第8話 怠惰はかくも難しい
「おはよう」
睫毛を震わせ、薄く目を開けたクララ。その表情にゆっくりと生気が宿るのを見て、ベッド脇に立っていたアレンから声をかける。
クララは緩慢な仕草で首を動かし、乾いた唇から細い息を漏らした。
「いたの」
「いたよ。他に居場所が無い。『男娼』という触れ込みはなかなか強烈みたいだね。この屋敷では、誰もが僕を遠巻きにする。たまに果敢に声をかけてくるひともいたけどね、笑っちゃったよ。『それで君は、普段は男も相手にしているのか?』だって。僕が紅顔の美少年であるのは認めるけれど、そんな質問答える筋合いじゃない。それとも、買いたかったんだろうか」
「……レスターに、きちんと、金額の確認した?」
アレンはくすっと笑って、「もちろん」と答えながら陶器の吸い飲みを手にする。慎重な手付きで吸い口をクララの唇に近づけると、クララは弱々しく水をこくりと飲み込み、目を瞑った。
「寝ている間も、あなた……ここにいたわね。いまみたいに、私に水を……」
クララのおぼろげな記憶の通り、アレンはクララが眠っている間も、なるべくそのそばから離れないようにしていた。夫人の来訪は何度かあったが、そのたびにけんもほろろに追い払っていた。
そういった事情は特に口に出すこともなく、ただ飄々と答える。
「他にやることがなかったし、拘束されている期間は金銭が発生しているから気にしないで。僕がついていてくれるから助かる、ってメアリーに感謝されたよ。掃除が
実際のところ、メアリーはアレンがレスターの弟だと知るだけに、初めからかなり気を許している節がある。アレンとて、レスターが真っ先に事情を打ち明けたメアリーは信頼できる相手なのだと踏んでいた。しかし、他の者には素性を明かしていない。伯爵と顔を合わせた折も、会話は最低限だったのを良いことに、しらばっくれることにしたくらいだ。そのまま、屋敷の中では、レスターと仲の良い素振りを誰かに見られないように注意を払って過ごしている。
――お嬢様はお小さい頃から些細な運動ですぐに熱を出し、寝込むことが多かったと聞く。最近は特に、
送り主がヴィンス・マクレイという香水に胸騒ぎを覚え、アレンは密かにレスターを通じて、錬金術師として働く次兄の元へ鑑定に出していた。
結果はまだ届いていないが、アレンはさらにクララが寝ている間に、メアリーの協力を得て部屋の中をくまなく調べた。
特に気になったのが、香油、化粧水、
すべては夫人がここ半年くらいの間に、持ち込んだもの。念のため、それらをクララに対して使わないよう、メアリーに進言した。メアリーも何か心当たりがあったようで、緊張した面持ちで申し出てきた。
――化粧品は奥様が自分も使っているものだから、必ず使うようにと。それから、普段お嬢様が召し上がるものには格別注意を払ってはいますが……、王族の方々のように毒見がついているわけでもありません。奥様がお嬢様を構いたいのだとお茶を淹れれば強く拒絶することはできませんし、食事の介助をなさったこともありました。お嬢様ご自身にも抗うほどの体力はなく、食欲がないと拒絶するのが精一杯っで……。
黒の、気配。
(全部一度にというわけにはいかないけど、どうにかして贈り物関係は鑑定に出したいな。お茶やお菓子といった、現物が残っていないものも気になる……。それそのものに毒性が無いとしても、特定の薬と反応して効力を強く引き出し、人体にダメージを与えるような食い合わせもあったはず。柑橘系の一部の果物とか……。問い詰めても「知らなかった」で通すだだろうけど。そもそも夫人は本当に何も知らないかもしれない。背後に誰か。誰かって、ほぼ確定だけど)
しかしどれほど濃厚な疑いがあったとしても、先入観からの決めつけは良くないと思い直す。すべては、きちんと手順を踏んだ調査に沿って判断すること。
問題は、間に合うかどうか。
おそらく、レスターとてこの屋敷で働き始めて、不審なものはいくつも目にしているはず。だが、鳴り物入りでいきなり執事の職に就いた以上、伯爵邸の旧来の面々に注目され警戒されていたことも考えられる。紹介者である公爵家のメンツを潰さないように慎重になり、大っぴらに動けない事情もあったに違いない。
そのとき悪魔が
余命をかけて、大罪を犯せ。
そしてクララはその願いを口にした。色欲の望みを叶えたい、と。
(悪魔……、悪魔か。いまのお嬢様の状態では、自力で調査することも、やり返すことも不可能だろう。悪魔が本当にいるなら、まずは体力をどうにかしてくれないかな。四日の眠りは「怠惰」にはあたらない?)
意識が戻ったとはいえ、目を閉ざしてしまえばクララの顔は病み衰えて死人のようであり、いつ息を引き取ってもおかしくないように見える。
また寝てしまったのかもしれない。
じっと見つめて、動きがないのを確認してから、諦めきれずにアレンは声をかけた。
「もう少し元気になってくれないと、『色欲』の立つ瀬がない。何か食べられそう? 『暴食』してみない?」
「……する……」
何も食べていなかった胃は暴食どころか、普通の食事すら受け付けないに決まっている。
それでもその日、クララはアレンが用意したすりおろしリンゴを、長い時間をかけて一個分完食した。
眠りに落ちる頃には頬にわずかに血色が戻っており、翌朝、メアリーが驚くほど健やかに目を覚ました。
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