は快く応じてくれたよ。招待状なんか出してない、とはっきり言ったよ。それに、こんなことも言ってたぜ。僕は彼を覚えていました。しかし、彼は僕を覚えていなかった。とても残念でした……ってな。あ、そうそう、あんたはいじめの件でも嘘ついてたんだな。あんたも、村本と一緒になっていじめていたそうじゃねえか。藤川くんがグループのリーダー格だった、とも言ってたぜ。いやはや、あんた大した悪党だよ」


 語り続ける大上だったが、藤川はただ聞いていることしか出来ない。彼の脳裏には、対談の時の記憶が甦っていた。

 あの時の朝倉は、おどおどした目付きで愛想笑いを浮かべていた。顔は悪くないが、接してみた印象は気持ちの悪い奴でしかない。部下にいたら、確実にいじめてるタイプ……秘書の浮田に、そう言ったのを覚えている。

 しかし、あれは全て演技だった。愛想笑いを浮かべながらも、朝倉は頭の中で、ずっと復讐の計画を練っていたのだ。

 しかも、話は終わりではなかった。さらに続きがあったのだ。


「ところで……その朝倉先生だが、昨日の夜に動画を投稿したんだよ。中学時代、あんたら五人にやられたことを赤裸々に告白してる。結果、母親が事故で亡くなったこともな。ずいぶんひどいことしてたんだなあ。再生回数は、ものすごいことになってるよ。まあ当然だよな。人気作家の衝撃的な告白だぜ。しかも、今をときめく売れっ子青年実業家と元グラドル、さらに有名格闘家のスキャンダルというおまけも付いてる」


 気が遠くなるような感覚に襲われ、藤川は思わずベッドに手を着いた。まさか、あれまでバラされるとは。

 今の時代、いじめの加害者だったという過去は完全にマイナスだ。もはや前科に等しい。これが公になってしまったら……たとえ殺人と覚醒剤の件が無罪になったとしても、大きな汚点が残る。

 しかも、大上は容赦なく語り続ける。


「あんた、大炎上してるぜ。よかったなあ、スマホが使えなくて。あんなもの見ちまったら、俺なら立ち直れねえよ。もう、あんた終わりだな」


 どこまで深い憎しみなのだろう。朝倉……いや秋山は、藤川が必死の努力で築き上げたもの全てを、ことごとく打ち壊すつもりなのだ。

 しかも藤川は、目の前で自分の大切なものが壊されていくのを、ただ見ていることしか出来ない。あいつに人生を滅茶苦茶にされているというのに、反撃すら出来ないのだ。

 なんと恐ろしい復讐だろう。しかも、秋山は全く傷ついていない。自ら手を汚すことなく、藤川を破滅に追い込もうとしている……。


「こうなると、自業自得としか言えねえよ。ま、これから取り調べが始まる。覚悟しとくんだな。たぶん、十年は出られないぜ。ただ、ひとつだけいいこともある。あんたがシャバに出る頃には、あんたのことなんか世間は綺麗さっぱり忘れてるだろうよ」


 そう言うと、大上は病室を出ていった。彼の顔に浮かんでいたのは、あからさまな嫌悪感であった。




 それからの藤川は、虚ろな目で天井を見つめていた。

 殺人、覚醒剤使用の罪で、これから取り調べを受ける……誰かが、自分をハメようとしているのは間違いない。

 誰の仕業かは、考えるまでもない。秋山だ。秋山が、五人を殺し合わせた。挙げ句に、生き残った自分が犯人になるよう仕向けたのだ。また、何らかの方法で覚醒剤の反応が出るよう細工した。

 だが、今は奴のことなどどうでもいい。このままでは、自分は全てを失ってしまう──

 その時、ドアが開く。顧問弁護士の横地が、慌ただしく入ってきた。藤川に向かい、真っ青な顔で口を開く。


「藤川さん、大変なことになっていますよ。明日、緊急株主総会が開かれることとなりました。議題は、あなたの代表取締役解任要求です」


 何という展開の早さだろうか。藤川は、気を失いそうになるほどの衝撃に、なんとか耐えようとする。

 だが次の瞬間、最後の頼みの綱が切れた。藤川は、奈落の底に突き落とされたのだ──


「あと、もうひとつ悪いニュースがあります。奥様から、離婚届を預かってきました」





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