第39話 眠れない夜
周囲から聞こえてくる呼吸音に、暗がりでも煌々と光り輝く瞳を前に、エイジの胸に不安がもたげていた。
それは周りに立つ男たちも同じだろう。
誰だって傷つきたくないし、死にたくはない。
革鎧を身につけてはいても、狼の牙は鋭く、一撃を喰らえばその後病に倒れる可能性はきわめて高い。
戦の訓練や経験をしていない人間は、敵前逃亡をすることが多い。
四方を囲まれてしまい、逃げ出すこともできないこと。
それが脱走者を出さない意味では役立っていた。
「やばくねえか。どうするんだよ」
「俺、死にたくないぜ」
「落ち着けぃ! やることは変わらない。打ち合わせ通り壁を作れ!」
マイクの声に、浮足立った男たちが、耳を傾ける。
闇の向こう側、手にした明かりから隠れるようにして、獣の息遣いと唸り声が聞こえてくる。
マイクは腰だめに木盾と槍を構えると、大きく響く声で言った。
野太い声がこんな時は頼もしい。
やるべきことが明確になって、浮き足立っていた男たちの動きが一変した。
段取りを教えられていたものが台車に群がり、木板を取り出すと、それを隊の周りに菱型に立てかけていく。
木板は高さ一メートルを超えていた。限りなく薄く、本気でぶつかれば簡単に潰れてしまうだろうが、狼にそれがわかるとは思えない。
すべてを完全に囲んだわけではなく、前後左右、ちょうど角になる部分だけが開け放たれていた。
これならば攻められる場所を限定することができるから、落ち着いて槍を突き出すことが出来るだろう。
狼は唸り声を上げて威嚇してくるが、即座に迫ってくる様子はない。
「準備中に襲われないものですね、マイクさん」
「狼は一瞬の攻防よりも、長時間追いかけ回す狩りの仕方をするからな。こっち側がしっかりと牽制してたら、急に襲われることも少ないんだよ」
「よく考えてますね」
「当たり前だろ。こちとら何回も同じような戦いをしてきたんだ。嫌でも学習するさ」
マイクは狼が包囲を狭めてくると、猟犬のジェロをけしかけさせて、それ以上近寄らせないようにしていた。
近くにいた男たちも槍を突き出して威嚇する。
荷車の板は全て使われ、周囲をしっかりと取り囲む。
狼からは飛び越えにくい高さだが、同時にこちらの視界を遮るほどではない。
向こうが攻めてくるタイミングはしっかりと把握することが出来、また投石も可能だった。
「準備は出来たか? なら、次は石を持て。息を合わせて投げろ。分散するな。狙いを合わせろ」
細かな指示が幾つも飛ぶ。
エイジも荷車から石を幾つも抱えると、振りかぶって投げた。
石は結構重たい。野球の投球フォームのようにはいかず、砲丸投げとオーバースローと中間のような、変な動きになった。
昔の合戦では石を投げることは普通にあったらしいことを思い出す。
一人では大した脅威にならない投石も、数が集まれば点ではなく面の攻撃になる。
エイジも一つ、また一つと石を投げつける。
狼は素早く左右に動いて石をかわしていく。
だが、避けきれないものもある。
何体かが直撃する。当たりどころの悪かった狼は、動きが明らかに鈍った。
「フィリッポ、そっちは任せたぞ」
「おうっ!」
ちらりと視線を動かせば、フィリッポが一人、板壁の防御を抜けだしていた。
大丈夫なのか?
そんな心配は杞憂に終わりそうだった。
エイジが作った一振りの大槍は、フィリッポが身につけていた。
重たい槍をまるでバトンのようにクルクルと目まぐるしく回転させたかと思うと、次の一瞬には槍先を叩きつけている。
一人だけ格が違い過ぎる。
離れた所で見ても、槍先を目で追うことはできなかった。
狼の俊敏な動きも、フィリッポは完全に捉えているようだった。
飛びかかろうとした狼が宙空に浮かんだ瞬間、槍が眉間を貫いている。
脳まで切っ先が達したのだろう。
ドサッと力なく落ちる姿は、命が失われたことを表している。
フィリッポが一度槍を振るえば確実に狼の命を刈っていく。
狼はしきりに唸り声を上げてフィリッポの周りで威嚇するが、けっして迂闊には飛び込まなくなった。
神話の英雄や、歴史上の名将のような姿だ。
心配はいらないと、理屈も抜きに納得させられた。
効いている。
戦いが優位に進められていることを認めて、初めて生きた心地がしてくる。
息苦しさが消えていた。
隣ではフェルナンドが荷車から石を運んでいた。
「君の分だ。どんどん投げ続けろ」
「よくこんなに石がありましたね」
「何言ってるんだい。前に麦畑を拓いた時に大量の石が出て、処分に困っただろう」
「ああ! そんなこともありましたね」
荷車一台いっぱいに積まれるぐらいもあったのか。
表面からは見えない土の中にある石の量に驚くとともに、今は武器となっている不思議な縁を感じる。
石は大量に消費されていく。
全力投球で、すぐに息が上がってくる。
投石がまばらになれば、狼は隙を突いて、何頭かが突撃してきた。
板の間を抜ける瞬間をつき、槍を突き出す。
槍の扱いは素人でも、来る場所とタイミングがわかっていれば、するべき仕事はそう難しくない。
槍先は狼の体を確実に捉えた。
だが、鋭い槍先が皮を切り裂き、肉を抉るが、それでも狼の突進は止まらない。
「うわあっ! いてぇっ!」
「大丈夫か!? 援護しろ」
血をしぶかせながら狼は大きく口を開き、一人の男の腕に噛み付いた。
噛み付いた狼は決して口を開かない。唸り声を上げながら、執拗に噛み続ける。
動きが止まったところを何度も槍で突き刺す。
狼の断末魔とともに、体から力が抜け、地に倒れ伏す。
だが、それでも牙は突き刺さったままだ。
狼たちは仲間の死に怨嗟の唸りを上げる。
だが、少し後ろに下がって包囲を緩めた。
命中率が途端に下がる。
「石が減ってきましたね」
「だが、狼は確実に三頭は殺したし何頭かはケガをしているはずだ。上手くいけば退散するぞ」
「最後の一頭まで戦うなんてことはありませんよね」
「普通はない」
普通はない、か。
エイジが心の中で呟いた。
普通はないということは、例外があるということだ。
もともと今回包囲されたこと自体が、例外なのだ。
まったくもって安心できない言葉だった。
茂みの中からガサガサと音を立てて、大きな影が近寄ってきた。
そいつはあまりにも大きかった。
大型犬のジェロが小さく見えるほどの体躯。
マイクが憎々しげに、群れのボスを睨みつけた。
「デカイな。異様に群れの規模が大きいと思ったんだ……。その謎が解けたぜ。こんなバケモノが頭なら、そりゃ従うだろうさ」
体高だけでも胸元に達しようとしている。
大きく口を開ければ、人の頭も丸かじりだろう。
圧倒的な威圧感に、フェンリル……とエイジは自然とつぶやいていた。
狼は普通一五匹前後でしか群れない。
だから、今回のような囲まれる事態は、普通なら考えられないことだ。
エイジがフェンリルと呼んだ狼が、常識を超えて強く大きかったために、リーダーとしての能力も高かったのだろう。
特別大きな群れを率いることが出来た。
マイクは弓に矢をつがえながら、注意深く狙いを定める。
引き絞られた弦がキリキリと音を立てる。
ヒュッ、と音が立つと、矢は空気を切り裂いて鋭く飛んで行く。
結果を見届けることもなく、弓は再び引き絞られる。速射だ。
そこからの攻防はさらに凄まじかった。
狼のボスは一瞬にして横跳びに移動して矢を避けると、即座に前進を開始する。
その速度は放たれた矢にも劣らないものだ。
焦った他のものが石を放つが、よく狙ったわけでもないそれらが脅威になることはない。
的の大きさ故に偶然当たった石も、分厚い毛皮に弾かれてしまう。
フェンリルは明らかにマイクを一直線に狙っていた。
トップ同士の対決だった。
敗れたほうの組織が恐らく瓦解する。
「慌てるな、板壁があるんだ。槍を持ってる奴はタイミングを合わせろ!」
マイクは自分が狙われながらも冷静だった。
自分も槍に持ち替え、周りを槍先で固めさせる。
エイジも石ではなく槍を持った。
初陣の自分に何が出来るかもわからないが、指示を守り、戦力になる。それだけしか頭になかった。
板壁の隙間から出てきたところを槍衾で突き崩す。
マイクのこれまでの経験から、確実に倒せることを確信していただろう。
自身が狙われている状況でなお、マイクの声に焦りの響きはなかった。
「来るぞ。狙え」
フェンリルは板壁に肉薄した。
板が邪魔になって、こちらが投石をすることも出来ないほどの距離だ。
フェンリルはそのまま折れ曲がって、隙間にやってくる――。
そう誰もが考えた瞬間、フェンリルの体が宙を跳んでいた。
「馬鹿なっ、飛び越えるだと」
その巨体と異常なまでの瞬発力に任せ、フェンリルは板壁を跳び越えた。
誰一人即座に反応できたものはいなかった。
一瞬の動揺を嘲笑うかのように、フェンリルは口元を歪め、大きな牙をさらけ出した。
フェンリルは再度跳躍すると、マイクの首へと牙を向けた。
――その時、白い一陣の風が走った。
風はエイジの脇を猛烈な勢いで通りぬけ、そしてマイクの元へと向かい、フェンリルの喉元に喰らいついた。
「ジェロ!」
マイクの猟犬ジェロが、フェンリルに飛びついていた。
すんでのところでマイクは一命をとりとめたが、決着はまだついていない。
ジェロとフェンリルは猛烈な勢いで上下を入れ替わり立ち代りし、相手を抑えこんで喉元に食らいつこうとしている。
犬と狼の怒号が響き渡る。
率いられていた狼は、ボスを信頼しているのか、応援に来る気配はなかった。
誰も援護に回ることさえ出来なかった。
あまりにも上下のいれ替わりが激しく、同じ場所にはひと時も留まらない。
槍でも突こうものなら、ジェロを傷つけてしまう恐れがあった。
いつでも助けに入れるように、マイクもエイジも、固く槍を握りしめた。
攻防は一瞬で決着がついた。
ジェロはフェンリルに抑えこまれていた。白い毛並みの喉元が露わになり、深々と牙が刺し込まれる。
ジェロのか細いきゅーん、という悲鳴が聞こえた。
「ジェロ! てめえ、放しやがれ!」
この騒動で初めて、マイクが焦った声を上げた。
犬や狼は、獲物を牙で攻撃している時が最も狙いやすくなる。
攻撃方法が牙しかない上、獲物の重みで動きが極端に遅くなるからだ。
助けなければならない。
エイジは無意識に槍を繰り出していた。
鋼鉄の刃が狼の毛皮を裂き、肉を抉る。槍は前足の付け根、肩に直撃していた。
だが、血を流しながらもフェンリルは口を開かなかった。
「すぐ助けてやるからな!」
マイクが槍を繰り出せば、首元に直撃した。
確実に致命傷になっただろう。
だが、それでもジェロが自由になることはなかった。
狼は一度噛み付いたら、相手が生きている限り、たとえ己の命を失っても口を開かない。
槍が何度体を襲おうと、フェンリルは牙を抜かなかった。
フェンリルは死んだ。
囲んでいた狼も、リーダーの死を確認したのか、包囲を解いて退いていった。
おそらく、余程のことがない限りシエナ村に近づこうとはしないだろう。
戦いは終わった。
その場に残った人間は、ホッとして武器を落とすもの、膝をついて脱力するもの、うっすらと目尻に涙を浮かべるもの、さまざまだった。
そして、ジェロの救出に全力をあげるもの。
「ジェロ、今助けてやる! まだ死ぬんじゃねえぞ!」
きゅーん、と小さく鳴いたかと思うと、ジェロはマイクの手を弱々しく舐めた。
「お前にはこれからまだ狩りを手伝ってもらわなくちゃならないんだからな。もうすぐ春だ。お前の好きな鹿肉をたらふく食おうぜ。産まれたばかりの子犬に狩りを教えるのもお前の仕事なんだ。だから……まだ死ぬな」
マイクが声をかけ続ける。
ジェロは息も絶え絶えという様子だったが、それでもマイクの手を舐め続けた。
「くそっ、どれだけきつく噛んでやがるんだ。なかなか抜けねえ」
「私も手伝います。槍をテコのように使いましょう」
死後硬直にはまだ早かったが、最後の執念のように牙は食い込み、なかなか抜けなかった。
苦労して牙を抜くと、ジェロの首筋からドロリと血が流れていた。
いくつも深々と穴が空いている。
エイジが布で押さえつけるが、すぐに真っ赤に染まってしまう。
幸いにして太い動脈や気管までは達していないようだった。
ジェロの首元につけられた革の輪が、即死を救ってくれていた。
「止血は私がやっておきます。撤収しましょう」
「ああ、そうだな。それが、俺の仕事だ……。ジェロを頼む」
マイクはこの場を離れることにほんの一瞬迷いを見せたが、すぐに立ち上がった。
ヘタっている男を立ち上がらせ、ケガをしていれば勇気づけ、板の片付けを始めさせている。その姿は動揺を感じさせないものだった。
すごい人だな。
エイジはジェロを抱えると、荷車の石を積んでいた場所に載せる。帰る途中、川で水を汲み、傷口の汚れを綺麗に落とす。
村長の家に着くと、片付けもそのままに解散になった。
夜も遅いため、明日改めて集まり話し合う。
用事が終わったマイクは、ジェロの様子を見に駆け寄ってきた。
「ジェロは大丈夫か」
「だいぶ呼吸も弱っていますね」
「お前、どうすれば良いか知らないか? 色々考えつく知識があるだろう」
「医療関係は詳しくなくて。すみません」
「いや、お前は鍛冶師だからな。畑違いのことを聞いた俺が悪かった」
「血が流れすぎないように圧迫してあげることと、化膿しないように熱湯で消毒した布で傷口を優しく拭いてあげてください」
「分かった。ありがとう」
こんな時、傷口を縫えばいいのか、それとも焼けばいいのか、それすらも分からない。
そういった処理ならば、むしろマイクや村の薬師の方がはるかに詳しいだろう。
力になれないのがエイジは悔しかった。
帰ってきた男衆に、料理を作っていた女衆が家から出て、次々と迎えている。
タニアもエイジの姿を見つけようと探している。
「やあタニアちゃん、こっちだ!」
「マイクさん。狼退治、上手くいきましたか?」
「ああ。頭をやっつけたから、多分襲ってこないよ。ほら、旦那のお帰りだぜ」
「エイジさん! お疲れ様でした」
「ただいま」
「だ、大丈夫でしたか!?」
「大丈夫だよ。別に怪我もしてないし、張り切りすぎて疲れちまっただけだろうさ」
「エイジさん、本当に大丈夫ですか?」
よほど疲れた顔をしているんだろうか。
心配そうに顔色をうかがうタニアに、少し心配になる。
もしかしたら気が昂って気づいていないだけで、かなり消耗しているのかもしれない。
「ありがとう。本当に大丈夫」
「旦那さん、大活躍だったんだぜ。狼を前にしても全然退かずにさ、槍を持って、こう、エイヤ! ってな」
「そんな、俺なんて全然……」
「謙遜するなよ。そういうわけでさ、タニアちゃん。こいつ今日は軽く食事取らせて、早めに寝かせてやってくれや」
「分かりました」
努めて明るくタニアに説明するマイクの姿が痛々しい。
本当は今すぐ駆け出したいはずだろう。
これ以上近くにいれば、マイクは対面を保つ必要があり、かえって迷惑になる。
そう思ったエイジは、タニアからもらった食事を軽く口に含むと、その場を後にした。
その夜。 少しウトウトしたかと思うと、すぐに目が醒めてしまう。
命がけの戦いを後にして、神経が昂ぶっていた。
今日は熟睡できそうにないな。
エイジはベッドから起き上がると、冷たい外気に身を震わせる。
掛け布団をしっかりとタニアにかけて、家を出た。
少し夜空が見たい気分だった。
コートを引っ掛けて外に出ると、月が輝いていた。
雪がうっすらと積もっているからか、夏よりもはるかに明るい。
だが、外回りの最中は暗かったな。
戦場を思い出すと、それだけで恐怖が沸き上がって背筋が震える。
「あれは……」
マイクとジェーンの家から、かすかに明かりが漏れていた。
貴重な油を燃やしてまで、明かりを必要とするわけは、おそらく猟犬のジェロの様態が思わしくないのだろう。
子どもと変わらないくらい愛情を注ぎ、ともに狩りをし、信頼しあってきたパートナーだ。
エイジは狩りの瞬間を思い出す。
猟犬のジェロが噛まれた時、はじめてマイクが焦った声を挙げた。
誰よりも辛かったはずだが、一度も弱音や文句を吐かなかった。
陣頭指揮を執り続け、普段からは考えられないほどに頼もしく、冷静に動いていた。
だが、その身内ではどれほど心乱れ、感情が荒れ狂っていたのだろう。
心配で仕方がなかったはずだ。
だが、欠片も顔に出さず、それどころかタニアに安心させるような態度までとる。
馬鹿だなんだと言われながら憎まれず、それどころか頼りにされるわけが、今頃になってよく分かった。
マイクは大きな男なのだ。
そして、全てが片付いた後、自分の大切なパートナーの手当に全力を傾ける。
はたしてまた元気に駆け回ることが出来るのかどうか、エイジには予想もつかなかった。
もしかしたら、明日には死んでいるかもしれないのだ。
――今夜は眠れないだろうな。
そう思うと、せっかく休まるように言われていたのに、こうして外に出ているのも何だか申し訳なく、足早に家に戻る。
エイジの無事に安心して、ぐっすりと眠るタニアの姿が何よりもホッとさせてくれていた。
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