魔境冒険勇者

宇原芭

第1話 献身と守護の見返り

 あの男に出会ったのは俺がまだ子供ガキで、自分に恵まれた物を振り翳すしか能の無いスカポンタンだった頃の話だ。

 朝日が湖の水面に耀いて、涼やかな風が吹く度にきらきらと、魚の鱗みたく煌めいている。

 湖岸。何かの目印か、さもなくば小舟を舫いでおくために刺した木杭のような、粗末な墓の前に、俺はひざまずく。

「おっさん、聞いて驚け。俺は家から追放されたよ」

思い出に佇むあの男の影へ向け、俺は語り掛けた。

「顛末を説明するとだな……」

死人に聞く耳など無い。だからこれは、俺が自分の為にする、門出を浄めるただの儀式に過ぎなかった。


―――

――


 ギルデバルトーの家名は魔術の大家として知られ、その名声は国外の研究者にも広く届いていた。今代の当主グレイウス・ギルデバルトーは大規模魔術の研究に関して数多くの功績を持ち、その妻カッサラは魔術学院の名門キルケル校を首席で卒業、当時に執筆した論文は現在でも幾つかの分野で頻繁に参照されている。長男アマッカスは魔術の機械的利用の研究者で、彼の個人的な発明が二点、国家主導で試験運用されている。長女クロナは母と同じくキルケル校の出身で、飼育困難とされていた魔獣ヘリモスの飼育法を確立した実績を持つ。

 そんな家に生まれた次男カジークが次女シズルと出会ったのは、兄姉が将来を嘱望され功績を俟たれる頃、つまり十年以上前のことだった。

 突如として玄関広間に集められた家族が見たものは、公務を果たし王都から帰って来たばかりである家長グレイウスの旅装姿と、その手に手を掴まれた浮浪児としか思えぬ幼女だった。

 象牙色の髪、鳶色の瞳、優しそうな顔立ちを、この時からカジークは“弱そう”だと評定していた。

「教えた通りに挨拶せよ」

グレイウスが、淡々とした口調で幼女を促す。あまり感情を表すことの無い男なので、家人には平生のそれだったが、馴れぬ者には冷たい声として耳に入ったかも知れない。

 幼女は掴まれていた手が放されると、おずおずと前に出て、お辞儀をした。

「シズルともうします。これから、ギル……、ギルデバルトー家の娘としてお世話になります」

「どういうこと?」

刺々しい声でグレイウスに尋ねたのは、妻カッサラだ。隠し子の可能性でも疑ったのだろう。

「聞いた通りだ」グレイウスはやはり淡々と答えた。「王都からの帰途で見付けた。“魔人”であるのを理由に捨てられたらしい。良い機会なので養子にすると決めた」

「研究材料にするつもりなのですか?」

訊いたのは兄アマッカス。

「愚問だ」

どちらの意味で、かは言われなかった。

 ともあれ、これがカジークのシズルとの出会いだった。

 急に自分と大して歳の違わぬ妹の出来たカジークであったが、戸惑いはあまり無かった。シズルについて、父からは家族として扱えと、母からは父の意向に従えと、兄からは兄として振る舞えと、姉からは兄として妹を守り導けと言われ、カジークに異存は無かった。シズルが極度に控え目で、何をするにも先ず譲るか伺いを立てるような性格だったことも大きい。カジークがシズルを殊更不快に感じたことなど皆無であった。

 やがてシズルが魔術を習い始めると、カジークは率先してシズルの勉強を見てやった。家族の言い付けに従って、妹の面倒を見ようとしたのである。その甲斐あってか、それ以上に才能あってか、シズルの魔術はめきめきと上達し、魔術の知識をもりもりと吸収していった。何よりも本人の努力が素晴らしかった。

 カジークは或る時、何故そこまで必死に頑張るのかと尋ねた。シズルは深刻な表情で「与えてもらった居場所を失いたくないのです」と答えた。

 成程、とカジークは思った。家長グレイウスの性格と、妻カッサラの感情、兄姉の態度からして、シズルが有能でなければ捨てられるか、最悪は魔術の実験材料にでもされるか、それくらいのことは有り得そうに思えた。

 そこで、シズルの境遇を不憫に感じたカジークは一計を案じ、シズルの立場を守ると決めた。即ち、自身が決してシズルの能力を上回らないように振る舞うのである。これも、家族たちの言い付けに順じた故の行動である。

 カジークの目論見は当たった。何をするにしてもカジークより優秀なシズル、シズルに劣ったカジーク、という認識が家人全体に共有されるにつれ、シズルの立場は向上していった。研究者気質で打算的な家族であったから、皆、好意を向ける規準が、比較して使えるか、良いか、有能か、であったのが効いた。その点も含めてカジークの計算の内である。カジーク達が青年期に入る頃には既に、家族の誰もがシズルを実の娘や妹のように愛し、むしろカジークの方が明らかに冷遇されたくらいである。

 事件が起こったのは、そういう家族関係が定着しきった、或る春のことである。

 父グレイウスが、シズルに縁談を持ってきた。

「縁談、でございますか……」

昼日が食堂の食卓を照らす。シズルは唐突としてもたらされた話に返す言葉が無く、ナイフとフォークを動かす手を止めた。

「そうだ」

と相変わらずの淡白さでグレイウスが応える。

 末席で、カジークは構わず食事を続けた。わざわざ家族を集めて食事を始めたから、何かあるのだろうとは思っていた。それが縁談であるというのは、カジークにとっては少々拍子抜けの結果だ。そんなことより魚が美味い。だが、特に母と兄にとっては違ったらしい。

「お言葉ですが――」「お待ち下さい――」

母カッサラと兄アマッカスの言葉が被り、兄が母に譲る。

「――お言葉ですが、貴方」とカッサラは努めて嫋やかな口調で言う。「シズルはまだ十六になったばかり、縁談には早いのでは? キルケルへの入学も控えております」

「そうです!」と、すかさずアマッカスが加勢する。「大体、シズルよりクロナの縁談が先であるべきでしょう。この調子だと行き遅れますよ」

オホン、と大きな咳払いが一つ、クロナの方から為されて、アマッカスは口を閉ざす。

 一家の視線が家長に集まる。グレイウスは妻と長男の抗議に何ら動じた素振りも無く、原稿を読み上げるように意見を述べる。

「第一に、十六で嫁ぐのは適齢であり、世間でも一般的だ。早過ぎるなどということは決して無い」

その言葉に、カッサラの表情が渋くなる。

「第二に、縁談とは文字通り縁あってこそのものだ。順番は関係無い」

その言葉に、アマッカスは何か言い返そうとしたが、隣のクロナに小肘を突かれて押し黙った。

「そして、何も今日明日のうちに嫁げと言っているのではない。縁談が纏まれば婚約関係が成立し、実際に婚姻を結ぶのは数年後になるだろう」

「数年?」アマッカスが声を上げた。「それは、また……、今度は逆に遅過ぎませんか。何故それ程まで期間が空くのです」

「此度の縁談の相手は、ファスラコール家の御令息だ。彼は先日、西方で新たに発見された魔境へ赴くことになっている。魔管会の支部長としてな」

「大任ではありませんか」

そう言ったのはカッサラだ。その声には驚きがある。アマッカスも反応した。

「新発見の魔境、その管理協会の支部長を務めるとなれば、酷く多忙になるでしょうね。そこで業務が落ち着くまでは……ということですか」

「そうだ」グレイウスは続けた。「ファスラコール家の御令息、名をベートヒムと言う。彼とは直接に話をしたこともある。私の見た限りでは、性格は悪くなく、容姿も良い。家柄、将来性、共に申し分無い。これほどの良縁は二度と無いと思って良いだろう。故に薦めるのだ」

グレイウスは視線を真っ直ぐに、シズルへ向ける。

「無論、お前の意思は出来得る限り尊重するつもりだ。相手も無理にとは言わないだろう。どうする」

シズルは暫し目を伏せた後、静かに尋ねた。

「この縁談を受けることは、この家の、家族の為になりますか」

「嗚呼、シズル」とカッサラとアマッカスは二人して声を上げた。

「そんなこと気にしなくていいのよ、貴方の好きなようになさい」

「そうだぞ。僕たちはお前の幸せをこそ一番に願っているのだからな」

「ありがとうございます。兄様、母様」

シズルは微笑んで、それからグレイウスに目を向けた。

「お父様、その縁談、喜んでお受け致します」

「そうか」

この時ばかりは、グレイウスも満足そうに頷いた。

「本当にいいのかい」とアマッカス。

「はい」とシズル。「良縁であるのは間違いないでしょうし、何よりお父様の眼識を信じます」

シズルの毅然として且つ穏やかな様子に、興奮気味だったカッサラとアマッカスも落ち着きを取り戻す。そうなると、頭が回って、今回の縁談が確かに素晴らしいものであるという理解が定まってきたのだろう、表情に喜色が滲み出てくる。

「おめでとう、シズル」

最初に寿いだのは、カジークだった。

「はい、ありがとうございます。カジーク兄様」

シズルは、カジークへ向けて笑顔を作った。

 それからギルデバルトーの邸宅はお祝いの雰囲気に満ちて、二日のうちに家中の使用人全てが縁談の話を知り、更に三日後には縁談が纏まったことが知らされ、その次の日には婚約の成立を内々で祝う手筈になった。多忙な家族であるから直ちに集合して、という訳には行かなかったが、四日後に家族が集まって宴を張る段取りとなった。

 誰もが何かしら祝福の言葉を会話に織り交ぜる中、唯一人、偽りにもそれの出来ぬ男が居た。下男のナッタブである。彼はシズルに懸想していたのだ。無論、彼とてその恋が成就するなどとは微塵も考えていなかった。ただ彼は、年長のアマッカスに浮いた話が無く、更にはそろそろ妙齢と言えなくなるクロナにさえ婚約の話が無い以上は、シズルの縁談などまだまだ先だと思っていたのだ。キルケル校を卒業の後は、再びこの家に戻り、暫くは平穏な日々を過ごすのだろうと。その予想が覆された。キルケルの寮に入寮した後は、シズルがこの家に居るのは年に一、二回の帰省時のみ。卒業して直ぐに嫁ぐとすれば、面と向かってシズルに接する機会の無いナッタブにとっては、最早、遠目にシズルの麗姿を眺めて自らを慰める時をほぼ全て奪われたに等しい。それがナッタブを絶望させ、茫然自失の態を曝させていた。壁に向かって、ぶつぶつとシズルへの想いを恨みを漏らしている姿を、カジークに目撃された程である。

 そしてナッタブは決意した。全てを失う覚悟である。

 家族内における、ささやかとは言え催しの準備に、使用人たちが駆る。会を翌日に控えたその日、邸宅に居た家族はカッサラとシズル、そしてカジークの三人であった。

 カジークは外を散策したり、街に繰り出したりすることも多かったが、基本としては邸内で勉学に努めている。近隣に魔術学院の類は存在していない為、魔術の勉強は、書物と独学、それからカッサラや、時に兄姉、父から教わった。尤も、最近では家族から魔術を教わることなどほぼ無くなっている。家族は専らシズルに教育を施していた。それは勿論、シズルに対する愛情とカジークに対する失望の表れであり、そして名門校への入学を控えたシズルへの配慮でもあった。キルケルは女学院なので、カジークは入学しない。

 カジークはこの日、私室と書物庫を行ったり来たりしていた。色々な本を流し読みしていたのである。

 書物庫から私室へと戻る途中、ナッタブと擦れ違う。それだけでは別にどうということも無いが、何せ先日、正気でない様子を目撃した相手である。無意識に生じていた警戒心が、違和感に気付かせた。

 私室に入ったカジークは、机に向かって本をぱらぱらと捲るが、その内容にはまるで集中していない。今し方に覚えた違和感を追い回すように、思考を巡らせていた。

――何がおかしい? ナッタブが邸内に居たこと? 確かにあいつは外での仕事が主だが邸内に居ること自体は十分に有り得る。

――道具も持たずに何をしていた? 誰かに呼び出された? 誰に? 母上は使用人の統括で忙しく、今は自室に居ないはずだ。執事は他の使用人を数人連れて買い出しに出ている。家政婦長は補佐として母上に侍っている。

――シズルに呼び出されたのか? いや、誰かを呼ぶにしてもナッタブは呼ばないだろうし、ナッタブをシズルに遣わせる奴も居ないだろう。

カジークの本を捲る手が止まる。

――今、屋敷に残っている人間は少ない。残った使用人も忙しく、母上すら仕事に気を取られている。シズルは自室に一人で居る。ナッタブが向かったのがシズルの許とすると……。

「まさか、な」

カジークは独り言つ。椅子から立ち上がると、足早にシズルの部屋へ向かった。

 カジークがナッタブと擦れ違ってから数分が過ぎている。シズルの部屋の前に立つと、扉の向こうから男女の争う声が聴こえてきた。カジークは心臓を掴まれたような怖気を感じ、断り無しに扉を開けた。

 四つの目がカジークを捉えた。驚きと焦りの目が二つ、ナッタブがカジークを見た。恐怖し救いを求める目が二つ、シズルがカジークを見た。

 カジークが見たのは、ナッタブに覆い被さられるシズルと、シズルの喉元に添えられた銀に光るナイフ。

「へ、へへ……」ナッタブが笑う。「なんだ、あんたか。大人しくそこで見てな。直ぐに済ませるからよ」

 犯行に及ばんとする決定的瞬間を目撃されながらこの態度である。恐らくこれがカジークでなく他の家人であったなら、こうはならなかっただろう。伏して詫びを入れるか、逆上して目撃者に襲い掛かったはずである。詰まるところ、ナッタブすらカジークを舐め腐っているのだ。仮に額面通りの劣った能力が真実であったとしても、低能と臆病は同義ではないのだが。シズルより評価が低いと言って、常人より能力が低いことを意味しないのだが。ここまでのものを意図したかは兎も角、これこそカジークが醸成し、ギルデバルトー家に瀰漫した空気の為せる技だ。

 カジークは完全に油断していたナッタブを横合いから殴り付ける。昏倒してシズルに倒れ込まないよう手加減してある。ナッタブは一瞬呆けたが、殴られたのを理解すると、顔に赫怒を塗りたくり、カジークへ飛び掛かった。その勢いを利用して、カジークはナッタブを廊下まで投げ飛ばした。

「――ッ誰かぁぁ!!」

シズルが叫ぶ。カジークがナッタブを取り押さえる。

 シズルの悲鳴を聞き付け、カッサラを先頭に家人たちが駆け付けて来た。カッサラはナッタブを押さえるカジークを見て、顔を強張らせる。

「何事です、これは」

部屋の奥に目を遣り、衣服を引き裂かれたシズルの姿に気付き、瞠目する。

「何事です!」

カッサラのその声はほぼ怒声だった。

「こいつが――」

カジークが説明しようとした時、シズルが指を差した。そして言った。

「そ、その二人が、共謀してわたしを、わたしを……」

それより先の言葉は、嗚咽によって途切れたが、それ以上は必要も無かった。家人たちの視線が一斉にナッタブと、それを押さえるカジークに向く。

「……え?」

常人なら余りの事態に力が抜けて、犯人を取り逃す羽目になったかも知れない。後にカジークは、この瞬間にも捕縛する手を弛めなかった自分を誉めた。

 その夜。

 父グレイウスの書斎で、カジークは部屋の主と対面していた。今のグレイウスは冥府の裁判官さながらの威儀である。

「やってくれたな」とグレイウス。

「誤解です」間髪を入れずカジーク。「私は無実だ」

「証拠があるのか?」

予め言うことが決まっていたように、カジークを検品するように――。カジークもカジークで、選択肢の無さに開き直ったように、毅然と――。

「ナッタブはどう言っているのです。あいつは私と共謀したと証言しましたか? 謀(はかりごと)の内容を?」

「いいや」グレイウスは機械のように返す。

「であれば――」カジークは追及の姿勢を見せようとしたが……。

「あいつは死んだ。聴取の前にな」

グレイウスの言葉に遮られた。

「……どうして?」

「地下牢にて自害した」

「失態ですね」

カジークは素直な感想を零す。

「黙れ」

ぴしゃりと、グレイウスが言う。身の分際を弁えろ、と告げるように。

「それでお前は、自らの潔白を証明する手段を持ち合わせているのか」

状況証拠はカジークの敵だ。物的証拠は有り得ない。

「ありません」

カジークは微笑すら浮かべて堂々と言い放った。

「そうか、では沙汰を言い渡す」

グレイウスは累積した書類仕事を終えたように、厳かに息をく。カジークへ向けた目はあくまで冷たく、義務感以上の感情を感じさせない。

「カジーク・ギルデバルトー。お前をギルデバルトーから義絶する。今後、お前がギルデバルトーの家名を名乗ることは許さん。個人的所有物を纏めて、早急にこの家を出ろ」

「承知、致しました」カジークは一礼し、服従の意を示す。「父上――」

「二度と、父と呼ぶな」

「――失礼。グレイウス様、これまでお世話になりました」

カジークは退室せんとしてグレイウスに背を向ける。その背に声が掛かる。

「明朝までに家を出ろ。昼前にはアマッカスが戻って来る。あいつがこのことを知れば、死体が増えかねん」

「……忠告、感謝します」

カジークは振り向かずに言って、部屋を出た。


――

―――


 湖面から吹いてきた風が、梢の影を揺らす。そろそろ出発しないと、正午を過ぎてしまう。事の顛末は話し終えた。名残惜しいが、この湖岸とも、あの男の痕跡とも、これでおさらばだ。

「あんたなら、こういう時、人間万事サイオウが馬、って言うんだろうな」

実際、俺は今、勝手無頼な身分を手に入れ、憧れていた道に進もうとしている。俺は、何者でもない一頭の男として、独立独歩の生を歩んでみたかったのだ。鞄の帯を肩に掛け、立ち上がる。

「これから、俺は“勇者”になろうと思う。魔境を探検して一儲けってわけだ。もうここにも来ないだろう」

くよくよしても始まらない。

「……じゃあな、おっさん」

あの男がここに生きた証の楔、やがて朽ちて消え去る木杭の墓、それに別れを告げて、来た道を引き返した。

 晴れ渡る空の下、湖岸とギルデバルトー邸を結ぶ辻に、恭しい佇まいの人影が見えてくる。俺は間近まで歩いて行った。彼女が俺に用のあることは間違い無い。俺が彼女の眼前で立ち止まると、彼女は慇懃に頭を下げた。

「カジーク様、お待ちしておりました」

「お前……」







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