一章(3)ポンコツメイド、口を滑らす

  廊下の角を曲がると、奥から二番目の部屋がグレイスフィールお嬢様の部屋にあたる。

 イーディスの前を行っていたヴィンセントは立ち止まり、その場に立ち尽くした。

「……グレイス」

 イーディスもその光景を見た。

 メイド長が廊下の窓際に追い詰められている。彼女の周りには壊れた目覚まし時計や、高価な皿のかけら、羽毛の飛び出したクッション、ペン、紙くず……ありとあらゆるものが転がっている。そして、それをメイド長に投げつけたと思しき少女は開いたドアの前に立ち、痩せた体に怒りをみなぎらせて、肩を上下させていた。ぼさぼさの銀髪と、インクに汚れた右手が目についた。立派で清潔のはずだった部屋着は、何日も着たままらしい。襟元がクタクタになっている。

 窓ガラスにたった今空いたらしい穴からは、朝の冷気が吹き込んできていた。

「私の許しなしに、部屋に、入ってこないでと、言ったわ。貴女に言うのは二度目」

「しかしお嬢様……私共にも、仕事が。貴女さまの身の回りをお世話するという仕事がございます」

メイド長はこんな時でもはっきりと物をいった。しかし、少女はピシャリと跳ね除ける。

「結構よ。部屋に入ってこないで。三回目」

「そうはおっしゃいますが。身支度や、お水を遣う時などは」

「私が自分でやる。……部屋に入ってこないで。四回目」

「お嬢様……」

「キリエ。わたくしが着替えも一人でできない子供だと? 自分でできると言っているのに、貴女はわたくしの言うことを信用してくれないのね」

「滅相も、めっそうもございません! 私は……」

 メイド長がか細い声で弁明しようとするのを、ヴィンセントが遮る。

「それは子供の言い分だ、グレイス」

「……お兄様」

「なぜ使用人のいうことが聞けない。なぜ、急に人が変わってしまったのだ。こんな子ではなかったはずなのに」

 グレイスフィールはようやく、兄の顔を見上げた。よく見ると、頬も黒インクに汚れてしまっている。彼女はそれでも秀麗さの損なわれない顔を歪め、笑った。

「聞き分けが悪いわたくしのことは、お嫌いですか。お兄様」

「わがままを言うお前は可愛いが、今のお前は見るに堪えない。亡くなった父上と母上が見たらなんと言われるだろうか。嘆き悲しまれるに違いない」

 ヴィンセントの激しい言葉に、グレイスフィールは凍り付く。

「お兄様……」

「もう限界だ。ここ数日のお前はまったく手に負えない。悪魔祓いでもなんでも呼ぶ。お前の正気が戻るなら何でもやる」

ヴィンセントは息をつめて、それからまた、吐き出した。懇願するような声音が、廊下に響く。

「もとの可愛いグレイスに戻ってくれ、頼む、お願いだ」

 グレイスフィールは黙ってしまった。

 イーディスには、それが「深く傷ついているこども」のように思えた。十六歳──それ以上に幼い子供のように思えた。イーディスの前世である「私」が、彼女よりもずっとずっと年上だからかもしれないのだけれど。思わず、手を差し伸べてしまいたくなる。グレイスフィールは、そんな寂しい瞳をしていた。

 イーディスが何か言う決意をする前に、グレイスフィールは呟いた。

「……そう、そうですわね。私は悪魔だわ。外からやってきた悪魔に、唆されているのだわ」

 グレイスフィールは、右手に持っていたなにかを強く床に叩きつけた。ぱしゃん、と音がして、少女の部屋着の裾を黒く染める。

「グレイスフィール!」

 ヴィンセントが叫んで妹の元に走り寄ろうとする。それより早く、グレイスフィールは開きっぱなしのドアに手をかけ、大きな音を立てて扉を閉めてしまった。

 令嬢の立っていた場所には、割れたインク瓶が転がっていた。


「メイド長」

沈黙を破ったのはイーディスの言葉だった。

「みながメイド長を待っています。彼女たちに仕事を」

 呆けたように固まっていたメイド長はハッと我にかえり、「ええ……」と返事をした後、相手がイーディスと分かると眉を吊り上げた。

「お前に言われなくともわかっています! そんなことは、」

 しかしメイド長は立たない。腰が抜けているようだ。

「手を貸しなさい!」

「かしこまりました、メイド長」

 イーディスがメイド長に手を差し出す横で、ヴィンセントは険しい顔を崩さず、閉まった扉を睨んでいた。

「本格的に、悪魔祓いを呼ぶべきか……」

「旦那様。発言をお許しください。恐れながら、エクソシストを呼ぶよりも先に、ガラス窓の修繕業者を呼ぶべきかと存じます」

 イーディスは、割れたガラス窓を見上げてはっきりとそう言った。イーディスの右腕に支えられているメイド長が「なんと不敬な!」と喚いたが、そんなことは気にしている場合ではない。

「二階にはオルガノ海からの冷風が吹き付けますわ。雪が降る前に、この大穴を塞ぐべきです。この穴をそのままにすれば、お嬢様だけでなく、使用人の体調にも影響いたします。風邪が流行すれば大事おおごとになりますし、屋敷が回らなくなってしまうでしょう」

 冷気は上から下へと降りてゆく。この穴を塞がなければ、階段下の使用人たちはひとたまりもないだろう。階下ベロウステアに使用人の部屋を集めてあるから、冷気は必然、そこへ降りていく。暖房設備のない、自前の布団と毛布しか持っていないイーディスなどはきっと「いちころ」だ。

「……たしかに、そうなんだが」

ヴィンセントの顔は険しい。

「グレイス……これでは屋敷から出せない。夜会デビュタントなどもってのほかだ。おかしくなったか、悪魔が憑いているか……」

「恐れながら」イーディスはよどみなく続けた。

「エクソシストを呼んでも、この問題は解決致しません。かえってお嬢様を傷つけるだけだと考えます。お嬢様は……」

イーディスは適切な言葉を探した。すこし間をおいて、続ける。

「混乱して、おいでです」

 令嬢の中に悪魔がいる、とはどうしても思えない。イーディスは彼女の状態を思い返す。くたびれた格好、絡まった銀髪、汚れた手。インクの黒。そして、傷ついた子供のような横顔――。確かにエクソシストを呼びたくなる気持ちは分からなくないけれども。

「ではどうすればよい」

 ヴィンセントは腕を組んだ。イーディスは、ぐっと拳を握り込んだ。

「お嬢様のことを、わたくしに一任してはくださいませんか」

 考える前に、言葉が出ていた。イーディスはそんな言葉が自分の口から出たことに驚いたし、隣のメイド長などは目を見開いて眼球が溢れんばかりだ。当然のこと、屋敷でいちばん「ぽんこつメイド」のイーディスが、お嬢様の御付きの真似事をしたいと言い出したのだから。

「お前! 旦那様に、なんて口を! イーディス!」

「た、たかがいちハウスメイドの分際で、旦那様にこんなことを申し上げるのが、不敬に当たるのは承知の上です、が」

 不安になってきたイーディスを見定めるように、ヴィンセントは真っ直ぐ見下ろしてくる。美しい主人の真顔は、迫力があった。イーディスはそれでも、きっと顔を上げてヴィンセントの視線を受け止めた。

「策はあるのか」

「ございます」

 またしても、口が勝手に滑った。メイド長はヴィンセントとイーディスを見比べながら、口をぱくぱくさせている。

「なら、三日だ。三日で、グレイスをまともにしてくれ。三日経ってもああなら、私は悪魔祓いを手配する。それでいいな」

三日。そして「まとも」。――厳しい条件だ。勝算があるとも思えない。けれども。

「……かしこまりました、旦那様。必ずや」

 イーディスは深々と頭を下げた。ヴィンセントの足音が遠ざかっていく。


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