第4話

「……小森君。そろそろ時間だよ」


「わぁっ! びっくりしたっ!」


 耳元で響いた囁き声に驚く。


 吐息を感じるくらい近くに、図書委員である三条栞さんじょう しおりの顔があった。


 三つ編みにメガネをかけた大人しそうな女の子である。


 彼女は二年三組で、一年生の時もクラスは違う。


 以前、放課後に沢山本の入った箱を重そうに抱えていた所を手伝ってあげた事があり、それが切っ掛けで知り合いになった。


 小太郎が読書に目覚めるきっかけをくれたのも栞である。


 折角立派な図書室があるのに、全然読みに来る人がいないと嘆いていたので、試しに覗いてみた。その時に紹介して貰った本が面白くて、今ではすっかり常連だ。


 今でもおすすめの本の紹介は続いており、廊下に貼りだすオススメの本の紹介文なども頼まれている。


 小太郎の書く紹介文は好評で、利用者が増えたと喜ばれていた。


「もう、脅かさないでよ!」


 ドキドキしながら小太郎は言った。


 最初に会った時、栞は地味な子だったのだが、知り合ってから日増しに可愛くなり、今では図書室の天使なんて呼ばれて密かに人気を集めている。


 胸だってかなり大きい。


 そんな子に耳元で囁かれたら、ドキドキするのも当然だ。


「あんまり真面目に読んでるから、悪戯しちゃった」


 てへっと栞が舌の先を覗かせる。


 栞は人見知りなのだが、小太郎には心を開いていた。


 チビで童顔なので話しやすいのだろう。


 普段は口数が少なく、ふざける事など滅多にないが、小太郎の前ではお茶目な姿を見せる事が多い。


 こう見えてわたし、本当は悪戯っぽい性格なんだよ? と本人は言っていたが。


「それで、どうだった?」


 期待と不安の入り混じった表情で栞が尋ねる。


 閉館時間まで残っていたから、二人の他に利用者の姿はなかった。


 そんな時は、このように栞が話しかけて来る事がある。


 図書室での私語はご法度だが、人の迷惑にならないのなら小太郎もそこまで気にしない。閉館時間だし、ルールも適用範囲外だろう。


 栞は本の話をするのが好きなようだし、小太郎も読んだ直後は本の話をしたい気分になる。


「まだ最初の方だけど、すっごく面白いよ。字がいっぱいで読むのが大変だけどね」


 今回オススメして貰ったのは、五十年程前に書かれたポーランド人作家の海外SFだ。


 世界未来学会議に招待された学者の主人公が幻覚剤を用いたテロに巻き込まれ、現実と幻の間を行き来する不思議なお話だ。


「文体も独特だよね」


「本当にね。普段はラノベしか読まないから、新鮮かな」


 この作家の別の作品は有名で、映画にもなっているらしい。


 栞は原作を読んだのだが、サッパリ意味が分からなかったそうだ。


 それよりも、今回勧めてくれた本の方が好きだと言う。


「とっつきにくくはあるんだけど、SFのなかでは読みやすいと言うか、エンタメしているというか。わたしの中ではこれもラノベみたいな物だと思うんだ」


「そう言われるとそうかもね。冒険してるみたいでワクワクするし」


 読みづらいと思ったのも最初だけで、没頭すると全然気にならない。


 家で一人で読む自信はないが、図書室でなら楽しく読み切れそうだ。


 本を棚に戻し、二人で図書室を出る。


 暫く本の話を続けると、思い出したように栞が切り出した。


「……そう言えば小森君。鶴川さんの告白を断ったって聞いたんだけど」


 普段の栞なら、この手の噂話を持ち出したりはしない。


 知り合いである小太郎の事だし、有名人の鶴川が関わっているから流石に気になったのだろう。


「そうだよ。お互いの事をよく知らないから、まずはお友達から始める事にしたんだ」


「……そう……なんだ」


 俯くと、栞の足が止まった。


「どうしたの?」


「……ううん。ちょっと、びっくりしちゃって」


 取り繕った笑みを浮かべると、栞が歩き出す。


 先程まで弾んでいた足取りが、嘘のように重そうだった。


 不思議に思いながら、暫く無言で歩く。


「……じゃあ、もしそれで小森君も鶴川さんの事を好きになったら、付き合っちゃうの?」


「そりゃ、好きになったら付き合うけど」


 その時まで、千鳥も小太郎の事を好きだったらの話だが。


 多分それはないだろう。


 なにを見たのか知らないが、千鳥は小太郎を過大評価している。


 友達として近い距離で過ごしたら、取り立てて見るべき所のない普通の男子だと気付いて思い直すに違いない。


「……じゃあ、小森君は、どんな子だったら好きになるの?」


 俯いたまま栞が聞いた。


 先程までの落ち込んだ様子から一転して、今はメラメラと謎の闘志に燃えている。


「う~ん」


 聞かれたので、小太郎は真面目に考えてみた。


「……そんなに悩むような事かな?」


「そりゃ悩むよ。だって僕、本気で誰かを好きになった事まだないもん」


 一目惚れは勿論、恋だってした事がない。


 全くの未知だから、想像もつかない。


「……でも、性格とか見た目の好みとかあるでしょ?」


「そりゃ意地悪な人は嫌だけど。それ以外は特に。見た目だけで好きとか嫌いとか決めちゃうのは違う気もするし」


 そんな事が好きとか愛とか恋なのだったら、なんだか凄く寂しい気がする。


「……でも、鶴川さんの事は綺麗だと思うでしょ?」


「思うけど、星空を見て綺麗だと思うのと一緒だよ。だからどうしたって事はないし」


「……でも、男の子だったらああいう綺麗な人とエッチな事したいって思うんじゃない?」


「三条さん!?」


 彼女らしからぬワードが出て、小太郎は驚いた。


「ま、真面目な話だよ? 人間はみんな、そういう気持ちが誰だってあるものでしょ?」


 そう言いつつも、栞の顏は真っ赤だった。


 とは言え、真面目な話と言われればその通りだと思う。


 小太郎は恥ずかしくて照れてしまうが、これでも高校二年生の男の子だし、そういう気持ちが全くないと言ったら嘘になる。


 好きとはなにか考える意味でも、避けては通れない問題かもしれない。


 試しにちょっと想像してみたが、小太郎には刺激が強すぎた。


「や、やっぱり無理!? そういうのは僕にはまだ早いよ!?」


 心臓ドキドキ、頭クラクラ。


 そんな小太郎を、栞はムッとした表情で睨みつけた。


「……じゃあ、わたしは?」


「えっ?」


「わたしで想像しても、そんな風になる?」


「む、無理だよそんな、本人の前でなんて!?」


「真面目な話!」


「どこが!?」


「わたしにとってはものすごく真面目なの! いいからちょっと考えてみて!」


「わ、わかったから、怒らないでよ……」


 いったい栞はどうしてしまったのだろうか?


 様子が変だと思いつつ、なにやら思いつめた雰囲気なので、小太郎は栞の事を想像してみた。


 いや、想像するまでもない。


 だって本人が目の前にいるのだ。


 優しくて理知的な目元に、少しだけふっくらした輪郭。ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、栞はぽっちゃりしている。太っているという程ではない。全くそんな感じではない。ただ、少しぽちゃっとしている。


 肉感的と言うべきなのだろうか。物静かな図書委員の印象とは相反する、野性的な印象を近頃の栞は身に着け始めていた。特に、アンバランスなまでに膨らんだ胸元と大きなお尻の辺りに。


 小太郎にジッと見つめられて、栞は赤くなるばかりだ。恥ずかしさで目に涙が浮かび、プルプルと震えている。でも、頑張ってジッと羞恥に耐えている。そんな姿も可愛らしくはある。


「もう無理、限界!?」


 頭のグルグルが頂点に達して、小太郎は両手で顔を覆った。


 火照った顔に手の冷たさが心地よい。


「……よし。この反応ならわたしにもチャンスあるかも」


 一方の栞は、ホッとした顔で拳を握っていた。


「なんの話?」


「わたしも好きなの」


 真っすぐ見つめて、栞が言った。


「……好きって、なにが?」


「小森君が」


 その言葉が脳に達するまで、少し時間が必要だった。


 脳に達した言葉を理解するのにも時間が要った。


 理解してなお、小太郎は不可解に思った。


 キョトンとして、二度瞬きし、自分の顔を指さす。


「僕が?」


「そう、小森君が」


「どこが?」


「全部」


「全部!?」


「全部!」


「なんで!?」


「知らないよ! 理屈じゃないもん! 好きになっちゃったんだから仕方ないでしょ!?」


 そう言われたら返す言葉もない。


「でも、僕、三条さんの事――」


「分かってるよ。鶴川さんと同じで、まだ好きじゃないって言いたんでしょ? だから告白してるの。本当はもっと先の予定だったけど。でも、それじゃあ鶴川さんに取られちゃうかもしれないし。だから、わたしも立候補します! わたしの事真面目に考えて、それで好きになったら、わたしの事を彼女にして下さい!」


「……はい」


 どうして僕なんかを?


 心底不思議に思いながら、小太郎は真面目な顔で栞の想いを受け止めた。

 

 †


「……ど、どうしよう。どえらい所に出くわしてしまったぞ!?」


 生徒会の仕事を終えた帰り、偶然その場に出くわした千鳥が、廊下の角に身を潜めてドキドキバクバク跳ね回る心臓を、胸に手を当て必死に押さえていた。

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