第33話 鍛冶始め
ああ、寒い寒い。
空を見上げれば灰色の空がどんよりと覆っている。
陽の光が注ぐことはなく、白いものがチラチラと混じっている。雪が降っていた。
玄関から空を眺めて出るのを渋るエイジに、タニアが上着をかけてくれる。
以前作ってくれた毛皮のコートだ。
狐の皮を加工したそれは、ふわふわな手触りと、確かなぬくもりをくれる。
「今日は普段よりもずいぶんと寒いですね」
「鍛冶場で冷えないように気をつけてください」
「それは大丈夫ですよ。なにせ、火を焚きっぱなしですから」
「そうでした」
「タニアさんこそ、ちゃんと火を焚いて、体を冷やさないでくださいよ」
「大丈夫です。エイジさんが作ってくれたこのカイロでしたっけ、ちゃんと温めます」
カイロの原料は鉄粉だ。
鍛造中に出てくる鉄くずを綿袋に入れてカイロをつくっていた。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってきますのキスって……毎日していても慣れませんね。恥ずかしいです」
「その恥ずかしそうな表情が、また良いんですよ」
「エイジさんー」
「ごちそうさまです」
情けない声を上げながら、熱した鉄のように赤くなった表情で、タニアがおずおずとキスをした。
人通りの少ない鍛冶場への道は、うっすらと雪が積もっている。
踏みしめるたびにサクサクと小気味の良い音を聞きながらも、どうにも心が踊らないのは、子どもではなく大人になったからだろうか。
エイジは自宅から鍛冶場へと移動しながら、しきりに手をこすりあわせ、吐く息で暖めた。
吹き付ける風は冷たいが、心は暖かかった。
豊穣祭から二週間が経っている――豊穣祭のその後に関しては、思い出したくない。ただ一言、本っ当に大変だった。
もといた場所で考えるならば、今日は鍛冶場にとって最も大切な一日の一つになる。
鍛冶場についたエイジは、木戸を開けると、いつもはしない
冬至は年によって変化するが、およそ十二月二十日前後。
まる二週間がたった今は、新年であり、鍛冶始めになる日だ。
とても重要な催事だから、この日ばかりは薪や炭の心配はしていられない。
遠慮せずに火を熾す。
鍛冶場の床には色々なものが降り積もる。
灰や砂鉄だったり、鉄を打つ時に出る酸化鉄や微量な
エイジがまだ日本にいた頃、実家では農家でこの土を欲しがるものがいた。
様々な物質を含んだ土は、微量な栄養素となって、食物を育てるのに好都合らしい。
父とともに、意外なものが重宝されるものだと笑ったものだ。
それが今は自宅の裏の畑に使うようになったのだから、人生は何が起こるかわからない。
掃き掃除も一段落がつく頃、人の気配があった。
一回り小さい人影は、弟子のピエトロのものだ。
「おはようございます!」
「ああ、おはよう」
「すみません、準備をしてもらって」
「良いんだよ習慣だから。それより、先に言っておいたと思うけど、ちゃんと礼をする」
「はい!」
ピエトロにも、鍛冶場のしきたりは教えるつもりだった。
元いる場所とは文化も違うとはいえ、技を教えるならば、その精神性も教えるべきだと思ったのだ。
精神論だけを重視するわけではないが、格言や考え方もまた、技術の一部として生きるものはたくさんある筈だからだ。
ひょんなことからエイジも弟子をとることになったが、そもそもエイジ自身も腕を磨く毎日だ。
そして教える日々は、自分自身にも新たな気づきを与えてくれる。
「あのー」
「ん? どうした」
「祈りを捧げるって、どんな神様に祈りを捧げたらいいんですか?」
「ああ……そうだな」
そこから説明しなくてはならないのか。
鍛冶屋が信仰する神は幾つかに分かれる。
エイジの家では金屋子神が信仰されていた。
またの名を
本社は島根県になる。伝承によると大きな桂の木の梢に止まった時、鞴がひっかかっていたのだそうだ。
ふいご祭りと呼ばれる催事の時には、神主さんに拝んでもらう。
「いいか、すごく言いづらいから、しっかりと聞いておくんだよ」
「はい」
「鍛冶の神様の名は、金山彦天目一箇命、という」
「かなやまびこ、あめのま……ひとつの、みこと」
「そうだね。祈るべき神様がいないなら、この神に祈りなさい。上手な物ができますように、火事になりませんようにってね」
「親方、舌を噛みそうだよ」
「早口で言ってみよう」
「かなやまびこあめっ――!! ……ひたい。親方は言えるんですか?」
「よし、じゃあ黙って祈るんだ」
「ずるい! 親方も言ってよ!」
鍛冶場は火を常に扱う場所だから、火事が多い。
どれだけ消火に気を配ろうと、ある時気まぐれのように火の粉が舞って燃え広がることはある。
それだけに神に防火をお願いする。
真剣に祈りを捧げるピエトロの姿に、教育者としての喜びを感じながら、終わるのを待つ。
「できました」
「よし。じゃあ打ち始めだ!」
「はい!」
「まずはいつもどおり炭を打って」
ピエトロが炭を小さく割っていく。
ナタ片手に炭を割り、一つ一つ二センチほど小さな炭のチップを作るのだ。
出来るならば松か栗の炭が良い。
鞴で温度調整がしやすく、わざと低温で温めたりするのが容易だから。
もともと炭のチップの蓄えはあるのだが、一定量は常に溜めておくのが習慣になっていた。
それにこの動作は、鎚の動きによく似ている。
狙ったところに物を振り下ろす動作、芯で捉える動作は、鎚振りにも役に立つ。
エイジはめったに褒めない父親から、筋が良いと褒められたことが小さな自慢だ。
見たところピエトロは悪くない。だが、格別早いわけでもない。
今後の上達次第といったところだ。
「親方、炭の用意出来ました」
「よし、じゃあ火を
「はい!」
「ああ、ちょっと待って」
「はい?」
「いつもみたいに火打石は使わないよ」
「ええ? じゃあどうやって火を熾すんですか」
火打石の準備をはじめたピエトロを止める。
一年でもこの日ばかりは、特別な火の熾し方をする。
火打石を使わないと聞いて、ピエトロはものすごく不思議な顔をした。
「鉄を打つんだよ」
「は、はぁ。いつも熱した鉄を打ってますよね」
「そうじゃなくて、この冷えた鉄を打つんだ」
手に持ってみせたのは細い鉄の棒。
それを
まあ、言っても理解しづらいよな。
露骨に表情に出てしまったのか、ピエトロが珍しく焦った表情をした。
少し怯えてしまっている。
ガンコ気質な親方なら、この時点で拳が飛んでいるが、エイジはスパルタ教育をするつもりはなかった。
どちらも同じように言うことを聞いてくれるなら、どうせなら飴と鞭の飴を与えたい。
「鉄には不思議な性質がある」
「はい」
「叩けば性質が均一になろうとすることや、磁力を持つこともそうだけど、もう一つ、鉄を曲げたり叩いたりといった外力を加えると、鉄自体に熱を持つ」
針金などを折ろうとぐねぐねと曲げていると、熱くなって手に持てなくなる。
その現象を、鎚で打つことで起こす。
発熱させ、それによって火を熾すのが、古来から続く鍛冶場のしきたりだ。
「まあ、言って理解できるものじゃないか。見ておくように」
「はい」
鉄床に置いた鉄棒を鎚で叩く。
だんだん、押さえている手の方まで熱が伝わってくる。直接叩いている所はかなり高温になっているだろう。
乾燥しきった藁を絡ませると、やがてブスブスと煙が出たかと思うと、火が着いた。
「本当だ!」
「これだけ言っても疑ってたのか」
「いえ、俺は親方のこと信じてましたよ。ウソつくわけないって」
「ほら、この藁から火を大きくしていくよ」
ヘヘヘ、と笑うピエトロに、調子のいいやつだ、と呆れる。
雰囲気がとても明るいから、本気で怒れない。
得な性格をしているやつだなと思う。
職人には珍しいタイプだ。
藁から乾いた木皮に火を移し、炭へと徐々に大きくしていく。
水車鞴を動かして風を送ると、鉄を熱する場所――
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