スペースセーバーズ

藤原くう

第1話

 水音がする。

 滴るようなねばつくようなその音は規則的に生じ、ピンク色の部屋に響く。

 その部屋の真ん中にはベッドがあり、その上で男女がもつれ合っている。女が男にまたがり、扇情的に揺らし、腰をくねらせる。男が望んでいるものに小荒田で応じる。男はなすが儘になっている。

 ぱちゅんぱちゅんぱちゅん。

 水音は勢いを増す。腰振りが激しくなり、肉体を持った生物特有の営みが、終わりを迎えようとしている。

 女が体をそらす。その口からは、とろけるような甘い嬌声が漏れ、部屋に漂う。

 動きがゆっくりと止まり、静かになる。

 男と女は動かない。到達した快楽に身をゆだねるようにして、肩で息をしているのは率先して動いていた女だ。男は、ピクリとも動かない。

 一本の棒のようになってしまったかのような男へと、女が体を近づける。

 男の顔はどこかここではないところへ見ていた。焦点のあっていない瞳を目にして、女が愉しそうに笑う。

 泡をふいている男の口へと女が近づけるように覆いかぶさっていく……。



「おい。おいったら」

 声が聞こえた。その声は、夢と現実の間で揺蕩っていたリンの意識を現実へと引っ張り上げる。

 目を開けると、空中に奇妙な物体が浮かんでいる。

 それは例えるなら、立体錯視か高次元の物体を三次元に無理やり表示させたかのような形をしていた。ねじれた三角形は上に上がったかと思うと横に曲がり元の場所へと戻ってくる。普通ではありえないような形は、慣れたとはいえ寝起きに見られるものではない。

 リンは目を閉じて、夢の中へと戻ろうとする。

「寝るな。本部から指令が来ている」

「しれい……」

 指令。

 寝ぼけた頭が、その単語を漢字変換するのに数秒。

 リンは飛び起きる。

「早く言いなさいよっ!」

 ベッドから跳び起きたリンの裸体から目をそらすように、立体が回転する。何度も起こしたぞ、という呟きは、身支度をするリンには届いていない。

 数十分後ののち、立体の前に立っている。

 立体が中央部から光を放った。シャワーのような光は空中で像を結び、映像を映し出す。

 映像には、妙齢の女性が映っていた。浅黒い肌をした黒髪の女性だ。名前はヌルといい、リンの上司に当たる人間である。

 ヌルは切れ長の目をリンへと投げかける。その視線を受けると、目覚めたばかりのリンの背中がピンと伸びる。

「三十分待たされたのだけれど」

「は、はい。申し訳ありません」

「どうせ、いつものように寝ていたのでしょう」

「やだなあ、そんなことありませんよ」

「寝ていました」

 そう言ったのは、映像を投影している立体である。睨みつけてやりたいところではあったが、そんなことをすればカメラの向こうにいるヌルを睨みつけることになってしまうから、リンはどうすることもできずに頭をかく。

 ヌルが大きなため息をついた。

「またなのね。今回は何かしら、ダオ」

「まだ、取り締まりの行われていないキノコを食べてトリップしていました」

「そ、そんなことしてませんけど」

 ポンと音が一つする。ダオと呼ばれた立体が、データをヌルへと転送した。ワープによって支えられた転送技術は、一万と二千年光年先であっても数秒でお届けする。

 データを受け取ったヌルは、先にもまして大きなため息をついた。

「あのねえ。私たちスペースセーバーズが何を知っているのか理解しているの」

「それはもう! 宇宙を守るためで」

「要するに?」

「宇宙の平和を守る警察組織ってことです」

「警察がグレーな薬物に手を染めるなんて、あっていいのかしら。見つかったら懲戒免職処分は間違いないし、私ならスクープされる前に、そんなことをする不届き者は処理するわ」

「……冗談ですよね?」

 画面の向こうのヌルが唇を舐める。冗談と思うなら、それでもいいのではないかしら、という言葉はリンの心をざわつかせた。

「今は、活躍してくれているから、何も文句はないわ」

「よ、よかった」

「でも、私はやるといったらやるから、クビになりたくないなら薬物に手を出すのはやめること」

 うんうんとばかりに立体が前後するものだから、リンは腹が立ってきた。誰のせいで、薬物に頼りたくなるほど心が不安定になっているのだと思っているのだろうか。

 それでも、不満を口にしなかった。この話を一刻も早く終わらせたかった。

「それで、指令なのだけれども、とある事件を捜査してもらいたいのよ」

「事件ですか」

「正確には、行方不明事件とでも言った方がいいのかしら」

「そういうことだったら、その星の警察にでも――」

「すでに行われているわ。でも、よくわからないらしいのよ」

「よくわからない?」

 ヌルが頷く。「行方不明になった人々が遺体として見つかったのだけれど、その死体というのが異様なのよ」

「異様?」

 ダオの下へデータが転送されてきた。送り主はヌルである。ウイルススキャンをかけ、映像の隣に表示させる。

 それはその惑星の警察が撮影した写真であった。データには、『被害者99』とあった。

 表示された画像データには、人間が写っていた。しかし、一目で人間とわかったのは、それが人形をしていたから。そうでなければ、リンにはわからなかったかもしれない。

 被害者はつぶされたように平べったかった。例えるなら、空気の抜けてしまった風船だ。しかし、人間は風船などではない。普通に考えるなら、大きなものにつぶされたか、重力につぶされたかといったところかもしれないが、それにしては体液がまき散らかされていない。ぺしゃんこになってしまうのは労災等、ありふれた事故といえる。しかしながら、その場合は血液をはじめとした体液が、あたりへ飛び散ってしかるべきだ。しかし、そうなっていない。これはどういうことなのか。

 画像は二枚目三枚目と切り替わっていく。それらは同じ被害者を、別の角度から撮ったもののよう。それからわかるのは、被害者に目立った外傷はないということだった。

「確かに妙ですね」

「妙どころではない。体液という体液を吸われている。あそこに残されているのは、外皮のみだ」

「皮膚だけしか残されていないってことですか」

「ああ。骨も内臓も何もない。根こそぎ奪われてしまったかのようだ」

「目に見えない手術痕があったという線は」

「ない。薬物の反応もなかった」

「なるほど……」

 リンは腕を組む。平凡な事件かと思っていたが、そういうわけでもなさそうであった。

「この死体は、半年前に捜索願が出されていた女性のようだ。全く音沙汰はなかったが、今になって姿を現わした」

「そして、殺された、と?」

「恐らくは」

「どうしてわかるんですか」

「勘だ」

 そんなことを言うヌルは、いたって大真面目である。リンは肩をすくめる。ヌルの勘ほど当たるものはない。

「被害者の数は一万人ですか。大変な事件ですねえ」

「そうだ。このままでは文明一つが滅ぼされてしまうかもしれない。ひいては宇宙の存亡にかかわるともしれない」

「それも勘ですか」

「その通りだ」

「わかりました。どうせ、引き受けなかったら首になるかもしれないんですから、引き受けます」



 リンが調査を引き受けることをヌルは想定していたのだろう。

 通話が終わると同時に、事件の起きている惑星へ航行している宇宙船の切符が送られてきた。

 同日、惑星へと向かう宇宙船に乗り込む。

 ワープ航行を行う宇宙船で揺られること一週間。目的地へと到着する。

 宇宙船を出たリンは、降りそそぐ日光に目を細める。それから大きく伸びをした。

「退屈だった」

「クスリが禁止されていたからですか」

「うるさい。その話はしないで」

 大股になって、リンはタクシーへと歩いていく。運転手に対してはぶっきらぼうに、警察署へと向かうように言った。

 不機嫌なのには理由がある。リンが家を出る前に、SSSの職員がやってきて違法な薬物だったり近い将来違法になる薬物だったり違法でも何でもない――特定の組み合わせによって特殊な効果を発揮する――薬物だったりを根こそぎ持って行ってしまったからである。リンは警察でいうところの警部であったのだが、ヌルはその上の警視総監のようなポジションにあり、つまりは一番偉い人である。その人が発した命令にはリンも逆らうことができない。密閉容器に詰め込まれた薬物が押収されるのを、指をくわえてみていることしかできなかった。

「今度はデジタルな奴にしようか……」

 やめようという考えを持たないリンは、無駄だと思うが、という至極まっとうな言葉は聞いていない。

 警察署に到着すると、受付に自らの身分を名乗る。

 スペースセーバーズ所属の警部のリン。

 その名前を耳にした受付の女性が目を見開く。けだるそうにしていた女性は背筋を伸ばし、半音高い声で震える言葉を発する。

 SSSといえば、ちょっとした有名人である。例えるなら、インターポールに近い。宇宙の平和を守るため、日夜戦う組織――そのような認識を人々は持っている。決して、薬物に手を染める人間だとは思っていない。リンも落ち着いてくださいと優しく口にする。イメージというものがあるし、優しく接することで喜ばれるからだ。それを見ているダオは面白くなさそうに震えていた。ちなみに、ダオの姿はSSS職員以外には見えないように設定されている。一般人にとってはあまりに刺激的すぎる姿をしているからだ。リンだって、スマートコンタクト上のダオをフィルタリングで消去したかったが、相棒となった存在を見えないようにはできないようになっているのだ。

「相棒なんていらないのに」

「藪から棒にいらないなどというのはどうかしていると思いますよ」

 どうかしているのはどっちよ。――受付に聞こえない程度の声で、リンは嘆いた。リン個人としては、相棒なんて必要としていないが、SSSとしてはそうではないのだ。警部ともなれば、AIの一つや二つは所持しないといけないという不文律が存在しているのだ。リンにとっては迷惑千万な不文律を作りだしたのは、リンの上司であり恩人でもあるヌルというのが話をこじらせた。ヌルがはじめたことでなければ、例え上司からの命令であったとしても、リンは無視しただろう。強制されたら、その時は退職届をぶん投げていたに違いない。

 しかし、相手がヌルとなれば、そういうわけにもいかない。言いたい文句は、口の中でもにゃもにゃとしたものに変わって、胃の中へと引っ込んでしまうのだった。

 不満は他にもある。AIはたくさんあるが、どうして気持ちの悪いものばかり取りそろえているのか。ダオは高次元物体をそのまま引っ張って来たような形。クトはタコで、COSは虹色のもやもやだ。かわいらしいならまだよかっただろうが、ダオを見ればわかる通り、デフォルメはなされていない。フォンは人と象を足して二で割ったような姿をしていたが、そのまがまがしさといったら、ダオといい勝負であった。その制作意図を製作者に問いただしたいところであったが、製作者はヌルなのである。疑問すらもリンは口にできなかった。

 不満そうな顔をしているリンに、何が不満なのですか、という声がかかる。

「何もかもよ」

「そうは言いましても……あなたが私を選んだのですよ」

「そりゃあ、あの中だったらまだマシな方なんだもん。互いにケンカしあうAIなんてまっぴらごめんだし、使用者に忠実なんでしょ」

「まあそうですけれど」

「じゃあ、薬物の使用をヌルに伝えるのはやめて」

「すみません。よくわかりませんでした」

「…………」

 リンの拳がダオめがけて振るわれたが、空を切るばかりであった。

 そんな彼女の背後で、申し訳なさそうに受付の女性が口を開く。ダオの見えていない彼女からすれば、唐突にシャドーボクシングを行っている変人にしか見えないだろう。

 振り返ったリンは汗をぬぐう。何もなかったかのように、どこへ行けばいいですか、と爽やかな笑みを浮かべて言うのだった。



 SSSと警察とは連携体制がとれるような仕組みができている。情報の共有はもちろん、警察の手が必要であればSSSを呼び出すことができたし、その逆もまたしかり。SSSは宇宙の平和を守るための組織ではあったが、いつだってSSSは人手不足であった。また、警察としてはSSSとともに捜査を行ったという人気と実績を得ることができるとあって、良好な関係が築かれているといえる。両者の間に、なにがしかの金銭が行き来しているという噂はあったが、少なくともリンの知る限りでは行われていない。

 リンが刑事に案内されたのは、取調室。いつだって取調室というのは変わらない。無味乾燥な白い壁に取り囲まれた部屋。その真ん中に机がある。机の前には取り調べを受ける女性の姿があった。

「あれが容疑者ですか」

「そのようね」

 女性の名前は、ヒジリといった。本名かどうかはわからないそうだ。というのも、身分を証明するものはなく、加えて記憶喪失なのだ。

「これだから、ローテクは」

「惑星の人間が怒りを覚えますのでそう言ったことは口にしない方が」

 ダオの言葉は正論ではあったものの、その言葉が刑事の眉をヒクヒクと痙攣させた。しかし、リンもダオも気が付いていない。警察との連携が取れており、気持ちの悪い物体が浮遊しているのが彼らにも見えているという事実を失念していたわけではない。別に悪気はなく、事実として言ったまでだ。

 宇宙標準としては、人々は体にチップを埋め込んでいる。個人情報はそこに集約されているから、たとえ記憶を失ったとしても自分が何者なのかを知ることができる。遺体の欠損が激しくとも、何者なのか知ることができるし、犯罪者が身分を詐称していても偽装工作が行われていない限りは何とかなるというわけであった。

 その確認が取れないというのは非常に面倒であった。容疑者ともなればなおさらだ。身分を詐称している可能性が高いというのに!

「ウソ発見器の結果は?」

「ウソはついていないと思われます」

「そうか……。事件については?」

 刑事がケータイと呼ばれる折り畳み式のデバイスを操作する。間があって、ダオへとデータ化された事件の情報が届いた。

 事件が起きたのは、俗にラブホテルと呼ばれる宿泊施設。一般的には性的なことを行うために利用する施設で、実際のところヒジリも被害者との肉体の交わりに耽っていたのではないかと考えられている。被害者は男性で、両者ともに裸。その体にはお互いの体液がべっとりと付着していたのだから、まず間違いない。

「それなら、彼女が犯人なんじゃないの」

「そうは言いますが、殺害方法がわからないと逮捕のしようがありません」

「私たちなら殺せるけど」

 リンは、ジャケットの内側から回転式拳銃を取り出す。これこそローテクの塊であったが、特別な拳銃なのだ。リンお気に入りの拳銃から飛び出す純銀製の弾丸は殺傷能力は低くとも、邪悪なものに対しては効果絶大というよくわからない代物。

 リンが取り出した拳銃を見た刑事が息を飲む。

「殺したらダメですよ!」

「どうして? 犯罪者なのでしょう。大丈夫。あの子が人間なら、怪我するだけですむわ」

「とにかく、私たちのやり方に従ってもらいます!」

「SSS規則第七条42項は?」

 ダオの言葉に、リンはため息。そこに書かれているのは「郷に入っては郷に従え」という金言だ。その惑星の警察の助けを借りる場合は、彼らのやり方に従えということだった。

「…………」

 リンはため息とともに、拳銃をホルスターへしまう。刑事が安堵の息を漏らした。

「それじゃあ、取り調べはやったの?」

「やりましたが、大した情報は」

「そう。取り調べができるなら、私もやっていいかしら」

 その場に居合わせていた刑事たちが顔を見合わせる。先ほどの発言と照らし合わせると、容疑者を殺そうとしているのではないかと考えるのは無理はなかった。

「あなたがヒジリを殺すのではないかと考えているようですが」

「わかってる」

 ああもう。リンは頭を掻きむしり、それからホルスターから拳銃を引っこ抜いて、スチールデスクへ放った。ごとりと音を立てたそれに刑事たちはビクンと体を震わせた。

「そいつはそこに置いておく。その代わり、ダオ――AIは同伴させるけどいいわね」

 刑事たちが頷く前に、リンは取調室へと向き直っている。その背後で、刑事の一人が拳銃へと手を伸ばそうとする。押収しようとしたというよりは興味からの行動であったが、触れる前にリンが立ち止まった。

「そうそう――。そいつには触れない方が身のためよ。所有者以外が持つと、全身が畏縮する羽目になるから」


 凍り付いた部屋を後にしたリンは、バタンとドアを閉めた。

 取調室に一人座っていたヒジリがリンの方を向いた。

 彼女は目を閉じていた。

「どなたですか?」

「SSSから出向してきたリン」

 言いながら、リンはパイプ椅子を引っ張り出して、ヒジリの前に腰を下ろす。椅子が軋み、ヒジリが眉を上げる。

「SSSとはなんですか?」

「宇宙を守る正義のヒーロー様だよ」

「そのヒーロー様は、薬物中毒で手が震えていますがね」

「うっさい」

「今の声は一体……?」

 仮想空間から個々人へと直接伝えられる音声には指向性がない。直接やってきたように感じられるが、目の前に発した本人がいれば声の主が誰かなんて一目瞭然だ。しかし、ヒジリにとってはそうではないらしい。

 それが意味することは一つ。

「まさか目が見えないのか」

「そうらしいのですけれど、あなた様は見えるのですか?」

 リンはダオの方を見た。ヒジリが嘘をついていないか知りたかった――嘘であると思いたかった――のだが、返ってきたのは否定であった。

「恐らくは」

「そう……」

 リンは盲目の女性を上から下まで見る。女性の着ているものは、シンプルなワンピースであったが、それが高価なものであることは見ただけでわかった。通常であれば、真っ白なサンダルと付け加えても、そこには性的なものを感じさせる余地はなかっただろう。

 しかし、ヒジリには溢れんばかりの肉体があった。豊満な肉体は、ゆったりとしたワンピースから零れ落ちらんとしている。胸元は風船でも詰め込まれたように膨らんでおり、その尖端ははっきりと主張していた。胸と同様に見えない臀部も膨らんでいることは間違いない。そう察せられるのは、肉付きのよい足のラインがハッキリと見えるからであった。肌は白く、顔は憂いに満ちたような、慈愛に満ちたような不思議な表情。

 彼女を汚してしまえばどれほど気持ちいいか、そう思わずにはいられないような――そんな奇妙な感覚に、リンは陥った。

「……興奮しているのか」

「バカ言わないでよ」

 リンは、マジックミラー越しの刑事たちがそうしていたように、ヒジリから目をそらす。しかし、事実としては脈拍は上昇して鼻の穴は2ミリほど大きくなっていた。リンがトリップしているときと同じ兆候であった。

 ダオはすぐさま、相棒の身体をモニタリングし始めた。少なくとも、薬物は使用していない。

「同性愛者か」

「どっちでもないわ」

「気持ちがよければどちらでも?」

 ダオの問いかけに、リンは回答しなかった。実際その通りであった。

 そのような会話を行う彼らを、ヒジリは交互に見やる。

「リンは私とセックスしたいの?」

 あまりにも直接的な言葉に、リンは噴き出してしまう。ヒジリを見れば、至極真面目な顔をしていた。冗談のつもりで口にしたわけではなさそうであった。

「そんなことは気安く口にしていい言葉じゃない」

「どうして? みんな喜んでくれるのに」

「喜ぶって――」

 その先の疑問を、リンはすんでのところで飲み込んだ。その代わりに、同様の疑問をダオへとぶつける。

『彼女は、娼婦だったの』

 ダオは先ほど転送されてきた事件の概要に目を通す。

『肯定します。記憶喪失だった彼女は、この惑星最大手の娼館の社長に拾われて、働くことになったらしいです』

『なるほど』

『社長への聞き込みによると、彼女は娼館付近で倒れていたらしいです。それで記憶喪失だと知り、身寄りもないということでしばらくの間住まわせていたそうですが、仕事を行うようになったそうです』

『その社長とやらが、記憶喪失にしたとか洗脳したという線は?』

 いくら人類が宇宙に出たとしても、人間の本質というのは地球というちっぽけな惑星にいたときと何も変わっていない。美人を食い物にしようとする不埒なものは今もなお存在していたし、それは人間以外の宇宙人も例外ではなかった。

『いえ、ホワイトな職場だったようです。娼婦に性交を強要するわけではなく、利益をピンハネすることもなかったそうです。地域でも評判の良い社長のようですね』

『ふうん。それで娼婦としての彼女の評判は』

『こちらも――いや、しばらくお待ちを』

 ダオは、この惑星のネットワークに気になる情報を見つけたらしかった。一瞬かき消えたダオに、それを見ていたヒジリが驚く。そのまぶたが行き来する間に、ダオは姿を現わしていた。

『ヒジリは娼館だけではなく、個人でも仕事を行っていたようですね』

『どういうこと?』

 仮想現実内に、一つのサイトが表示される。それは、とあるマッサージ師のサイトのようであった。自宅へお伺いいたしますという文字とともに、画面の向こうへと笑みを浮かべたヒジリの姿がそこにはあった。しかしながら、名前はヒジリなどではなく、もしかしたら当人かもしれないし、ヒジリと血のつながりのある人間なのかもしれない。

『隠しリンクがありますね。おそらくはいかがわしいサービスも行っていると推察します』

『そういう人には見えないけれどねえ』

 リンは、流し目をヒジリへと向ける。記憶を失っているという容疑者は、首を傾げている。その所作はあまりに純粋無垢だ。記憶を失っているからというのもあるのだろうが、だからこその妙な倒錯がそこにはある。肉付きの良いボディとの乖離とでも言うべきか。そのギャップがヒジリという女性の魅力といえよう。

『思いがけないことをするのは、得てしてそういうものではないですか』

『……何が言いたいのよ』

『別に』ゆっくりとダオは回転する。『そろそろ容疑者と会話をしましょう。彼女だけではなく、向こうから見ている方たちも何かしでかすのではないかとヤキモキしているようですから』

 ダオの視界を共有すると、マジックミラー越しの刑事たちの動揺がよく見えた。リンは鼻を鳴らす。

「ちょっと調べさせてもらったんだけど、貴女ってば、その……」

「今更カマトトぶるのはどうかと思いますよ」

「そんな言葉どこで覚えてきたのよ! それにカマトトぶってるんじゃなくて、わたしは処女よ! 何も知らないんだから、セックスなんて口にできますかい!」

「……処女かどうかは聞いていませんよ」

「…………」

「? 処女というのは希少価値ですね?」

 ヒジリの言葉に目を剥いたリンは、そのまま烈火のごとく言葉を浴びせかけようとした。その直前、手を合わせて慈母のような笑みを浮かべているヒジリを見ると、湧き上がってきた怒りがしぼんでいった。彼女は軽口を叩いたわけではない。本心からそう言っているのである。

 それは、記憶を失ってしまった彼女なりの処世術なのかもしれない。そう思えばこそ、湧いて出た怒りはあっという間に消えていくのであった。

「このダオが言う通り、処女かどうかは聞かれていないしどうでもいいことでしょ」

「何やらトゲのようなものを感じますが、その通りです」

「ううん。そんなことない」

 ――私が気持ちの良いことを教えてあげようか?

 その言葉に、リンはゴクリと唾を飲み込んだ。その言葉はあくまで善意から発せられたものであり、純粋とはかけ離れた淫靡な響きを有していた。気持ちの良いことという言葉に興味を惹かれたといえば、その通りである。

 しかし、ヒジリの目を見ているとどこか不安になるのだ。その奉仕に輝く瞳の裏に、何か剣呑な思惑が隠されているのではないか。――そんな予感を感じずにはいられなかった。



 結局のところ、ヒジリを拘留し続けることはできなかった。殺人現場に居合わせた彼女は、第一発見者でもあり、一万人もの被害者を生み出している連続殺人事件の容疑者候補筆頭であっても、ほかの人間と同じように法の加護を受けられたのだ。つまるところ、彼女が帰りたいと言えば、帰ることができたのである。そして、それを止める権限は警察にはない。警察に従わなければならないSSSも例外ではなかった。

 道路の向こうへと消えていくヒジリを見て、リンはため息をついた。彼女の手には、拳銃が握られており、銃口はヒジリのFカップをなぞっていた。拳銃を目にした警察官も、道行く人々も拳銃を食い入るように見つめている。自分がその餌食になるのではないかと案じているのだ。そんな彼らに、リンはもう片方の手をひらひらと動かす。そっちの手には、一枚の紙切れが握られていた。

 紙切れは名刺と呼ばれるもので、進んだ文明では電子化されているものであったが、この惑星ではまだ物質として存在しているようであった。

 そこにはヒジリの名前と、娼館の住所が記載されていた。それから目につく、紫色の蝶。そういったモチーフはこのような職業に特有の扇情的なもの。裏面には手書きの電話番号があった。どうやら個人的な電話番号らしかった。

 ――気持ちよくなりたいなら連絡してね。

 その言葉を残して、ヒジリは行った。今から出勤するのか、はたまた帰宅するのか。

「どっちにしても、仕事熱心よね」

「ええ。ここで拳銃をもてあそんでいる人よりはずっと勤勉です」

「なによ。わたしだってね、考えてるんですから」

「一体何を考えているのか、教えてもらいたいですね」

「そりゃあ、事件現場とヒジリの関係性かしら」

 リンの目の前には、地図が表示されている。プライベートな仮想現実上に表示されたこの惑星の地図には、無数の交点が輝いていた。それは死体の発見された場所である。数にして一万。その交点は、惑星全土に広がっていたものの、共通点はあった。

 建物の中が多いのだ。もちろん路上で見つかった例がないわけではなかったが、最初の方だけだ。奥まった場所であったから、そこに息されたのではないかと考えられていたそうだが、現在では死体が発見された場所が殺害現場だと考えられている。

 その殺害現場というのは、ラブホテルや風俗店といった場所が多かった。

 仮想上のキーボードを打鍵し、ヒジリの勤務先と自宅の住所を入力する。青色の二つの交点は、赤い交点に囲まれた場所に出現する。

「ちょっと偶然だとは思えないわよね」

「気が付いていたのですか?」

「いや、気が付いたというわけじゃない。ただの勘」

「刑事の勘ってやつですか。そんなあやふやなものを――」

「SSSの仕事自体曖昧なんだから今更でしょ」

 宇宙を平和を守るってなんなんだ、とリンは呟いた。SSSを立ち上げたのは、ヌルである。ヌルの言うことには基本的には従うものの、同時に疑問を感じてもいた。

 こんなことをして、本当に宇宙のためになるのだろうか。

 今回の事件でいえば、一万人を殺している犯人を捕まえるのがリンの仕事だ。まだ一万人しか殺していないといえる。宇宙の存続を揺るがすというのであれば、この惑星そのものを飲み込んだとしてもまだ足りない。その星系の人間すべてを丸のみにしたって、宇宙へ広がって人類の1パーセントにも満たないのだからほったらかしにしていても銀河連合軍が討伐に動くだろう。

「そういうわけにもいかないのでしょう。軍隊を動かすにはお金がいりますし、余計な反感を買いかねません」

「それこそ、戦争のきっかけになるかもしれないってこと? 余計な心配だと思うけれど」

「念のためでしょう。だからこそ、SSSという独立機関が設立されたのです。こまごまとしたもめ事に対処するための火消しのような役割を果たす」

 それで、やらないのですか。

 問いかけとともに、リンの目の前に出現するは、一枚の書類――退職願であった。

 一目見たリンは目を丸くさせたが、次の瞬間にはその退職願をデリートしている。

「やるに決まってるじゃない。お給金も弾むのだから、やめる理由がないわ」

「だと思いました」

 リンが鼻を鳴らしたが、態度ほど怒っているわけではない。ダオには怒るというリアクション自体が存在していなかった。

「それで、どうするのですか?」

「どうするも何も、犯人を捕まえるわよ」

「それはわかっているのですが」

 そう口にしたダオは、動きを止めた。

「もしかして、犯人が分かったというのですか」

「ええ。というか怪しい人間は一人しかいないじゃない」

 第一発見者として、何度も何度も警察のお世話になっているヒジリ。彼女の勤務先と自宅の周辺で、多くの被害者が出ていることを加味すれば、ヒジリという女性は真っ黒どころの騒ぎではなかった。

「まず間違いなく、ヒジリは犯人だわ。わたしの勘もそう言っている」

「貴女の非科学的なシックスセンスはともかく、ワタシも犯人だとは思いますが……」

「問題はどうやって殺したのか、なぜ殺したのかってことよ」

 つまり、殺害方法と動機。この二つがわかっていない。この二つのどちらかがわからなければ、ヒジリを逮捕したとしても不起訴処分となってしまう。この惑星の法律に従えばそういうことになるのだ。

 どちらかがわからないと、警察は手出しできないようになっている。これは、容疑者を守るためのものであったが、今回に限っていえば、迷惑甚だしかった。

 相手は大量殺人者なのだ。大量殺人者にしたって、人間ならまだいい方だ。あれが、人間でないとしたら――。

 リンはため息をつく。もてあそんでいた拳銃が泣いているように見えた。自分を使ってほしいと訴えていたが、リンはゆるゆると首を振った。ヒジリが犯人だったとして、射殺したらいいことかもしれない。どうせ、死刑になるのだ。……しかし、法律上はそういうわけにはいかない。殺しを行ったことには変わりがないのだから。

「撃たないでくださいよ」

「やらないわよ。それは最後の手段」

「それならいいですけど、人が見ているので拳銃はしまってください」

 リンの周囲には、人が集まろうとしていた。拳銃を手にしているにもかかわらず、警察から何も言われないリンを、人々は恐怖と関心の入り混じった視線を投げかけていた。それに、スーツ姿のリンは人々の視線をくぎ付けにするだけの魅力があった。それは、向こうを歩くヒジリとは別種の――知的な印象を感じさせた。

 熱っぽい視線を感じたのは、リンではなくダオであった。ダオはくるくると回転し、不満を表現する。リンは全く知的などではない。正反対の薬物中毒者であることを何とか伝えようとしたが、ダオの姿は許可された人間にしか見えないように設定されており、その声も不満そうなアピールも群衆に届くことはなかった。

 そして、リンであったが、胸元からサングラスをかける。スマートコンタクトが差し込める光を調節するため、サングラスは必要なかったが、かっこいいという理由からサングラスをかけていた。

「貴女も物好きですねえ」

「何か言った?」

「なんでも。それよりも、どうするつもりですか」

「とりあえずは容疑者の後を追ってみましょう。何をするにしても、とりあえずは情報を集めましょう」

 歩き出したリンの少し上を浮かんでいたダオが回転を始める。その不気味な集合体の中心から、光があふれるその光は、リンへ降り注ぎ、そしてリンの姿をかき消した。

 残されたのは、人間一人の消失を目の当たりにして右往左往している群衆だけである。

 その群衆の隙間を縫うようにして、リンはヒジリを尾行し始める。

 別に、特別なことはしていない。

 ダオには魔法のような力があり、それによって姿が見えなくなっただけである。魔法のような力、というのは比喩でも何でもない。どのような仕組みで姿を消すことができているのか、リンにはわからないのだ。理解しているのは、ダオをAIにしたヌルだけだと言われているが、本当のところはリンも知らない。

「大したことじゃありませんよ。情報をシャットアウトしているだけですので」

 ここが仮想現実であるならば簡単だろう。ダオの姿が見えないようにフィルタリングをかければいいだけだからだ。しかし、それを現実世界で行える人間は、今のところはいない。となれば、ヌルは人間ではないのだろう。

 ちなみに、ダオは『ヴェールを払うもの』とヌルからは呼ばれている。真実を明らかにすることを至上命題としているダオに適した呼び名であった。

 現在、リンはダオが生み出したヴェールを被せられている状態といえる。そのヴェールに覆われることで、現実世界のありとあらゆる目から逃れることができた。

「といっても、相手が何かしらの魔術を行使したり、センサーを用いられてしまうとバレるんですけどね」

「ずっと気になってるんだけど、もう一度説明してくれないかしら」

「これ何十回も説明してますけど」

 ダオ曰く、姿を隠しているということは姿を現わしているということでもあるらしい。現在のリンは、あらゆるものに検知されないようになっている。感知されないからこそ、そこに何かがあるということが露わとなってしまうのだ。

 何度も何度も説明を受けたリンだったが、やはり理解できずに首を傾げるのであった。そんな彼女を見て、ダオはゆるゆると体を震わせた。

「魔術については、ヌルにでも聞いてください」

「あの人教えてくれないもの。貴女には理解できないでしょうって」

「ワタシも同感です」

「…………」

 何か言い返そうとしたものの、自分でも理解できない気がしたリンは何も言い返せないのであった。

 透明人間になったリンの五十メートル先をヒジリが歩いている。ヒジリは尾行されているとはつゆほども考えていないだろう。背後を振り返ることなく歩いている。時折、指を鳴らしているのが気にかかったが、何かのルーティーンなのだろうか。

「どこに行くんでしょうね」

「さあね。考えられるのは職場だけど」

 リンは調書に目を通しながら、歩いていた。調書には風俗店社長への聞き込みのやり取りが記載されており、それによればヒジリはその店のナンバーワンらしい。無断欠勤することはなく、仕事には手を抜かないとか何とか社長は証言しているようである。

「『あの子が人殺しなんてやるわけがない』ねえ」

「社長の言葉ですか」

「ええ。わたしも同意見。あの子が人間なら人を殺すとは思えないわ」

「人間かそうではないかはさておき、度重なる性行為で精神が崩壊したという可能性は?」

「ない。見なさいよ。どこをどう見ても幸せそうじゃない。つまり、セックス自体を嫌悪しているというわけじゃない。あるとしたら、殺すという行為が性行為の流れに組み込まれている可能性だけれど、それなら、取り調べの時に口にしているはずよ」

「その行為が悪いと思わないからですか」

「そ。認識が歪んでいるなら、正直に話すはずじゃない? もしくは何かしら正当化すると思うんだけど」

「どちらでもないから、人間ではないと」

「一万人も殺しているならね。……それにどのように殺しているのか分からないじゃない」

 リンは手元に別のデータを持ってくる。それは被害者の一人の検視結果であった。それによれば、死因は不明となっている。判断のしようがなかった。腐敗の関係から、殺されて間もないのは間違いないが、それ以上のことはわからない。体液が根こそぎ奪われている。体液だけではなく、骨や臓器といった内容物すべてが忽然と消え去っていた。それが死因といえたが、その前に何か毒物のようなものを混入されたのではないかという見方がなされている。なぜならば、臓器を奪われた被害者たちが無抵抗だったとは考えにくいからだが、薬物の反応はなかった。

 また、死体には外傷がなかった。臓器を奪われたとしたら外科手術が用いられた可能性があったが、残された皮には手術痕はなかったのである。

「臓器ごと転移させられたという可能性は?」

「ボース粒子は検出されなかったそうですよ」

 現在主流となっているワープ装置を用いると、出発地点と目的地点にボース粒子が漂うこととなる。ヒッグスだったりグラビトンだったり。それがないということは内容物を別の場所へと転移させたというわけでもなさそうであった。新型のワープ技術が用いられたという可能性はあったが、それならそれで動機は何なのだという話だ。宇宙の存亡にはいまだ関わらないというだけで、そんなことを大企業やら国がやってもメリットよりもデメリットの方が大きい。いずれ軍隊が動き出す可能性もある。銀河連合軍とSSSを相手にしたいと思うような生物は限りなく少ないのだ。

 そうなればやはり、個人の仕業ということになるのだが……。

「企業がやらないことを個人がやる道理もないのよねえ」

「研究者気質のようにも見えませんでしたし、彼女がたまたまその場にいたという可能性も」

「ないわけではないけど、その確率がどれほど少ないかわかってるくせに言うんだものね」

「はい。しかし、ワタシの役割はありとあらゆる可能性から使用者の望む――」

「はいはいお題目はいいから、情報収集は続けなさいよ」

 きゅるきゅるとダオは回転する。飛び交っている無線のセキュリティは、量子化された暗号と比べると紙切れも同然であった。人様の回線にただ乗りして、インターネットで情報収集をしながら、原始的なAIにちょっかいをかけている様子はリンも把握している。仕事をしているなら何も言わない主義なのだ。

 リンは視線を先へと向ける。

「おっと」

 視線の先では、ヒジリが立ち止まっていた。リンはその辺の建物の陰に隠れる。そんな彼女を目にした道行く人々は、何かの撮影かしらん、と興味津々に見つめている。

 ヒジリは、リンには気が付いていない。彼女の前にはいかにも軽薄そうな男が三人、取り囲むようにして話しかけていた。

「あっちにマイクある?」

「ないです。カメラもないので、読唇術もできそうにありません」

「運がないわね……」

 ヒジリの正面に立っている大柄な男が、ヒジリに話しかけているようである。頭一つ抜けていたからペイントの入った顔がよく見えたが、口元の動きまでは距離があって不明瞭だ。

 恐らくは、ナンパされているのだろう。ヒジリは今時珍しいほどの純粋さを持ち合わせており、なおかつ人並外れた美しさを持っていた。声をかけられるのは当然だし、コイツなら何をしてもいいのではないか――それこそ犯罪まがいのことを――と考えているのかもしれない。

 キャッとヒジリの声が聞こえた。見れば、男がヒジリの手を掴み、路地裏へと連れて行こうとしていた。遠巻きに見ていた人々もいたものの、声を上げて制止する人はいなかった。子分二人が睨みを利かしていたし、誰だって面倒ごとには巻き込まれたくない。

「いかがいたしますか」

「そりゃあ行くわよ。目の前で犯罪が起きるのを見過ごすわけにはいかないしね」


 裏路地へ入りながら、拳銃を抜き放つ。

「まさか撃つつもりじゃないでしょうね」

「一発目は空砲なのだからいいでしょ」

 そういう問題ではないと思いますけど、というダオの言葉に耳を貸さず、リンはずんずん先へと進んでいく。

 路地は薄暗く、先がよく見えない。汚れた壁にはスプレーで珍妙な落書きが施されている。アーティスティックなものもあれば、男性器をイメージしたと思われる下品なものまで多種多様であった。

 それらに見送られながら、拳銃を胸元で構えたリンは先へと歩く。悠長だとダオが揶揄したが、リンは急がなかった。

「敢えてそうしてるの」

「どうしてでしょうか。人々を守るのが警察官の仕事だと伺っていますよ」

「おあいにく様。わたしはSSSなの。警察官ができないことをするわ」

 いつものことであったが、ダオは閉口する。このような人間なのをふとした瞬間に忘れてしまい、それを思い出したかのような反応であった。

 こうなったら、何を言っても聞かない。ダオは、殺さないでくださいね、と二度も念を押した。返ってきたのは曖昧な言葉だけだったが。

 不意に、伸びるような悲鳴が向こうからやってきた。その高音の悲鳴は、女性のもの。

 反射的にリンは駆けだした。悠長にゆっくりと歩いていたのは、わざとやっているのも本当であったが、路地に入る前の言葉だって本心からのものである。彼女だって、一応はSSSの職員である。警察ができないことをやる組織とはいえ、犯罪を見過ごすつもりはない。

 すぐに人影が見えてきた。

「ホールドアップ!」

 走りながら、空へと銃口を向ける。躊躇うことなく引き金を引いた。直後、炸裂音が鳴り響いた。運動会で耳にする雷管の炸裂音よりも数倍重厚な音は、ヒジリのワンピースを引き裂こうとしていた男たちの動きをぴたりと止めた。

「手を上げて。壁際へ」

「な、なんだアンタ」

「警察よ」説明が面倒なのでリンは詐称することにした。「早く行かないと撃つわよ」

 男たちが困惑の表情を浮かべる。困惑の表情を浮かべていたのは彼らだけではなく、ヒジリもだ。

「どうしてリンさんが?」

「そのことについては後から説明するわ。――早くしなさい!」

 非殺傷武器であることは先ほど説明した通りである。SSSは人間に対する戦力を有してはいけないことになっているからだ。これは銀河連合軍が、SSSの反乱を危惧したためであったが、見た目だけでいえば軍隊で使用されているものとそっくりだ。

 ひそひそ話をしていた三人衆は、懐から何かを取り出した。それはスプレー缶のような――。

「脅威を検知」

「分かってる!」

 リンは銃口を、そのスプレー缶――催涙ガスの類だ――を持っている男の手に向け、発砲。発射された銀色の矢は、あたわず男の腕に命中した。男の悲鳴が路地にこだまする。しかし、スプレー缶からはピンが抜かれていた。

「目と鼻をふさいで」

 その言葉は、ヒジリへと向けられたもの。彼女が反応できたのかはわからない。その時にはすでに、リンは目を閉じていた。

「ダオ!」

「わかっています」

 頭の中に、イメージが浮かび上がる。そのイメージは、路地裏のデータである。先ほどはカメラがないとダオは言ったが、それはこの辺りにカメラがないというだけである。惑星軌道上にある監視衛星をハッキングしたダオは、そこに搭載された高性能なカメラを路地へと向けていた。

 今、路地には催涙ガスが充満して、白くなっている。次の瞬間、イメージは緑がかったものへと切り替わる。暗視機能によって、五つの熱源反応がハイライトされる。腕を伸ばしているのがリン。うずくまっているのがヒジリ。そして固まっている残りがガラの悪い三人衆。三人は懐からガスマスクを取り出そうとしていたが、それだけわかれば動き出せた。

 頭の中のイメージの場所へと駆けだす。その人影ははじめこそ白かったが、赤に着色される。赤には程度があり、濃ゆいほど危険度が高い。ナイフを取り出そうとしている男は赤黒いが、マスクをつけるのに手間取っている手下の一人は、ピンクに近い。リンは赤黒い人影に狙いを定める。拳銃は使用しない。彼らを痛めつけることしかできないからだ。

 疾風の勢いで男へと近づき、拳銃で殴りかかった。鈍い音ともに、男が吹き飛んでいく。リンは小柄だったが、男顔負けの力を秘めていた。コンクリートの壁に叩きつけられた男がうめき声とともに、地面へと倒れ伏す。ピクリとも動かない。

「や、やりすぎちゃった……?」

「死んではいませんので許容範囲と推測されます」

「そういうところ、AIらしいわよね」

 なんのことでしょうか、という問いかけに、何でもないわとリンは返答。リンにとってはありがたかった。

 ファイティングポーズを維持したまま、リンは残りの二人の方を見る。彼らから、リンを見た時のことを考えてみよう。彼女は催涙ガスの中、マスクをしていたリーダーを一撃で気絶させた。それも目を閉じたままで!

 極めつけは、見えない誰かと会話をしているようなそぶりを見せていることが、二人を恐怖させた。リーダーを残して走り去るのも無理はないといえた。

「彼らの写真は」

「すでに警察へと転送済みです」

「そう……。なら、追いかける必要はないわね」

 構えを解いたリンは、ヒジリの方を向く。

 ヒジリはリンの発した言葉を忠実に実行していた。その場でしゃがみ、両手で耳をふさいでいる。彼女は盲目なのだから、目を閉じる必要はなかったのである。

「もういいわよ」

 リンはヒジリの肩をそっと叩く。その小さな肩が驚きに震える。俯いていた顔が、リンの方を向いた。その表情は曇っており、恐怖していることがありありとわかった。

「な、なにが」

「ナンパされたのよ。ああいうやつらに声かけられたことないの?」

「ありますけど、いきなり襲われることってはじめてだったから」

 これまでのヒジリに声をかけてきたのは、比較的紳士的なチンピラだったのかもしれない。

「今度からは逃げなさいよ。ああいうやつらは下半身でしか生きてないし、すぐ調子に乗るんだから」

「そ、そうなんですか。次からはそうします」

 うんうんと頷きながら、リンはヒジリの手を掴んで引っ張り上げる。最初こそ驚いていたが、ヒジリはリンの手をしっかりと握っていた。それはリンが離そうとした時にも続けられた。

「手を離してほしいんだけど」

「あ、えっとすみません……」

 そうは言いながらも、ヒジリはリンの手を離そうとはしない。むしろ、ぎゅっと握り締めた。その手からは、温かい熱がリンまで伝わってくる。熱っぽい視線とともに。

「あの、ありがとうございます」

「……別にいい。わたしは仕事でこうしただけだから」

「仕事って、SSSっていう?」

「ええ。聞いたことはあまりないかもしれないけど、世界を守るために働いてるの」

「そうなんですか」

「そう。だから、別に感謝されるようなことは何一つもやっていない」

 謙遜などではなかった。それに、心のどこかではヒジリのことを犯人だと決めつけていたリンは、馬脚を現すことを期待していたという負い目もあった。

 だから、感謝の言葉を向けられても、それを受け取ることはできなかった。リンは顔を背けることしかできなかった。

「そんなことはありません」

 そのような言葉を投げかけられて、リンは息を飲んだ。ヒジリを見れば、慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。

「わたくしが助けられたのは事実です。そこにどのようなお考えがあっても……」

 手をぎゅっと握りしめられる。彼女の言葉が、耳からスッと入り込んできて、胸の中で心地よく響く。ヒジリの言葉には、不思議なほど説得力があった。それは、彼女から発散されている慈愛に満ちた雰囲気がそうさせるのかもしれない。

 ヒジリはリンの手をにぎにぎと握る。揉みしだくといった方が正しいのかもしれない。リンはなすがままになっていた。気持ちがいいというわけではなかったが、別にそうされてもいいかと思えるだけの好感をヒジリに対して抱いていたのだ。

「そうだ」

 ヒジリがそう言ったのは、にぎにぎし始めて少ししてのことであった。なんだか暑いなあ、なんてリンが思い始めていた時のことである。

「わたしのうちに来ませんか?」

「それはいいんだけど、わたしなんかが来てもお邪魔じゃない?」

 リンは、ヒジリの職業のことを知っている。マッサージと称して、マッサージの範疇を越えた奉仕活動を行っていることも。だから、そういった連中がひっきりなしにやってくるのではないかと考えてのことであった。並大抵のことには動じないし、動じるつもりはないリンだったが、だからといってヒジリの仕事を邪魔してまで彼女の家へと行く気はなかった。

「邪魔だなんてそんな」ヒジリの手がバタバタと動く。「恩人だし、それに休みだってもらってるんだ」

「休み?」

「疑われて困ってるだろうからって、社長さんが。ずっと働きづめだったからちょうどいい機会だったらしいよ」

 ダオに確認をとると、肯定を示すモーションが返ってくる。社長へ行われた聴取に、そのような発言があったようだ。

「それなら、ちょっとくらいお邪魔しようかな」

 考え込んでいたリンは、結局、そのような返事をしてしまうのだった。目の前ではヒジリが嬉しそうに小躍りしている。それを見ているだけで、リンの目は細まった。

 そんなリンを眺めていたダオが、心配そうなモーションを行う。

『容疑者なんですよね?』

『わかってるわ。でも、断れないじゃない。あんな姿を見ちゃったらさ』

『ほだされます?』

『違うわよ!』

『じゃあ快楽の虜になりたいとか思ったりしてないですよね? 助けたお礼に、何か性的なサービスを提供してもらえるんじゃないかっていやしいことを、まさか考えてはいないですよね?』

『そんなこと……』

 否定はしないんですね、という言葉がリンの胸に深々突き刺さった。期待していないといえば嘘になる。

『だ、だってしょうがないじゃない。わたしはそう言ったことには縁がなかったんだし』

『意外です。クスリに手を出すくらいですから、ティーンエージャーの頃は奔放していたと思っていたのですけど』

『してないわっ! だって、付き合ってくれる人とかもいなかったし』

 生まれてこの方、リンは誰かに恋したことがない。誰かから好意を寄せられたこともなく、少し前に本人が口にしてしまったように、性的な関係すら持ったことはなかった。彼女のスレンダーで整った容姿ならば引く手あまただっただろう。本人がそれを望んていたら、というのが前提条件とはなるが。つまるところ、誰彼構わず付き合いたいわけではなかった。そう言うところは潔癖で、ピュアなのであった。

『白馬の王子様が迎えに来てくれるなんて――』

 ダオとの秘匿回線を、一方的に終了させる。向こうから、メッセージがやってきてもリンは無視する。そのくらいには怒っていたし、恥ずかしかったのだ。

 別に、ヒジリのことを白馬の王子様とは思っていない。ただなんとなく、アダルトな気持ちよさというものに触れてみてもいいんじゃないかと思っただけであった。

 それに――別の理由がないでもなかったが、その可能性は万が一にもないだろう。

「どうかした?」

 ダオと会話を打ち切ったリンへと、ヒジリが言う。その表情には、どこか恐れのようなものが浮かんでいる。リンの眉間にはしわが寄っていて険しい顔つきになっていた。

「な、なんでもないわ・それじゃあ行きましょう」

「うん!」


 ヒジリの家は、マンションの一室で、そのマンションは高層マンションであったから、それなりの値打ちがあると思われる。ダオが調べたところによると――話は相変わらず行っていない――家賃は高い。ヒジリの職場は儲かっており、筆頭稼ぎ頭であるヒジリもまた儲かっているようである。

 どこに住んでいるのかを訊ねると、ヒジリは最上階の辺りを指さした。

「またすごいところに住んでるなあ」

「社長が、こういうところに住んだ方が安全だって」

 目の前の高層マンションのセキュリティは非常に堅牢であった。といっても、この惑星において、という前提においてだ。

「ふうん。心配されてるのね」

「うん」

 ヒジリに先導されたリンは、警察官を横目に見ながら――このマンションの近くでも変死体は見つかっていたのだ――マンションに入る。

 エレベーターに乗り込み、四十二階へ。そこの階はすべてヒジリのものらしい。一人で暮らすには広すぎるような気がしたものの、マッサージもしてるから、という回答にリンは納得した。

「どうぞ」

「お邪魔します」

 ヒジリの家は、きちんと整理整頓がなされていた。通されたのはリビングであったが、ものであふれかえっているとか、死体の山ができているということももちろんない。ただ、物が少なすぎるような気がした。テレビもなく、パソコンもない。ソファが一つだけあって、その前にはテーブルがある。ソファに座ると、窓ガラス越しに、惑星の周囲を回る二つの月がよく見えた。

「まるでショールームね」

 ポツリと呟いた言葉に返事はない。ダオとの回線は一方的に切断していたし、ヒジリは併設されたキッチンの方へと行ってしまっていた。

「なにがいい?」「なんでもいいよ」「じゃあお茶にしようかな」

 そのようなやり取りは、仲のよい姉妹のやり取りを彷彿とさせた。リンには姉や妹という存在はいなかったから、あくまで想像でしかなかったが。

 ヒジリがグラスを持って、リビングへと戻ってくる。

 ガラステーブルの上にコースターが置かれ、さらにグラスが置かれた。メスシリンダーのようなグラスには、氷と緑色の液体がなみなみ注がれている。

「グリーンティー。お嫌い?」

 好きでもないし嫌いでもなかったが、眉を下げて胸に手を当てている女の子に、そんなことを言って何になるというのか。

「嫌いじゃない」

「よかった」

 心の底からそう思っているのだろう。安堵の息を漏らしながら、ヒジリは自らのグラスも同じように置いた。

 リンの隣に腰掛ける。隣なんて生易しいものではない。肩と肩とがぶつかり合うほどの至近距離に、ヒジリは腰を下ろした。

「ち、近くないかしら」

「ううん。全然。そんなことないと思うけどな」

 ヒジリが言葉を発するたび、甘ったるい香りがツンとする。その香りをかぐと、頭がくらくらしてくる。タバコを吸ったときにも似たふわふわとした酩酊状態は、リンの思考を確実に削り取っていく。近いと感じていたにもかかわらず、いつしかその状態を受け入れていた。

 匂いだけではない。肩から伝わってくるヒジリの熱が、リンの心を焦がす。訳の分からない焦燥感が奥底から湧き上がってきて、困惑した。

 疑問に思う心さえ、甘い香りに流されていく。

 立ち上がろうとする気力さえ萎えて、指一本動かせない。ヒジリの言葉が体の中で反響する。

「お礼したいの」

「お礼……?」

「うん、お礼。さっき助けてくれたから」

 ヒジリの手が、リンの顔へとあてがわれる。その細い指が皮膚に触れた瞬間、甘く痺れるような感覚が体の中を駆け巡った。

 吐息がリンの口から洩れる。わずかに残った理性が自らの反応に驚く。それは、薬を服用して悦に入っているときでさえも感じたことのない気持ちよさ。

 そっと優しい手つきで、顔がヒジリの方へと向けられる。ヒジリの顔が目の前にあった。その顔は赤くて熱っぽい。それは自分も同じに違いない。――だって、目の前の彼女と同じように浅い息をついていたから。

 目と目を合わせる。ゆっくりと、ヒジリの手が動いてリンの太ももへと乗せられる。熱が体中に広がる感覚がまたしても生じる。先ほどのものは錯覚などではないと思い知らされた。

 乗せられた手が円を描くように動かされる。じっくりとねっとりと。こそばゆい感覚が渦とともにこみあげて、リンの体を悶えさせる。

「気持ちいい?」

 その言葉に、リンは頷く。理性は今や、ドロドロに溶かされて風前の灯火であった。心と同じように体もまた熱によってとろけている。だらりと弛緩した体を抱きすくめたヒジリが目を細める。

 ヒジリの瞳の向こうに、何か――。

 不意に湧いてきた疑問はリンの体を数センチだけ動かした。

 近づいて来ようとしていたヒジリの艶やかな唇が、リンの頬をかすめていく。燃えるような熱。それはやはり、体験したことのないような快感をともなったものに変わりない。

 しかし、熱はヒリヒリとした痛みを伴っていた。

 例えばそう、アルカリ性の液体にうっかり触れてしまったときのような。

 その違和感は、一瞬のこと。痛みは気持ちよさに切り替わっていく。しかし、一度芽生えた違和感は膨らみ続ける。

 不思議なことに、今まで動かなかったからだが動く。手を顔へと持っていくと、やはり痛みはあった。火傷したようなヒリヒリと痛みは現実のものだ。

「これは……」

「き、気にしないで。この快感に身をゆだねたらそれだけで」

 慌てたような声が、頭の中で空虚に響く。もちろん気持ちはいいのだ。

 でも、この気持ちよさは――。

 おどおどとしているヒジリに、リンは首を振った。

「わたしに何をしたの」

「何って、気持ちよくなってもらおうとしただけで、別に薬なんかは――」

「嘘をつかないで。……悲しくなるから」

 目の前の女性が一連の事件の犯人なのだと、リンは確信した。もとより彼女以外に容疑者足りえる人間はいなかったのだが、かように純粋なヒジリが犯人だとは信じられなかったし、信じたくなかった。

 リンとヒジリの間に沈黙が訪れる。先ほどまで高まっていた熱が嘘のように、リンの心は冷え切っていた。両者の間の距離はなかったが、先ほどまではなかった壁ができてしまったかのようだ。

「う、うそじゃ」

「噓じゃないなら何。自分で知らないうちに、気持ちよくさせて人を殺してたっていうの?」

 ――そっちの方が始末に負えないじゃない。

 吐き捨てるような言葉に、ヒジリが体を震わせた。大型犬に目をつけられてぶるぶる震えているかのような彼女に、心動かされることはなかった。

「どういう仕組みなのか知らないけど、あなたは人を気持ちよくさせることができるのね」

「…………」

 否定の言葉はなかった。何を言われても言葉は続けるつもりであった。

「気持ちよくさせて、その副作用で人々は溶けた」

 ヒジリによって興奮させられた被害者たちは、皮膚を残して融けてなくなってしまった。仕組みまではわからなかったが、恐らくはそういうことなのだろう。ヒジリはやはり肯定も否定もしなかった。

「知ってたの?」

 ヒジリは黙り込んでいたが、やがて力なく首肯した。

「知ってたよ。でも……っ!」

「でも?」

「そうしないと生きてられないの!」

 言葉の魔力が、リンの心を浚っていこうとする。警戒心が解けていき、同情心がムクムクと頭をのぞかせ始める。ヒジリの無意識がそうさせるのか、意識的にそうさせているのかリンには判断がつかなかった。ただ、このままではいけないという漠然とした感情だけがあった。

 SSS職員としての矜持がリンの体を突き動かす。

 抱きしめようとしてくる腕をかいくぐり、押しのけるようにして立ち上がる。ヒジリから距離を取る。

 ただそれだけのことだ。それだけのことだというのに、リンはへとへとになっていた。肉体的にも精神的にも疲弊していた。

 疲労の原因たるヒジリを見れば、悲し気に体を震わせている。その動きは、どこか禁断症状中のリンがとる反応にも似ていた。

「どうして逃げるの……。気持ちがいいのに」

「どうなるか分かったものじゃないもの」

「ヒジリにはこれしかないの」

 涙をボロボロとこぼしながら、ヒジリは言う。そこに嘘はないのだろう。だからといって、ヒジリのなすがままになりたいわけではなかった。

「これしかないってどういうことよ」

「こうでもしないと生きていられないの。わたしは寄生することしかできないから」

「寄生――」

「そう。ヒジリはキスをして消化液を送り込む。それで消化したものを啜る」

「その過程として、気持ちよくなる」

 こくんとヒジリが頷いた。

 リンは、ダオとの回線を開く。そのような宇宙生物が存在しているのかどうか調べてもらう。瞬時に答えは見つかり、そのような生命体は今まで見つかっていないという回答が返ってきた。

 目の前にいるのが人間ではないことは確かだ。宇宙生物――それも未知なる宇宙生物なのだ!

 性質としてはタガメに似ていますね。――なんてAIの呑気な声は無視して、リンはヒジリを向いた。

「どうしてもそうするしかないっていうの」

 こくりと頷いた。

「こうやって生きているの。こうやらないと生きていけないの」

「こんなに人を殺して、今まで見つからなかったのは」

「皮を着ることができるから。姿を自在に変えることができるの」

 ヒジリ――いやもしかすると、ヒジリの中にいる生物――は、消化液によってヒトを溶かし飲み干したのちの皮膚を宇宙服のように着こみ、その人間のように振舞うことができるということらしい。

「じゃ、じゃあ一万人の死体は」

「ヒジリは、女の子の皮しか着てないよ。そっちの方がみんな喜んでくれる」

 確かにヒジリほどの美貌の持ち主であれば、男性からも女性からも人気がありそうである。実際、人気があったのだ。ヒジリは一万人もの相手を消化しつくしたのだから。

 動機も方法もわかった。

 SSS職員として、リンがやるべきことは一つである。

 リンは脇下のホルスターから拳銃を引き抜く。

 銃口を向けられたヒジリは笑みを浮かべていた。

「――いいよ。撃っても」

「撃ちたくない。警察に自首してほしい」

 ヒジリは首を振った。「体験して分かったはずだよ。ヒジリは声だけでも人をコントロールできるって」

「でも」

「ヒジリにとって、生きることだから止められない。ご飯を食べることを止められる?」

 できるわけがない。

 ヒジリは一歩一歩、リンに近づいてくる。

「撃たないなら、ヒジリが食べちゃうよ」

 その言葉とともに、ヒジリが近づいてくる。

 目には涙が浮かんでいる。顔の輪郭を伝って落ちた雫は、はたしてどちらのものだったのか。

 透明なしずくを払うかのように、乾いた音が鳴り響くのであった。



「よくやった」

 リンはヌルの部屋にいた。

 その部屋はそれほど広くはないが、アンティーク調の趣味の悪いもので煩雑とした、おおよそSSSのトップがいるような部屋には思えない場所だ。

 部屋の端には邪悪な雰囲気をあたりに散らす象の像があり、その上でダオはくるくると浮遊している。

「よくやったって言いますけどね」

「なんだ」

 ――なんでわたしを選んだんだ。

 そのような八つ当たりにも近い言葉を、リンは放つことができなかった。ヌルのどこを見ているのかわからない空虚な瞳を見ていると、正の感情も負の感情もどこかへと行ってしまうのだ。

 言葉の代わりにため息をつく。

「リンに頼んでよかった」

 なんて言われてしまうと、先ほどまでの不安はどこへやら。リンのテンションはうなぎ登りである。単純なリンを見て、ダオの回転は緩慢なものとなる。

「報告書を作成したら提出してくれ」

「わかりました」

 頭を下げて、リンは部屋を後にしようとする。回れ右。それから部屋の扉の前に立つ。

「ああそうそう」

「なんですか」

「そろそろデスクワークもやってみる気にはなったか?」

 リンは扉を開けようとする手を止める。少しの間、考え込む。

 考えて、考える。

 先日のことが、脳裏でフラッシュバックする。

 引き金を引いたリンの目の前で、弾丸を受けたヒジリが吹き飛んでいく。その表情は嫌になってしまうほど、笑顔だった。

 連鎖的に、様々なことが脳裏をよぎり、その度に自分がやったことは正しかったのか、不安になる。

 本当に宇宙を救うためのことができているのだろうか。

 疑問。しかし、この職業に就いた以上は、疑問を感じてもやるしかないのだ。

 じゃないと今までのことが無意味になってしまうのだから。そんなことに耐えられるほど、リンの心は丈夫ではない。

「やめませんよ。デスクワークなんて偉い人になるってことじゃないですか。そんな人間がクスリをやってるなんて知られたら、居心地のいい職場がなくなっちゃうので」

 ――それでは失礼します。

 最後にそれだけ言って、リンは部屋を後にした。

 扉がばたりと閉まった。


「さてと、遊びに行きましょうかね」

 大きく伸びをしたリンは歓楽街へと歩いていく。そんな彼女にダオは何も言わなかった。

 AIにだって、主人が悲しんでいることくらいわかるのである。

 今日一日くらい、好きにさせてあげよう。

 自分に言い聞かせるような言葉ののちには、何もない。

 寂しさを埋めるように、リンは喧騒の中へと足を踏み入れるのだった。

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スペースセーバーズ 藤原くう @erevestakiba

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