第32話:詰まらない距離


「……あったかいねぇ」

「うん」

「まだねてていいかなぁ……」

「いいよ」


 瑠奈の髪に手の平を滑らせる。体に瑠奈の呼吸が伝わってくる。

 何だろう、この満たされていく感じ。何でこんなに幸せなんだろう。


「ちはやくーん……」

「んー?」

「ずっとこのままがいいなぁ……」


 瑠奈がそう言ったのは布団の中のことなのか、それとも俺とこうしていることなのかは、正直分からなかったけれど。でもこのままがいいという気持ちは俺も同じだった。

 なので、俺もと返せば瑠奈の頭がもぞりと動いて、顔が現れた。

 首を痛めるんじゃないかと思うくらいに俺を見上げる瑠奈の目はぱっちりと開かれていた。何のセットもされていない前髪がさらりとこめかみへ流れていく。


 いつもは緩く丸みがつけられているそれは目にかかる長さだったんだな。逆らうように額に残っている束を指で摘まんで流してやると、くすぐったいと笑うのにどこか気持ちよさそうだった。


 昨日は赤かった額は白肌に戻っている。良かった、内出血はしてなさそうだ。


「……はっ!」


 形のいい頭に手の平を滑らせていると、気持ちよさそうに閉じていた目が突然、カッと開いた。

 かと思えばあげていた顎を下げて両手で顔を覆う。


「どした?」

「……ダメ、寝起きじゃん。見ないで」

「今更だな。悪いけどもうめちゃくちゃ見たわ」

「顔洗ってないのに。歯だって磨いてないー」

「俺も俺も」

「目ヤニとかついてるかも……、よだれとか出てたかも」

「よし、見せてみろ」

「い、や、だぁ!」


 瑠奈の両手を掴むと予想以上の力で抵抗された。「うおぉぉ」と踏ん張る声がする。本当に嫌らしい、安心しろ、ちょっとした茶番だ。しかしなんちゅう声出すんだ、笑ってしまうじゃないか。


「じゃあ起きるか」

「うぅ。出たくない……」

「まだ眠い?」

「違うー」


 瑠奈は手の平を広げてその隙間から俺をちらりと見ると、


「千早くんとくっついてたい、の」


 そう言って再び手の平を閉じた。

 瞬間ぷつんと何かが切れた気がした。どくんと心臓が体を殴ってきた気がした。

 頭の中が空っぽになった感じだ、何も考えられない。


 気が付くと俺は瑠奈の体に覆い被さるように、左肘をついて瑠奈の頬に手を伸ばしていた。そしてそのまま隠すようにしていた手の平を包んで剥がす。


 瑠奈の顔が俺の影に染まる。

 あぁ、切れたのは理性か。


「……千早くん、鳴ってる」

「……無視する」

「え、なんで」

「今無理」


 スマホが鳴っている。だけどもそんなのどうだっていい。


 俺たちは恋人関係ではないし、瑠奈は好きな奴がいるわけだし、俺は瑠奈が好きなのか分からない。

 流されているのかもしれない。千鳥の「流されんなよ」との言葉が一瞬思い出されたが、それもどうでも良かった。


 唇に触れた親指を滑らせればぴくっと瑠奈の肩が跳ねる。ほんのりピンク色をしたそれは予想以上に柔らかかった。


 相変わらず鳴り響いている着信音にベッドの軋む音が混ざり合う。

 嫌なら言って。言えないなら顔背けて。そうされれば俺はきっと踏みとどまれる、自制が働くと思うから。


 だけど瑠奈は微かに顔にかかっていた自分の右手を退かすと、顎をあげて俺をじっと見た。

 それは拒絶を示しているとは思えなかった。


 うるさいスマホを枕で覆えばベッドを通じて音が聞こえたけど、もう気にならなくなった。

 何も考えられない。瑠奈の唇に触れたい。


 上体を支えるようにベッドに置いた左腕に力が入る。瑠奈の瞳に俺が映る。あぁ、このまま距離がなくなれば、瑠奈の目に俺は映らないのか、なんて思った。


「瑠奈」

「千早く、ん……」


 距離なんかいらない。触れたい、塞ぎたい。指なんかじゃなくて――


「……っ」

「……」

「ち、千早くん」

「……」


 お互いの息を感じる距離で瑠奈が苦笑する。俺は舌打ちをしてしまった。だって着信音だけならまだしも、チャイムが鳴っている。しかもこの音はオートロックがある一階から鳴らされるものではなく、部屋のチャイムだった。


 何でこのタイミングだよ。前回といい、誰か見てんのか。


「出た方が」


 そう言う瑠奈の声はやっぱり苦笑交じりで俺はベッドから降りた。

 部屋の中は随分冷えていた。いや、俺の体が熱を持ち過ぎていただけなのかもしれない。ピンポーンと響く音が徐々に冷静さを取り戻させる。


 ドアノブを握ると正常な思考が働きだした。


「……瑠奈、ごめん」

「えっ」


 何しようとしてたんだ、なんていう自問自答すらない。だって体は勝手にそれをしようとしたわけじゃなかった。明確に、俺は瑠奈に触れたくなったんだ。


 だけど順序が違うだろ。いろいろとぶっ飛ばし過ぎだ。

 触れたくて仕方なかった、けれどこんな風に触れていいのか? 瑠奈は俺にとって、雰囲気でやっちゃっていい相手か?


 そこまで俺は瑠奈を軽視してるか? してないだろ。俺は瑠奈を大事に思ってる。どんな意味合いでかは、今は頭が回らないけれど、だけど大事だ、大切だ。


「変なことしようとしてた、まじでごめん」


 瑠奈は受け入れてくれそうだったけど、でも俺がしようとした行為はあまりにも独りよがりだった。


 訪問者よ、邪魔してくれてありがとう。

 でもまた祈ってこようもんならそれは許さんからな。


 俺は瑠奈を残して部屋を出るとリビングへ急いだ。瑠奈がどんな顔で謝罪を聞いていたかは見なかった。見れなかった。



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