おやじパンクス、恋をする。#5
その時、四人分の水を盆に乗せたおばちゃんが近づいてきて、「何にしますか?」と、伝票とボールペンを用意しながら言って、俺は現実に引き戻された。
CDの歌詞を熱心に読んでいた涼介が一番に、「ナポリタン」と言って、「俺もそれ」とボンが続き、タカが嬉しそうに「ハンバーグセット」。ほらやっぱそうじゃねえかよ。ともあれ、俺はちょっとした動悸を覚えながら、だが努めて冷静に「マカロニグラタン」と言った。
だが、おばちゃんは困った顔をして、言ったんだ。
「すいません、グラタンはやってないんですよ」
驚く俺。「え? やってない?」
「そうなの、ごめんなさいね」
「そんなはずねえよ。俺、ここのグラタンが好きだったんだぜ」
「あら……それじゃ、前はあったのかもしれないわね。でも、今はやっていないの。ごめんなさい」
おばちゃんは店員らしく丁寧に、けどあくまで頑なにマカロニグラタンなんてもんはねえから他のものを頼め、そういう内容のことを仰った。
まあ、そういうことも、あるか。三十年前にあったからって、今も残ってるとは限らねえよな。だいたいマカロニグラタンが特別好きってわけでもないんだし、別にいいじゃねえか。
俺は無言で納得して、急いでメニューをめくり、チキンソテーのセットを頼んだ。隣で涼介が何か言いたげにこっちを見ていたが、無視した。
それに俺自身、このレストランで自分がグラタンを食っていたというその記憶自体に、自信が持てなくなっていた。
いや、グラタンだけじゃねえ。なんていうか、この店にまつわる記憶全体がテキトーなんじゃねえかってさ。記憶の中でテーブルは丸くてクロスがかかってたのに実際は四角でクロスはねえし、店員は白いシャツに蝶ネクタイだと思ってたのにおばちゃん蝶ネクタイなんてしてねえし。もちろん三十年前と同じ家具、同じ制服を使ってなきゃいけねえ道理もねえし、むしろ変わってて当たり前なのかもしれねえけど、なんかそういうんじゃなくて、やっぱり俺の記憶の方が間違っているんじゃねえのか、おかしいんじゃねえのかって思ったんだな。
だけど、そう思ったのは、テーブルクロスが理由じゃねえ。さっき窓の外に見つけた、あれのせいだ。俺はメニューを置いて、また窓の外を見る。
俺の視線の先にあるのは、向かいのビルの中の一室、何の変哲もない古びたワンルームマンションの一室だ。赤いカーテンがかかった、あの部屋……。
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