第23話 記憶

 こんな朝は初めてだな、とエイジは思った。

 いつもと同じように、日の出とともに目覚め、朝の準備を始めた。

 違ったのはタニアの態度だ。

 普段は明るく笑みを絶やさないのに、今日に限ってふさぎこんでいる。

 表情は切羽詰まったようで、余裕が無い。

 動きにも精彩がなく、いつもは美味しい朝食も今日は今ひとつだ。

 一体どうしたのだろうと心配になった。


「体調、悪いんですか?」

「え?」

「昨日雨に打たれたから、風邪を引きましたか? 調子が悪かったら言ってくださいよ。無理したら大変です」


 基本的に風邪は大病だ。

 ハーブを煎じた風邪薬ぐらいならば用意できるが、こじらせてしまって肺炎になれば、体力がない子供や年寄りはすぐに死んでしまう。

 特にこの村の人々は十分なカロリーやミネラル、ビタミンなどを摂取できていない。

 エイジが思っている以上に、抵抗力は落ちているだろう。

 タニアがもしそんなことになったら。想像するだけでゾッとしてしまう。

 だが心配するエイジに対し、タニアは首を横に振った。


「全然体調は大丈夫ですよ」

「そうですか? でも、今日のタニアさんは、ふさぎこんでいるように見えます」


 ピクとタニアの肩が震えた。

 エイジにはタニアの気持ちは分からない。

 だが、ふさぎこむようなことが何かあるのだ。

 昨日の今日での変化だ。

 恐らくそれは昨日のことか、今日のことに関係しているに違いない。


「昨日の税のことですか?」

「はい?」


 返ってきたのは疑問。


「じゃあ、私の記憶のことですね」

「……はい」

「心配してくれているんですか?」

「……私はイヤな女です」

「タニアさん?」


 突然の言葉にビックリしてしまう。

 これまで忘れてしまっていた記憶が戻るのだ。

 タニアはきっと喜んで祝福してくれるに違いない、とエイジは確信していた。

 ならば、この態度は何だというのだろう。


「昨日の夜、エイジさんから記憶が戻るかもしれないと言われた時、私は良かった、と思いました」


 ならどうしてそんなに悲しそうな顔をしているのか。

 うつむきがちな顔は、目が潤み、今にも大粒の涙が落ちそうだ。


「でも同時に、考えてしまったんです。記憶が戻ったらエイジさんは変わってしまうかもしれない。私を愛してくれなくなるかもしれない」


 そんなことはない。

 そう言おうとする間も、タニアの告白は止まらない。

 胸の奥から吐き出すように、心をさらけ出していく。


「そう想像するだけで、胸が痛くなるんです。一瞬、そんな事になるくらいなら、記憶が戻らない方がいいんじゃないかとまで、思ってしまった……」


 ――私は、妻失格です。

 とうとう目尻に溜めていた大きな水玉が決壊し、溢れ出た。

 止めどなく涙が頬を濡らし、しゃくりあげる。


 まさかタニアがそんなことを考えているとは思わなかった。

 顔を手で覆い、表情を見せまいとするタニアの肩を抱き寄せる。

 叱られると思ったのだろうか。

 ビクリと震えたのは、華奢な肩だった。

 結ばれることもなく逝った前の夫が死んでから、一体どれだけの孤独を味わってきたのだろう。


 きっと何度も思い描いたに違いない。

 自分がいて、夫がいて、子どもがいて。

 一つの食卓を取り囲み、笑顔で毎日を過ごす幸せな家庭。


 ようやく現れた夫候補は記憶を失った変わり者だ。

 毎日を仲良く過ごせているとエイジは思っていたが、やはり言葉に出来ない不安があったのだろう。

 それが今、表面に出てきただけのことだ。


 言わなくてはならない。

 思わず泣き止んで、不安を一発で解消させるような言葉を。

 妻としての自信を取り戻せる一言を。


「子ども、作りましょう」

「はい?」

「子どもがいたら、タニアさんも私がどこか行くなんて勘違いしませんよね」


 何を言っているのか、という疑問の表情が、少しずつ溶けていって嬉しそうに変わる。

 しばらくは新婚生活を送りたいと思っていたエイジと違い、タニアはずっと子どもを欲しがっていたのかもしれない。


「ただ、たぶん夜泣きとかで大変ですよ?」

「……大丈夫です。私が全力で面倒を見ます」

「妊娠中はつわりとか体調悪いみたいですよ?」

「母親の誰もが通る道ですよね。構いません。私、エイジさんの子が欲しいです」


 子がほしいと言われて奮い立たない男がいるだろうか、否、いない。

 抱いた肩を押して早速コトに及びたい衝動をぐっと抑える。

 昼過ぎには村長との話し合いがある。

 それに結婚後は少々欲望のタガが外れてしまっていた。


「タニアさん、愛していますよ。記憶があってもなくても、それは変わりません」

「エイジさん……疑ってしまって、ごめんなさい」

「謝らないでください。女性に泣かれるのは苦手です」


 頬を濡らす涙を拭い、唇を触れ合わせる。

 泣きはらした目は充血していて、とても綺麗なものではない。

 それでも愛した女性のものだし、自分を思ってのことだ。

 胸が熱くなった。


「ほら、笑顔になって。ひどい顔してると襲いかかれないじゃないですか」

「……エイジさんはデリカシーがないです」

「そうですかね。そんなことを言うのはタニアさんぐらいですよ」

「もうっ、知りません!」


 拗ねたように唇を尖らせたタニアは、次の瞬間には満面の笑顔になって。



――ああ、この人はやっぱり、明るい雰囲気が一番似合うなと思った。





 エイジの手にゴトゴトと車輪の振動が伝わる。

 手押し車には昨日の交易品の油が積まれている。

 焼入れや水車の歯車の潤滑など、油の使い道は多岐にわたる。

 菜種油とオリーブ油、それぞれ粘度が違うため、使い道を分ける必要がある。

 他にも色々な油を試せたらな、と思う。


「親方ー。おかえりなさい」

「おはよう。ただいま帰りました。ピエトロ、荷物を運ぶの代わってもらえますか」

「任せてください」


 ピエトロが元気よく手押し車を押し、先を進む。

 元気があるのはいいが、遠慮の無い動きに積荷が壊れないか、少しヒヤヒヤする。

 だが、それも要らぬ心配だろう。


 おっちょこちょいでは刃物を多く扱う鍛冶は務まらない。

 ピエトロは手先が器用で、性格も素直だ。

 指摘に対しても言い訳や偉そうな反論をせず、まっすぐに受け止めることが出来る。


 将来は良い鍛冶師になれるだろうとエイジは思う。

 できる限り自分の技術を、鍛冶に関する知識を与えてあげたかった。

 後々は分からないが、たったひとりの後継者なのだから。


「油はひとまず奥に置いておきましょう」

「了解です」


 鍛冶場に着くと、作業を開始せずにまずは会話を始める。

 下働きをしているピエトロにも、税についての話はしておくべきだと思った。

 テーブルに向かい合って座る。


「留守番ご苦労様でした。留守中変わったことはありませんでしたか?」

「研ぎの依頼が三件ありました。鎌の二つは俺がやっておきました。一つはフィリッポさんが斧を持ってきて、エイジさんにお願いしたい、と言われたので置いてます」

「フィリッポさんが? あとで砥ぎましょうか」


 よほど気に入ってくれたのだろう。

 木こりのフィリッポは自分の斧をエイジ以外に触らせようとしない。

 こういった事は、何件かある。

 ピエトロにとっては悔しいことだろうが、まだ始めたばかりだ。

 比べられるのは仕方がない。

 むしろ悔しさをバネに技術を磨いて欲しいとエイジは思う。


「報告はそんな所ですか?」

「はい。後は木炭を焼いてました」

「では、今度は私の方から報告しましょう。昨日、村からフランコという人が来たのは知っていますか?」

「はい……。父ちゃんが次の賦役がどうなるかって心配してたから、知ってます」

「そうですか。彼とは昨晩話し合うことになって、その結果、鏃を五〇〇と鉈を十、納めることになりました」

「これまで要らなかったんじゃ?」

「それは私がまだこの村に来て間がなかったからです。払える環境にない新参者に、さすがに税は要求できないでしょう。それでですね――」


 ピエトロは頷いて言葉を待った。

 急に税について話され不安なのか、瞳がまたたいている。


「あなたにも釘や鏃といった体力の要らないものを作ってもらいましょう」

「お……俺が!?」

「そうです。といっても数は多くありませんよ。でも確実に慣れていきましょう」

「や……」

「や?」

「やったぁ!」


 ピエトロがグッと拳を握りしめ、大きく喜びを溢れさせた。

 一瞬の後、自分が失礼な態度をとったことに気づき、慌てて佇まいを正す。

 喜びを必死に隠そうとする姿が微笑ましい。


 そんな姿を見て、エイジは懐かしさを覚えた。

 自分も確か、初めて自分の作品を打つことを許された時、とてつもなく嬉しかったはずだった。

 だが、同時に釘を差して置かなければならない。

 特にピエトロは習い始めてから、先に進むのが早すぎる。

 基礎をしっかりと学ばせたいが、時間が限られている。

 器用貧乏の浅い技術にならないよう、注意が必要だ。


「ただし、作ったものは誰かが使うものです。自分の作ったものの出来によって、時には人を危険に晒すこともあります。釘一つでも疎かにしたら、そこから柱が崩れて人が死ぬことだってあります。あなたは作れる権利と同時に、責任もまた負ったということを、これから先、決して忘れないでください」

「はい!」


 いつだって、この気持ちを忘れずに鉄を打ってきた。

 誰かを幸せにしたくて、物を作ってきた。

 武器を作れと言われて拒否したのは、志と真っ向から反したからだ。


 自分の師は、今の自分と同じような気持ちで諌めたのだろうか。

 ぼんやりと思い出せそうで思い出せない父の顔。

 それが今日、思い出せるかもしれない。

 そう思うと、昼になるのが待ち遠しかった。

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