第13話 季節が巡り
――自分が言われたときは全然怒っていなかったのに、刃物を持ち出されたらすごく怒ったわね。
後に、クララにそう言われたアレンは、極めて真剣に答えた。
――生きていると辛いことも悔しいことも悲しいこともある。人並みに経験していると思う。そこに相手がいるとき、やり返すかどうかは自分で決める。あのひとの侮辱はそれほど俺には響かなかった。だけど……、お嬢様を傷つけられるわけにはいかない。絶対に、見過ごせなかった。
――それにしては決定的な瞬間まで、介入しなかったわね?
――もちろんタイミングを見ていたから。だけどそれ以上に、お嬢様の純粋な怒りは、悪魔への供物になりそうだって思ってしまったんだよな。あれはかなりポイント高かったと思っているんだけどね。どうだろう。
* * *
次期公爵様、と呼ばれる麗人が事態の収拾に乗り出したことで、状況は大きく変わった。
「身内の罪を適当にごまかしているようでは、娘の代でまた問題が噴き出すぞ。任せてはおけないと判断した」
夫人が凶行に及んだ頃、同じように泳がされていたマクレイが伯爵邸に忍んできていたという。そこをレスターが取り押さえ、ついでにマクレイの邸宅から化粧品に混入していた毒の類も押収したとのこと。
二人は法廷に送られ断罪を待つ身となり、体調を崩しがちだった伯爵は引退して療養生活に入った。
一方、クララは成人まで財産ごと公爵家預かりの身となったが、余命宣告が嘘のように健康になりつつあった。
「病気は……? 本当にもう大丈夫なの?」
男娼という役目は降りたアレンであったが、伯爵邸での一件から麗人に妙に気に入られ、公爵邸で職を得ることになった。
そのため、クララとは引き続き顔を合わせる機会がある。そのたびに不思議に思って何度も確認してしまうのだが、クララは「悪魔がなんとかしてくれたみたい!」と明るく笑ってはぐらかすのみ。
アレンにとって不思議はそれだけではなく、レスターと話す機会があった際に「それにしても悪魔との契約だなんて、よく思いつたね」と言ったら「なんの話だ?」と真顔で返されたことだ。どうも、「男娼を呼んで」の件はクララが発端で、レスターと示し合わせたわけではないらしい。
(悪魔……? 悪魔は本当にいたのか?)
よくわからない、と思いながらもアレンは最近クララになかなか良いように使われている。何しろ、クララの世話が仕事の一部として正式に組み込まれているのだ。
その日は、クララが公爵邸に間借りしている部屋の天井を青空にすると言い出して、軽い口論になった。
「もう外は春を通り過ぎて夏ですし、こんな高そうな天井を塗らなくても、本物を見に行けばいいじゃないですか。俺がお連れしますから」
「いやよ。絵もぬいぐるみも持ってきたけど、天井を剥がして持ってくることはできなかったんだもの。絶対に塗る」
「わがままだなぁ……。悪魔に捧げるの?」
結局押し切られてしまい、「危ないですから、もっと気をつけて」と言いながら脚立を押さえたり絵の具を手渡したりと時間を費やすことになった。
その作業中、顔も髪も作業用の古いドレスもすべて絵の具まみれにしたクララを苦笑いで見守りつつ、ふとアレンは部屋の中を見渡す。
伯爵邸から持ち込まれた絵やぬいぐるみを懐かしく眺めて、ふと何か足りない、と思った。あの日々、よく見ていたはずのぬいぐるみが、ひとつ。
無くなってしまったものが何か、すぐには思い出せないまま「アレン、絵の具が足りない!」と頭上から響いた声に素早く返事をする。
長くても三ヶ月とはじめから期限を切られていて、終わりを数えるだけだったはずの日々はとうに過ぎていた。
「落ちないでくださいね」
「落ちたら受け止めてね」
苦笑してアレンは了承の返事をし、胸の中で呟いた。
悪魔さん、見てる?
あのお嬢様がお陰様でいまは、だいぶわがままになりましたよ。
目の前を黒猫が通り過ぎた。あれ、黒猫? とアレンは目で追いかけたが、見間違いだったのか、何も見つけられなかった。
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