窓の外の大行進

藤原くう

第1話

 扉を殴る。最初はこぶしだったがうんともすんともしないものだから、しまいには蹴りが出る。

 田中は荒い息をつき、額の汗をぬぐった。

 目の前には扉。背後を振りかえれば、陶器製のそれが嫌でも目に入る。

 便器である。そのほかには何もない。

 田中はため息をついた。WCに閉じ込められてすでに一時間が経過している。

 どうしてこのようなことになったのかは、田中にも何となく想像はついた。一時間前に起きた小規模な地震が原因となってトイレの前に置いていた棚が倒れてしまったのだろう。棚といっても小さなものであったが、それがつっかえ棒のようになって、扉が開かないようにしている。扉に対して殴る蹴るタックルと思いつく限りのことをしてみたが、どれも効果はない。賃貸の扉に凹みができたくらいのものであった。

 蓋を下ろした便座にどっかと腰を下ろす。またため息。

 手にはスマホがある。これで助けを呼べばいいではないか――助けが呼べたらどんなによかったか!

 田中だってそこまでバカではない。この四角い端末を用い、電話とメールSNS等を総動員する。送り先は数少ない友人たち。しかしながら、成果はなかった。指折り数えるだけの友人たちは、応答してこなかったからである。どうしてだろうと田中は考えて、そういえば今日は大学の文化祭ではないかと気が付いた。時刻は午前八時を過ぎたところ。文化祭が始まるのが午前十時だから、ジェイソン風のメイクをするので手がいっぱいだろう。

「こういうことになるなら、お化け屋敷の手伝いをするんだった……」

 後悔先に立たず。田中は、友人らの申し出を断ったのである。もちろん、理由はあった。

 麻雀である。朝から一日中麻雀をやることになっていたのだ。といっても金銭をかけているわけではない。ジュースの引換券など、直接金銭にはつながらないようなささやかなものである。麻雀サークルに所属していたが、文化祭そっちのけで麻雀である。麻雀サークルに顔を出すような人間がいるとはだれ一人も考えなかったからだ。部員の一人が雀卓を持っていたので、そいつの家に集まろうというのが正午。まだ四時間ほどはあるし、田中が来なくても心配するような殊勝な人間はサークル内にはいない。そう断言できるから、田中は気が滅入るのだ。

 何度目のため息だろう。

 扉は開かず、あるのは換気のための小さな窓だけ。小窓からは子どもだって出られない。

 便座に座って項垂れていた田中であったが、やがてそうしていることも苦痛になってきた。

「そういえば、さっきの地震って」

 幸か不幸かスマホは圏外ではない。冗談みたいに大きなスマホであったが、その分、バッテリーの持ちはいい。ブラウジングくらいならそうそう消耗しなかった。

 『日本_地震』と検索する。すぐさまいくつかのサイトがヒットする。

 本日の日付とは関係ないものもあったが、先頭に来ているのは気象庁のサイトだ。気象庁なら正確だろうと田中はタップ。読み込みが遅い。先ほどの地震を調べようと多くの人がサイトを訪れて、一時的に負荷がかかっていた。少し時間はかかったが、気象庁が発表している地震速報が表示される。

 それによれば、北朝鮮の方を震源としているらしい。その地震の規模は震度八を観測しており、その余波が日本にまでやってきたのだった。余波の震度は日本海で震度三。津波警報が発表されていた。大変だな、と田中は思ったものの他人事であった。

 今度はSNSで調べてみる。友人が何かツイートしていないものだろうか。ツイートしていたら、連絡しようと思っていたのだが、誰もしていない。もしかしたら大学構内に泊まり込みで作業を行っていたのかもしれない。だとしたら、申し訳ないことをしてしまったかも。

「手伝っていたら今頃は……」

 後悔があるから、妄想をしてしまう。田中は、同姓の芸人と同じようにスレンダーな体格でスレンダーマンにぴったりだから、一緒にアクターとして参加しないか――そのようなオファーであった。その時はメイクなんて面倒だし、それに人を驚かせるなんて自分にはできないだろうと断ったのである。その判断に後悔はないが、このようなことになるとわかっていたなら話は別だ。

 ひとしきり不毛な妄想を行った田中は、重々しいため息をつく。視線が、スマホの画面へと向かう。こんな時であったが、SNSを見てしまうのだった。

 スワイプして、流れ続ける情報を漫然と見続ける。大したことのない、よくいえば平和な日常が綴られている。だというのに、自分はこうしてトイレに閉じ込められている。

 ほかにも閉じ込められている人間はいないのだろうか。検索しようとして、この状況から脱する方法を思いついた。

「警察に連絡すれば助けてもらえるんじゃ」

 110番をダイヤルしようとして、やめた。電話してしまえば、助けてもらえるだろう。同時にトイレに閉じ込められた人間という目で見られてしまう。それは友人がやってきても同じことではあった。必死になっていて、助けてもらうことだけを考えていたものだから、そこまで考えが回らなかったのだ。

 警察には笑われずには済む。しかし、連絡した友人たちには、悲痛な内容のメールを送っている。内容を確認したら、間違いなく田中の家までやってくるだろう。合鍵はなかったが、管理人に事情を話すように書いている。このままでは、トイレに閉じ込められた奴として一躍時の人である。そんな目立ち方はしなくない。

 田中は逡巡して、先のメールは冗談である、といった旨の文章をメールやSNSで送信する。これで、友人がやってくるのを防げた。笑いものにならなくて済む……。

 しかしながらそれではどうやって脱出するのか、という話である。田中は親元を離れ一人暮らししている。一応妹がいて、同じ街で一人暮らしをしているらしいのだが、田中はどこにいるのか知らなかったし、呼びたくなかった。顔を合わせれば憎まれ口を叩かれるから。

 季節は秋に差し掛かろうとしており、暑さはそれほどでもない。夕方になってもどうしようもなかったら、警察を呼ぼう。友人を呼ぶよりかはいい。

 そう決めると、不思議と落ち着いてきた。周囲をぐるりと見渡す余裕ができたものの、冷静になったからこそ何もないことがはっきりとわかってため息が出た。

 一畳のトイレの王様となってしまった田中は悠然と足を組み、スマホを弄ぶ。余裕が出てきて、脱出はもっと先でもいいだろうと思うようになっていた。便座はひんやりとしていて案外居心地がよかったから、というのもあった。

 ツイッターでは地震の話題で持ちきりであった。ほとんどは震源地や、津波の危険がある日本海側の住民を心配するようなものであった。しかし、陰謀論めいたものもあった。例えば地震は水爆実験の影響だとか。そのようなものであればまだマシな方で、宇宙人の攻撃とか地球が人間に対して怒りを表現したものだという前時代的なツイートまであり、まさにカオス。

「なんだよ、ゴジラが現れるだろうって」

 ゴジラといえば怪獣。そういえば、怪獣って世界中にいるのだろうか。田中にとっては暇つぶし退屈しのぎであった。

 ツイッターで怪獣と打ってみる。

 ほとんどは日本のもので、ゴジラがなんとか巨大ナマズが暴れているだのなんだの……。

 その中には英語のものもあった。興味をそそられたので、そのツイートを表示させることにした。

 それによると、湖に恐竜のようなものが見えたということらしい。写真を見ると、なるほど確かに恐竜――どちらかといえば首長竜――が水面から顔をのぞかせている。

「ようするにネッシーじゃないか」

 思わず突っ込んでしまったが、田中と同じことをツイッター上で言っている人間が多くいた。しかし、その湖はネス湖ではないらしい。ほかにも同様の写真はいくつも上がっており、奇妙なことに複数の場所で撮られていた。しかも、ほとんど同時刻のことで、日本時間でいえば午前七時くらいである。アメイジングと口にする人あり、どうせ合成写真だろ決めてかかる人あり。この辺りは、どこも変わらないようである。

 しかし、この一致は偶然なのだろうか……。

「まさか」

 偶然に決まっている。そう思って、アプリを消そうとしたちょうどその時である。

 ぴろんと通知がやってくる。知り合いが、何かを投稿したのだ。

 投稿されたのは、一つの画像であった。

 脳漿の飛び出した男性が、手を伸ばし襲い掛かろうとしている――まるでゾンビ映画のワンシーンのような画像。普通であれば、ブラクラの一種と切り捨てることができただろう。ただの画像加工、先ほどの画像と同じで加工しているだけだと。

 しかし、その画像は真に迫っていて、嘘だと断じることができない。そのうち、吐き気がこみあげてくる。

 それ以外に投稿はない。いいね、とコメントの数が急上昇していく――他人の反応ばかりが現れて、当の本人のコメントは全くなかった。バズったのだから、少しくらい喜びか謝罪の――それだけグロテスクだったのだ――声くらいあってもよさそうなものなのに。

 何の反応もないままに、アカウントが凍結される事態となった。誰かが運営に通報したのだ。それほどまでに気持ちの悪い画像だったのだ。

 しばらくの間、田中は何も言えなかった。

 何かが起きているのではないか。そんな不吉な予感は、吐き気が収まっても続いた。


 それ以降は通知もなく、ある程度の間はスマホを見ないようにしていた。それでもスマホを手に取ってしまうのは、他にやることがなかったから。

 ツイッターでは、♯ゾンビ襲来というのがトレンド入りしていた。先ほどの画像はそれほどまでにバズったということだろうか。その下には日本終わったな、という文言があり、終わったという感じはしない。何度も繰り返されすぎて、いつになったら終わるんだよ、とそのツイートを目にした田中は思った。ちょっとばかし元気になったような気がした。

 日本のトレンドはそんな感じであったが、世界のトレンドはどうなのか。

 恐竜でにぎわっていた海外は、UFOで賑わっていた。空に飛行物体が現れたそうな。風船とかゴミ袋では決してないとわかるのは、その物体がストップアンドゴーを繰り返していたから。とはいえ先ほど見た○○ッシーと同じように、合成の可能性は否定できない。とはいえ、世界各地で目撃されているから、嘘だとしたら集団的なものということになる。

「今日はエイプリルフールなのか……?」

 スマホを確認するが、エイプリルフールなどではない。というかハロウィーンが終わったばかりであった。しかし、エイプリルフールと思ってしまうくらい荒唐無稽なツイートばかりである。彼ら全員嘘をついていると思いたいのだが、添付された画像や動画が加工されているようにはとても思えない。

 ありのままで、見る者に与える影響は先ほど目にしてしまったゾンビの画像を彷彿とさせる。

 つくりものではないとしたら、これは本物ということになってしまう。仮に事実だったとしても、どこか受け入れがたいものがある。

 結局のところ、田中は真に受けなかった。よくあるフェイクニュースだと思うことにしたのだ。実際に見に行くわけにもいかないのだから、それが真実なのか嘘なのかわからないのだから……。

 そんな海外のことより、切迫した事態が田中の前にはやってきていた。

 喉が渇いた。

 トイレに閉じ込められて六時間が経過しようとしている。朝食は卵とシリアルで軽く済ませていたから、空腹はそれほど感じていない。喉の渇きは一時間前からひどくなる一方だ。渇きを一層のものにしているのは、尻の下から聞こえてくる水音のせいに違いない。水はそこにあるのに飲めないのが非常に腹立たしい。

「いや、今ならだれも見ていない」

 結局のところ、田中を行動に移させなかったのは、羞恥心によるものが大きかった。それでも、便座内で波打つ液体を飲む気持ちにはなれず、手を洗う方の水をすすることにした。

 飲み込むまでは嫌悪感しかなかったが、喉元を過ぎてしまえば、ただの水であった。それからはもう、歯止めがきかなかった。空腹も相まって、我を忘れて喉を鳴らしていた。

 お腹がタプタプになるほど飲んだ田中はげっぷする。こんなおいしい水はいつぶりに飲んだだろう――ただの水道水であったが、田中からすれば甘露のような味わいだったのだ。

 空腹が紛れると、またしてもスマホだ。スマホスマホスマホ。この一畳の空間ではスマホと簡単な筋トレと排泄しか行えないのだから大目に見てほしい。

 気が付くと、いくつものメールがやってきていた。気が付かなかったのは、内なる葛藤と相対していたからだ。

「もしかして、みんな気が付いたのか……!」

 冗談だ、というメールを送ったのだから、返事がやってくるとは考えていなかった。嬉しかったが、同じくらい、むしろ嬉しさを上回るほどに恥ずかしさもこみあげてくる。嬉しいことには変わりなく、ワクワクしながらメールに目を通す。

「何々『どこにいるんだ。大変なことになってるぞ』?」

 大変なことって何だろうか。大変なことなら今遭ってるぞ、と返信すると、すぐに返信があった。

 『冗談じゃないんだぞ、街ではゾンビがうろつきまわってるし、空はドラゴンが飛んでるんだ。地獄絵図だよ……!』

 意味がよくわからなかった。冗談なのかと聞いたら、それ以降返信はなくなった。話をしてもしょうがないと思ったのだろうか、メールを返すことができない状況に陥ってしまったのか。

 なんだか釈然としない。

「何だったんだ」

 呟きながら、ツイッターを開く。トレンド入りしているのは『世界終わったな』というワード。それは日本だけだと思われたが、世界ではApocalypseという単語がトレンド入りしていた。アポカリプス。黙示録とか世紀末とかいい意味では使われない単語だ。

 画像の一つを表示させようとしたところで、田中を揺れが襲う。その揺れは、今朝のものよりもずっと強い。田中は便座に腰を下ろしていたからよかったものの、立っていたら倒れてしまっていたかもしれない。田中の体感的にはかなりの震度だった。しかし、スマホは警報を発しなかった。緊急地震速報のアラート音も皆無だ。

 何かがおかしい。

 便座から立ち上がった田中は、小さな窓へと手を伸ばす。

 窓を開ける。

 焦げた匂いがした。

 目に入ったのは黒煙だった。

 見慣れた街のいたる場所から火と煙が噴きあがっている。真昼だというのに、どこか薄暗く感じる。どこかで悲鳴が聞こえた。悲鳴のやってきた方角へ目を向ける。悲鳴の主が見えたわけではないが、それよりもひどいものが闊歩しているのははっきりと見えた。両腕を真っ赤にさせ、体を引きずるようにして歩くのはまさしくゾンビだ。ゾンビたちは群れを成し、我が物顔で歩いている。

 何が起きているのか、理解できない。昨日とはかけ離れた光景が窓の外には広がっている。

「なんだよこれ」

 街を歩いているのはゾンビだけではなかった。古来から日本に住まうという妖怪や物の怪の類が嬉々として歩いている。道路は百鬼夜行もかくやの行列ができている。遠くでは二足歩行の怪獣が火を噴いている。遠くの空には巨大な蛾と翼竜とUFOとが仲睦まじく飛行し、飛行機は鱗粉に炎に光線を一身に受けて墜落する。

 これを地獄といわずしてなんて言う。

 スマホが、力の抜けた田中の手から滑り落ちる。今や通信ができなくなりつつあるそれを、拾い上げることはかなわない。

 窓の向こうに現れた巨大な爬虫類と目が合って……。

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窓の外の大行進 藤原くう @erevestakiba

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