第38話ヘイリーの恋の終わり
それから3ヶ月、神官ヘイリーは過ぎゆく季節を無感情に眺めていた。
ただ一つ、たまに湯治のような感覚でやってくる聖女・優奈の訪問だけは、ヘイリーの人生に彩りを与えている。
でも、それも今日でお終い。
ヘイリーは神殿を去ることにした。
理由の多くは国家機密として口を結ぶ様、国王陛下直々のお達しがあった内容で、詳しくは父や祖父に話せなかった。
反対されるかと思いきや、「好きにすると良い」と言われた。
ヘイリーは絶対に家業を継ぐものとして生きてきたので、肩透かしを食らった気分だった。
そして去る前のひと仕事として、ほんの少しだけ寂しい気持ちを抱きつつ、哺乳瓶やベビーベッドを処分した。
その内、誰か新しい大神官が立ち、この神殿を持ち直してくれるだろう。
もともと、あの大神官がこの土地の神様であった時の神殿だ。
神なき神殿に何の意味があるのか疑問だが、信仰の象徴として人々が祈りを捧げる場は必要だ。
だが、今となっては何に対して祈るのかヘイリーは分からなくなってしまった。
(神は去ったと、開示すべきでは…)
いや、とうの昔にこの地の神は神であることを辞めたのだ。
その開示に何の意味があろうか、とも思う。
そんなことを考えながら、ぼんやりと大神官の定位置を見つめていると、来訪者を告げるベルが鳴った。
このベルは鍛えられた法力のみによって聞くことができる。
「おーい!ヘイリー、行ってきてくれー!」
と先輩神官の声が響いた。
(たまにはお前が行けよ)
などと思いつつ、門の前で控えていると、風の向きが変わり聖女独特の気配がした。
門がひとりでに開いて来訪者が姿を表す。
「…お妃教育は宜しいのですか?ユーナ様」
「お陰様で毎日叱られております」
すっかり垢抜けた優奈がスカートの裾を広げて挨拶してくれた。
「今日も温室に行かれますか」
「お願いいたします」
今日で神殿から去るつもりだったヘイリーは、なんてタイミングなのだと思った。
これでは、決意が揺らぐ。
温室の扉を開け、優奈を入室させた。
すぐに去ろうとすると
「少しお話ししませんか」
と言われたので、まさかと思い共に入室した。
「心を読んでおられますか」
真顔でヘイリーは聞いた。
「いいえ。ですが、なんだかとても悲しそうだから」
優奈と共にベンチに座るとヘイリーはぽろぽろと言葉を紡ぐ。
「実は、大神官様は見えないほどに小さくなり、確認する術を失いましたが、恐らく…」
「そうですか。大神官様は罪深い方でしたが…恐ろしい思いもしましたが…私はそれほど嫌いになれません」
優奈は俯き唇をきゅっと結んだ。
「僕もです」
ヘイリーの本当の気持ちだった。
「なぜ、こんなにも苦しいのでしょう」
優奈は俯いたままぽつりと言った。
「人は皆、死に直面すると苦しむものです。身近な死ほど苦しみは大きくなる。故人の思い出に心が押し潰される。だから苦しいのです。ですがそれは過去の仮初の姿を投影しているにすぎません。苦しみは過去にあるのです」
「手厳しいですね。ですがおっしゃる通りかもしれません。さすが神職の方のお言葉は…重い」
「まあ、それも今日まで。僕はここを辞します。ユーナ様とも、もう会うことはないでしょう」
優奈は目を大きく見開くと、僅かに唇を開いて何かを言いかけた。
左手でそれを制す。
「何も言わねーで下さい」
ヘイリーはセンボンガジュの葉を一枚取ると、優奈にそれをかざし、呪文を唱えた。
ポフンと柑橘の香りが優奈を包む。
「そんな訳で、王太子殿下とユーナ様の結婚式には参加できません。代わりに、ユーナ様の人生に降りかかる一切の災いを祓うつもりで法力を使いました。どうか…お幸せになってください」
ヘイリーは胸の前で腕を組み、深く頭を下げた。
「寂しく…なりますね」
優奈はやっと、それだけ言うことができた。
しばらく温室で過ごした優奈はヘイリーを見送りたいと何度も申し出たが、固辞した。
こうして、ヘイリーの淡い恋は誰に知られることなく、ひっそりと幕を下ろした。
(まずは母方の墓参りに、それから日照りが続いていると言う隣国へ行って…)
ヘイリーは込み上げる何かをぐっと堪えて、荷造りを再開した。
その日の午後、神殿を辞した。
白い法衣は風をよく孕む。
ヘイリーはそれから各地を廻り、貧しさや病から人々を励まし、後に世界中から愛された。
✳︎ ✳︎ ✳︎
目を覚ますと、そこは虹色の空と、黄金の雲が敷き詰められた壮大な景色だった。
「私」は、神だった頃の姿に戻っていた。
覚えている。
人間に出会う前、「私」はかつて、ここにいたからだ。
ふ、と風が吹いて、声だけが響く。
『おかえり。人生という旅は楽しかったか』
いいえ、「私」はズルをしました。
ここに帰りたくなくて、何度も罪を犯しました。
『知っている。これから君は罰を受けなくてはならない』
「私」を産み落とした歴代の聖女たちが突然現れ、周りを囲んだ。
虚な目をした彼女たち。
たくさんの手が私へと伸ばされる。
その手は、代わる代わる私を包み、撫で、慈しみ
そして
突然、上から押さえつけられる。
無数の手が、ずぶずぶと私を無限の闇へ押し込んでいく。
皆、安らかな顔のまま。
私は抗う術もなく、どんどん沈んでいく。
『安心したまえ、彼女たちは変わらずここの住人だ。君は堕ちるといい。どこまでも、深く、果てのない奈落へと』
「私」の魂は、地の底へと導かれた。
『永遠の様な長い責め苦に耐えれば、いつか人間に生まれ変われる』
虹色の空の下、聖女たちは揃って合掌した。
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