2.罪と約束


 僕の魔女は、約束を守らない。



 けれどどんなに努力をしても、果たせない約束はあるものだ。


 どうしたら彼女に、それを伝えることができるだろうか。



 森の木々が色を変え、冷たい風が僕の頬を撫でる。家の庭先の落ち葉を踏み締めるリスが、木の実を銜えて駆けて行く姿を見るのは、最早日常茶飯事だ。


 秋が深まれば、すぐに冬が訪れる。

 僕らもそろそろ、冬籠もりの準備を始めなければならない。


 魔女のブローディアには箒があるからいいけれど、雪が降れば僕は外に出るのも億劫になる。町まで歩いて行くのは大変だし、寒いのもあまり好きじゃない。

 とにかく冬は食べ物を沢山用意して、家に籠もるのが一番なのだ。

 邪魔の入らない二人きりの冬籠もりは、最高にロマンチックでムードがある。

 この冬にはもう一度、彼女にプロポーズするのもありかもしれない。



「アスター! ちょっと来て!」


 玄関ドアの前に座ってリスを眺めていた僕を、ブローディアは慌てて呼びに来た。「待っていて」と言われたから、僕は秋のぽかぽかとした日差しを浴びながら、出掛けてしまった彼女を律儀に外で待っていたのだ。


 プロポーズのことを考えて、にやけていたのは見られていないだろうか。


「どうしたんだい、ディア。そんなに慌てて」


「早く来て、アスター! 見せたいものがあるの」


 彼女はそう言って、家の前にある森の小道で手招きする。ウッドチップを敷き詰めた道は、歩きやすいように、僕が道に迷わないように、彼女が作ってくれた、町まで続く優しい抜け道。

 僕はブローディアに呼ばれるままに、彼女のあとを付いて歩く。


 真っ直ぐ続いている小道を少し逸れると、開けた場所がある。日当たりの良いその場所は、見上げれば青い空が広がっていて、家の前の庭とはまた違った神秘的な空気に満たされている。


 ブローディアが魔法の練習をする時に使っている空間であり、練習中は危ないからと、近付かせてくれない場所でもある。


「見せたいものってなんだい?」


 僕が訊ねると、ブローディアは手にしていた大きな茶色い紙を地面に広げた。正方形のその紙には、何やら複雑な魔法陣が描かれている。


 分厚い本とイチイの木でできた魔法の杖を持ったブローディアは、いつになく真剣な顔で僕を見た。


「アスター、今度こそ大丈夫よ。いろいろ調べて、やっと見つけた魔法なの」


 自分に言い聞かせるように言った彼女は、本を開いて魔法陣を確認する。寸分の狂いも許されないという表情で、何度も本と魔法陣を見返した。


 緊張しているブローディアを前に、僕は一際落ち着いた声音で彼女に呼びかける。


「ディア、そんなに心配しないで。キミがとても優秀な魔女だってことは、僕が一番よく知っている。僕はキミを信じているし、キミの魔法が素晴らしいことも、きちんと分かっているよ」


 僕の声を聞いたブローディアが、今にも泣き出しそうな顔で唇を噛み締めた。そんな風に唇を噛んだら傷付いてしまうから、やめてほしいのだけど。


「アスター……魔法陣の中に入って」


 彼女に応える形で、僕は地面に敷かれた魔法陣の中に足を踏み入れる。

 滑らかな曲線で描かれた美しい魔法陣は、彼女の努力の結晶だ。大きな紙に正確な魔法陣を描き出すのは、並大抵の努力では難しい。

 そう思うと、線の一本一本まで愛おしい。僕のために描かれた魔法だ。


「……いくよ、アスター」


 意を決したようにブローディアは呟くと、握っていた魔法の杖の先で、とん──と魔法陣の上を突いた。すると魔法陣から立ち昇った眩い光が、僕の全身を包み込む。温かい光は彼女そのもののようで、なんだかとても心地よかった。


 魔法陣から放たれた光の柱は、ほんの数秒間だけ僕を包み込み、みるみるうちに消失していった。


 消えた光の先に変わらず立っているブローディアを見上げて、僕はぱちりと瞳を瞬く。


「どう……? 成功した……?」


 恐る恐る訊ねてみたけれど、青白い顔で呆然と立ち尽くす彼女の姿で、すべてを悟った。

 彼女の手にしていた本と杖が、ごとっと大きな音を立てて地面に転がる。


「ディア……?」


 ブローディアは崩れ落ちるように地面に膝を付くと、両手で顔を覆い隠す。全身を震わせて苦しげに呼吸を乱しながら、上半身を前に倒して小さく嗚咽した。


「アスター……ごめんなさいっ……ごめんなさい……っ」


「ディア……」


「だめだった……っ、またっ……また、だめだったっ……」


 悲痛な声と共に流れ落ちる大粒の涙が、彼女の両手を濡らしてぽたぽたと滴る。

 もう何度、彼女のこんな姿を見ただろうか。胸が苦しい。


「約束したのに……、必ずっ……、必ずあなたを、人間に戻すって……約束っ、したのに……っ」


 ああ、本当に──。

 このどうしようもない約束が、キミを苦しめ続けているんだね。


 僕は黒い毛に覆われた小さな手をブローディアの膝に乗せて、涙に濡れて震える彼女の手をぺろりと舐めた。


 ブローディアの緩んだ指先から、涙できらきらと光る大きな瞳が覗き、僕の姿を映し出す。


 キミに僕は、どう見えている? ただの黒い猫だろうか。

 例えそうであったとしても、キミがいつも「アスター」と僕の名前を呼んでくれるから、僕は僕でいられるんだ。

 猫でも人間でも、僕はアスター。それだけは、何も変わらない。


 ディア……ブローディア。僕はキミのことが大好きな、ただのアスターなんだ。


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