二章(5)グレイスフィールの決断

「お兄様、いったいどういうことなのですか」

 グレイスフィールが執務室に入ると、ヴィンセントは椅子から立ち上がって、妹の格好を上から下まで眺め回した。

「どういう風の吹き回しだ」

「今日はメイドと共にお出かけをする予定だったのよ」

グレイスフィールは、棘のある言い方で続けた。「そのメイドに、お兄様がお暇を出そうとなさるなんて、思いませんでした」

 そういえば、昨日そんな話をしていたような気がする。新しいストールを買いに行くとか……。

 ヴィンセントは俯くイーディスと、腕を組んでいるグレイスフィールを見比べた。

「キリエの言うことは、本当だったのだな」

「イーディスはこの二日、とても良くしてくれたわ。これ以上なくわたくしを尊重してくれたわ。これ以上のハウスメイドはこの屋敷には居ません。それを、クビにだなんて、あんまりです」

「……確かに、今のお前のわがままを聞けるメイドは少ないだろうな。たしかに」

 ヴィンセントもまた、棘を剥く。

「だが、お前が『まとも』であれば。僕の言うことを聞いてくれる可愛いグレイスであったなら、こんなことにはならなかったんだ」

 グレイスフィールはあからさまにムッとした。

「……どういう意味?」

「モンテナのガラス製品会社、ツェツァン社の、ユーリ専務から。イーディス・アンダントを欲しいと、交渉があった。メイドや小間使いとしてではなく、『通訳』としてだ。こいつは、モンテナ語を話せる。ネイティヴレベルだと、専務は仰っていた」

 イーディスも、グレイスフィールも、そしてメイド長までもが、驚愕の表情を浮かべた。

「なぜ? どうしてそんなことに」

 グレイスフィールが拳を握る。メイド長が口を押さえて叫びを抑えている。

 イーディスにだけは、心当たりがあった。

『モンテナ語をどこで習ったのか』

 先ほどのあの問いかけは、そういうことだったのか……!

「承諾してしまったの⁉ どうして!!」

グレイスフィールは執務机に歩み寄って、だんっ、と勢いよく手をついた。しかしヴィンセントも、そんな妹の目を見据えた。怒気を孕んだヴィンセントの声がだけが、響く。

「お前が、社交界に出ないと言ったからだ」

「っ!!」

「会社にはもはや後がない。僕らの売りは新聞のような安価な紙だ、高級紙じゃ競合企業に勝てっこない。市場に生き残れるかどうかは、モンテナ進出にかかっている!

 そのモンテナの企業が、こいつイーディスを欲しがったんだ、お前ならどうするグレイス! お前が僕の立場だったらどうした⁉」

「お兄様、」

「父上も母上も行ってしまった! 妹は部屋から出ない、社交界にも出ない、僕には後がない! お前ならどうした!」

 イーディスは硬直したままその話を聞いていた。メイド長も、「鍵持ちの執事」も、彫像のように固まっていた。グレイスフィールは俯いて、しばらく兄の言葉が放った衝撃に耐えているようだった。震える肩が、小さな声でつぶやく。

「……そうね。全てわたくしが悪いわ」

「お、お嬢様、」

「自己責任だわ」

 青い目に涙を浮かべて、グレイスフィールはイーディスを振り返った。

「……イーディス」

 何も言えず、その目から涙が溢れるのを、見た。イーディスには、涙を拭って差し上げることができない。イーディスは無力だった。

「そのためのダンスレッスンで、そのための教養ですものね。昔から、決まっていたことですものね。……そうよ、そうだった……」

 グレイスフィールは涙を拭い、言い放った。

「出ます。……社交界デビューの場に」

 執務室がしん、と静まり返った。令嬢の言葉だけが、空気を震わせる。

「確か主催はアーガスティンのお偉方。モンテスター翁でしたわね。ということはモンテナからの貴賓もいらっしゃる。ツェツァン専務もご出席なさるのでしょう」

「どうしてそこまで知ってる」

ヴィンセントが驚愕する中、グレイスフィールは兄のツッコミを無視して続ける。

「ツェツァン専務には、わたくしからきちんとお断り申し上げておきます。イーディスはわたくしたちの使用人であって、通訳も兼ねておりますと。……そもそもお兄様。モンテナ進出を狙うのであれば、イーディスのような人材は確保しておくべきでしてよ。目先のお金よりも今後のことです」

「あ、ああ……それは、それで、いいんだ、が……」

 ヴィンセントは妹の掌返しに戸惑っているようだった。

「お断りするのなら僕の口から言うのが筋だと」

「ダメです。お兄様は夜会を欠席なさってください」

 グレイスフィールはきっぱり告げた。

「パーティーへは、わたくしとイーディスの二人で出席します。これが、私の社交界デビューの条件です」

「ダメだ。僕にはお前をエスコートする役目がある!」

「いいえ。甘く見ないで。一人でも夜会を乗り切れますわ。お兄様、実はわたくし人のお顔と名前を覚えるのは得意なの」

「それに」とグレイスフィールはイーディスを振り返った。

「我が社にはよい通訳がおりますもの。ね、イーディス」



 自室に戻るなり、グレイスフィールは散らかった部屋の散らかったベッドの上に突っ伏して喚いた。

「私のばか! ばかばか! 考えなし! それだから前世でもダメだったのよ、ダメダメなのよッ! 口先ばっかりで後のことは全く考えないんだから!!」

 口先ではああ言ったものの、本当は何もかもが不安なグレイスフィールである。

 グレイスフィールの前世が「この異世界の原作者」であるため、情報の利はある。

 だがしかしグレイスフィールという少女も、前世の漫画家も──典型的な内弁慶なのだ。家の中ではなんとでも言える。しかし外に出れば借りてきた猫だ。美しいヴィンセントの隣を飾る花くらいにはなれるかもしれないが……。

「ウワァー! もー! バカァー!」

──自ら率先して挨拶をしに行くような真似は到底できそうにない。

 高価なマットレスが絶叫を吸い込んでくれる。

「お嬢様、あの」

 扉の向こうからイーディスの心配そうな声がする。グレイスフィールは顔を上げて涙を拭った。

「き、聞こえた?」

「……聞こえました」

 そうだ、やらなければならないことがある。叫んでいる場合ではない。グレイスフィールはあっという間に乱れた髪を撫でつけて、イーディスを呼んだ。


「入って、イーディス。作戦会議しなくちゃならないわ」



※続きは書籍版でお楽しみください!※

 

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