僕と魔女の罪と約束
宵月碧
1.僕と魔女
僕の魔女は、約束を守らない。
例えば食事だ。
昨日の朝、彼女はこう言った。
「今晩はご馳走を用意するわね」と。
それを聞いた僕の心は踊った。
久しぶりに、がっつり牛ステーキなんかを食べられるのかもしれないと。
ところがだ。
いざ夕食の時間になり、目の前に置かれた食事は焼き魚一匹。彼女は僕が魚より肉が好きだってことを、すっかり忘れてしまっているようだ。
ご馳走とはなんなのか。彼女との大きな隔たりを感じたのは、これが初めてというわけではない。
ああ、いや、そんな食事ぐらいで僕だって文句は言いたくない。こんな約束とも言えるか怪しいことで、ぐちぐち言うのは男らしくない。
時間がないからと言って今朝の食事が
しかし、この約束はどうだろうか。
幼馴染みの彼女と、子どもの頃に誓った「大人になったら結婚しようね」という約束は、今だに果たされていないのだ。
僕は彼女に何度も「結婚しよう」と言っているのに、彼女は笑ってはぐらかすだけ。僕らはもう二十四で、十分すぎるくらい大人になった筈なのに。
まあ、でも、毎日彼女と一緒にいられるのだから、それだけでも僕は幸せなのだけど。
「アスター、ちょっと町まで薬を届けに行って来るから、留守番お願いね」
黒い服の上から同じく真っ黒のローブを羽織って、ブローディアは燃えるように赤く長い髪を素早くひとつに編み込みながら言った。
魔女の彼女は薬草を用いて薬やお茶を調合し、定期的に町に届ける仕事をしている。彼女の調合した薬はよく効くと評判で、とても人気があるのだ。
「気を付けて行って来るんだよ、ディア」
僕が玄関先までブローディアを見送りに行くと、彼女は「いってきます」と柔らかく微笑んだ。
箒を手にした彼女は、まさに魔女そのものだ。あの頼りない細い木の棒で、どこまでも自由に青く澄んだ空を飛び回る。風に靡く赤い髪は、空の青によく映えて、とても美しい。
楽しそうに箒で空を飛ぶ彼女のことは好きだけど、僕は空を飛ぶのはどうも苦手だ。
むかし一度だけ、ブローディアの箒に乗せてもらったことがある。
もう二度とあんなものには乗るものか、それが僕の感想だ。ひどい目に遭った。血の気の引いた顔で吐きそうになっている僕を見て、けらけらと大笑いしていた彼女のことは忘れられない。
箒には乗れないけれど、僕はこれでも魔女の血を引いている。母が魔女なのだ。
でも、男は魔女にはなれない。女性だけが、魔女の力を持って生まれてくるのだ。不思議だけれど、箒には乗りたくないし、丁度良かったと思う。
◇
僕とブローディアは、森の中にある小さな家でひっそりと暮らしている。
不便だと感じたことはない。
ブローディアの薬草探しを手伝えるし、人目を気にせず彼女と外でゆっくり過ごすこともできる。
森は静かで美しく、しっとりとした空気が瑞々しくて、心を穏やかにしてくれる。時々この世界には、僕と彼女しか存在しないのではないかと感じてしまうような、そんな、奇妙な夜もある。
「ディア、そろそろ寝たらどうだい? あまり根を詰めすぎるのは、体に良くないよ」
机に齧り付いて本を読んでいるブローディアの手に、僕はそっと触れた。彼女の手はひんやりとしていて、肌寒くなってきた秋の訪れを感じさせる。そろそろ暖炉の火が必要な時期がきたようだ。
「ああ、アスター。私のことは気にしないで、先に寝ていて。この本を、もう少しだけ読みたいの」
「ディア……風邪を引いてしまうよ」
「なあに? 心配してくれてるの?」
「当たり前だろう」
真剣な僕の声を聞いてブローディアはふふっと笑みを溢すと、彼女に触れていた僕の手を優しく握る。
「大丈夫よ、これを読んだら私も寝るから。アスターにはベッドを温めておいてほしいの」
彼女にそう言われてしまえば、どうしようもない。
僕は鼻で短く息を吐き出すと、ひとり寂しくベッドに潜り込む。彼女の机の上で灯るランプが、淡いオレンジ色の光を放って部屋を柔らかく照らしている。
本が山積みになった机に向かうブローディアの後ろ姿は、どこか寂しげで、僕を不安にさせる。
彼女の読む本は、あらゆる魔法についての本だ。出掛ける度に何処からともなく新しい本を手に入れ、こうして夜が更けるまで黙々と読み続けている。
残念ながら、彼女の読んでいる本を僕は理解できそうにない。魔法というものは、僕が思っているよりも複雑で、難解なものなのだ。
暫くしてうとうととしていた僕の隣に、ブローディアが体を滑り込ませてきた。冷えた彼女の体は、ぬくもりを求めて僕にすり寄ってくる。
「ディア、寒いの?」
「アスター……ごめんね。起こしちゃったね」
明かりの消えた部屋で、ブローディアの眠そうな瞳が僕を見る。彼女の手が優しく僕の背に回り、互いの額をくっつけ合う。
彼女の温かな香りが、僕にとっての安眠の必需品だ。
森の夜は、とても静かだ。秋を報せる涼やかな虫の声。風が時々、木々の合間を抜けて葉をさざめかせる。森の中で感じる生命の息吹に、僕らも溶け込んでいく。
「ねえ……アスター」
ブローディアの吐息にも似た囁きが、僕の顔を撫でた。
「あの日の約束……もう少しだから……。もう少しで、きっと……」
途切れた言葉のあとに、彼女の寝息が聞こえてきた。ゆっくりとした規則的な呼吸が、僕の鼓膜を揺らす。
ブローディア。キミが頑張っていることを、僕はちゃんと分かっているよ。
「……おやすみ、ディア」
眠る彼女の鼻先にキスをして、僕も目を閉じる。
久しぶりに、夢を見た。
あの約束を交わした十四歳の僕らが、大きな声で笑い合う、そんな心地よい夢だった。
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