第2話 何者なのか

 家の中、がさごそ、がさごそとかすかに動く音がする。

 すでに火は落としてあり、辺りは真っ暗闇だ。

 開け放たれた窓から差し込む月明かりだけが、ぼんやりと室内を照らしていた。


 ……疲れた。

 エイジの体は半端ではなく疲れていた。

 気を張って活動していた日中はいい。

 食事をとって一日が終わると思った途端、体が鉛のように重くなった。

 本来なら指一本動かすのも億劫な状態だ。


 このような状態で知恵を絞るなどということが、いかに難しいかを思い知らされる。

 軽い運動は頭の回転を良くする。

 だが、深い疲労は頭の回転を鈍らせ、思考を単純にする。

 もう難しいことは考えたくない、と体が訴えかけていた。

 考えごとが必要なら、午前中に済ませなくてはならないだろう。


 粘った泥のような睡魔が全身に満たしているのを感じながら、エイジは壁を見る。

 真っ暗な視界から、ところどころ外が見える。


 古くなった壁が歪み、隙間が出来ているのだ。

 そこから空を見れば満天の星。月が明るかった。


 だが、隙間から下を見れば圧倒的な闇が広がる。

 どこにも明かりはない。

 月明かりと星の明かりだけが頼りだ。

 隣家も真っ暗で、星が途切れることで、ようやく輪郭が分かる程度だ。

 それでも非常にぼんやりと壁を見ることが出来る。

 暗闇に慣れるという、人間の能力を感じる一瞬だ。


 エイジは手探りで壁の穴を探していく。

 土壁の表面はザラザラとしていて、意識を集中しないと目的とする穴を見つけることは出来ない。


 穴は小さいものもあれば、かなり大きく指三本ほども空いている場合もある。

 今は良いが、冬場になれば隙間風が入り込んで寒さに悩まされるはずだ。

 昼の間に作っておいた粘土と藁を混ぜた物を、穴に練り込んでいく。

 作業の音に気付いたのか、タニアが声をかけてきた。


「……エイジさん?」

「ああ、スミマセン。起こしてしまいましたか」

「……いえ……大丈夫、です」

「壁の修理です。すぐ終わりますから寝ていてください」

「はい…………」


 寝ぼけていることが分かる不明瞭な言葉。

 タニアは夜に弱いらしい。

 おそらくは起こしていた体が、ドサッという音を立てたかと思うと、規則正しい寝息が聞こえてくる。


 起こしてしまって申し訳ないなと思いながらも、エイジは作業を止めない。

 体は疲れていた。

 本当は眠りたい。少しでも体を休めたかった。

 だが、わずかでも時間を割いて住環境を整えておく必要がある。


 また睡魔も感じていたが、何故か眠れる状態ではなかった。

 もう少し遅くなると、自然と寝ることができる。

 まるで体が、元々遅い時間に寝ていたかのようだった。


 自分は一体、何者なのだろうか?

 タニアは千歯扱せんばごきを見たことがないと言っていた。

 脱穀作業はとても原始的な、とても手間のかかる方法だった。

 原始的と思うからには、自分はもっと進んだ社会で過ごしていたのだろう。


 それだけではない。

 畑仕事は辛かった。

 そういった作業をしたことがなかったかのように動作は慣れず、次の日には節々が痛んだ。完全な筋肉痛だ。


 これも、普段畑仕事をしておらず、体が馴染んでいないことを示している。

 だが、周りの村民がほとんど畑を耕している村の状況を見て、自分が労働から解放されたような、特別高貴な存在だとは思えなかった。

 自分は一体、何者なのか?


 食事の内容に不満を覚えたのも不思議だった。

 量が少ないからだけではない。

 もっと美味しいものをいつも食べていた記憶があるのだ。


 そして、畑を見ればさまざまな改善点、改良点が自然と思い浮かんでくる。

 畑仕事をした覚えもないのにだ。


 ――自分は一体、何者なのだろうか?


 幾度となく同じ問いを心の中で繰り返しながら、手を洗い、寝具に横たわる。

 麦わらを敷き、そこにむしろを敷いた。

 筵だけでは床の堅さが気になって眠れなかった。

 木組みのベッドが欲しいな、と思う。


 柔らかな感触、次第に温もりが全身を包む。

 そうだ、タニアはこの寝方にも不思議そうな顔をしたか。


 暗闇の中に浮かび上がる、人の影。

 タニアは寝息も立てず熟睡している。

 苦笑を浮かべながら、眠りへといざなわれた。




 農家の朝は早い。


 日の出とともに起きたエイジは、かまどに向かう。

 竈と言っても、正面と左右に簡単に石を積んだみすぼらしいものだ。


 薪は完全に燃え尽き、灰が残るばかりだった。

 灰を小さなツボに入れ、かごを持つと裏の畑へと急ぐ。

 植物は光合成を始めると、蓄えていた栄養を使ってしまうのだ。

 収穫はできるかぎり早く、光合成を始める前に終えてしまうのが良い。


 豆と里芋を掘り起こし、籠の中に入れる。合計4人分。

 余分に採るのは近くに住む村人との交換用にだ。


「おう。今日は豆と芋か」

「おはようございます、マイクさん」


 背後からかけられた声に振り向くと、男がいた。

 三〇を少し超えた筋肉質な男で、マイクといった。

 村――シエナ村――では猟師をしている。

 弓の扱いが上手く、よく鹿やイノシシなどの獲物を捕らえてくる。

 村の中でも大きな発言権を持つ男だった。


「ほれ、うちからは菜種ときゅうりだ」

「うちからはこれだけですが」

「おう。……ここに来て2週間か。タニアちゃんは許したかもしれないが、俺はまだ完全にお前を信じているわけじゃないからな?」

「……」


 マイクの太い眉が吊り上がり、疑いを隠そうともせず鋭く睨みつけてくる。

 野生の獣を何頭も倒してきた戦士の殺気だ。

 エイジの肌があわ立つ。


 外から来た人間に対しての当然の警戒かもしれないが、困ったことになった。

 顔を合わせる度にこうして突っかかってこられては、こちらも歩み寄りようがない。


 どうしたものか。

 こうして敵意を向けられながらも、エイジはマイクが嫌いになれない。

 彼の想いは、大切な知り合いを守りたいという優しさから来ているのだ。


 答えに窮していたエイジは、マイクの後ろに何の気配もなく忍び寄っていた一人の女性に気づいた。

 その女性は拳を握ると、


「このバカタレが!」

「あイタっ! 痛い! やめて! 母ちゃん、ごめん!」

「タニアちゃんが許可を出してるのに、グチグチと余計な口を挟んでるのはどこのオタンコナスだい? これか、この口が悪いのか」

「ごめ、ごめんなさい。スミマセン。ホント許して、痛い! 俺が悪かった」


 ゴチッ、と重たい音とともに拳が振り落とされる度、マイクの顔が苦痛に歪み、目尻から涙が浮かび上がり、頭が下がっていく。

 気付けばエイジに向かって頭を下げる形になっていた。

 貫禄も何も、あったものではない。

 敵対視されていながら、エイジがマイクに敵意を持てないのは、こういった場面を何度も経験したからだろうか。


「うちのヌケサクが失礼なことをしたね。申し訳ない。この通り謝ってるんで、許してやってちょうだいよ」

「い、いえいえ。少しも気にしていませんから」

「お、俺は……」

「お黙りって言ってるでしょうが。あんたは口を開けば問題を起こすんだから。ほら、さっさと火をもらいに行ってちょうだい」


 強烈に背中を蹴られたマイクは、逃げ出すように走り出した。

 火を起こす作業は重労働だから、火つけ当番が一人が起こした火を分けてもらうのが普通だ。


 残った女性の名をジェーンという。

 かなり大きな体格で、二の腕も男に負けないくらい太い。

 豪快な性格と、面倒見の良さもあって、村の女性のまとめ役になっていた。


 年齢の割にはコロコロっとした笑顔の可愛い女性だ。

 この時もエイジに向けて柔らかい笑顔を向けている。


「あんた技師なんだって? タニアちゃんが仕事が楽になったって、すごく喜んでたよ」

「あんなの大したものじゃありません」

「誇らない性格なんだね。記憶を失う前は、どこかで活躍してたんだろうさ」

「……あまり実感がなくて。何か作っていたのはぼんやりと覚えているんですが」

「思い出すのは気楽にやんな。あんたが何者でも、あたしたちは気にしないからさ」

「ありがとうございます」


 ジェーンはにっこりと笑って頷いた。

 目は優しげに細められている。

 どこの誰かもわからない人間を、きっちりと受け止められるジェーンは度量の広い人物だろう。

 エイジはその言葉に、少しだけ心が軽くなったような気がする。


「で、ここに来て二週間。体調はどうだい? 動けそうなら食事の後、今日は村長の家に行って、話をしてもらうことになるけど」

「毎日筋肉痛ですが、体調は大丈夫そうです。話というのは?」

「あんたがここに居続けるなら、何かの仕事について貰わなくちゃならないからね。それの話し合いだよ。まあ、家の方は心配ないみたいだけど」


 ふふふ、と笑うジェーンの意味深長な笑顔に、エイジは訳が分からないという表情を浮かべる。


「あの身持ちの固かったタニアちゃんが、見知らぬ男を泊めるなんてねえ。で、どこまで行ったんだい?」

「どこまで、とは?」


 質問を返すエイジに、ジェーンの顔が苦みばしったものになる。

 一体何を間違えたのだろう。

 不思議に思っているエイジに、ジェーンが頭を抱えた。


「かー! まだ手を出してないのかい。あの娘なら、全身でOKのサインを出しまくってるってのに」

「手、手を出すってそんな……」

「いつでも襲ってちょうだいって分からないかねえ。ちゃんと注意して見てみな。待ってるから」


 しどろもどろになるエイジの顔を見て、ジェーンは意地悪く笑った。

 慌てる姿に、手を追い払うように振る。


「はい、じゃあさっさと帰る。村長の家は一番大きいから、見たらすぐわかると思うよ。長話させて悪かったね」


 追い立てられるようにして、エイジも家に戻る。

 慌てすぎたため、灰を撒くことを忘れてしまった。


「おかえりなさい」

「た、ただいま帰りました。これ今日の食材です。お願いします」

「……? 直ぐにできるのでお待ちくださいな」


 動揺が収まらず、声が上ずってしまった。

 竈には火がくべられ、セットされた鍋はだいぶ温まっているようだった。

 ふすまをぐつぐつに煮炊きして、オートミールが出来る。


「お待たせしました」

「いただきます。食事を終えたら、その後村長の家に行くことになりました。まだ昨日の脱穀機が完成していませんが、また帰ってから再開します」

「ありがとうございます。楽しみにしています」


 にこりと笑顔を向けられて、エイジはまだ正面から顔を向けることが出来ずにいた。

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