ようこそ、図書喫茶へ

おーるど

―――人生を一冊の本だとして、私は今どこに栞を挟んでいるのだろうか。


メタ的な表現に嫌気が差し文庫本を閉じる。誰に勧められたわけでもない本をなぜこうも一生懸命に読んでいるのだろうか。

カフェの中で最も左端のカウンター席。いつものように本を開き、いつものようにココアを飲む。夏でも冬でも私はアイスココアだけしか飲まない。

こういう拘りの一つ一つが私を独身たらしめる理由だと周りの女友達は揶揄するが、カフェのマスターだけは私を肯定してくれる。

いや、本当のことを言えば注文を受けることはマスターとして当たり前なので、肯定はしてないのかもしれない。


そんな事を一人で考えながら鞄に入れてあったもう一つの本に手を伸ばしてみる。いつのかわからない栞が挟んである『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が入っていた。

村上春樹の訳がいいだの、野崎孝の訳がいいだの大学時代の友達が言い合っていたのを思い出したが、一時期イギリスに留学に行っていた私は原文で読んでいた。

よく考えれば鼻につく女だったと今になって反省するが、後悔はしていない。原文の方が思春期の乱暴な言葉遣いを純度100パーセントで摂取できるのは間違いないからだ。


一冊の本を目にするだけでここまで思い出が巡ってしまう。カフェの中では独り言を言うのも気が引けるし、心で唱えるしかない。


「菊田さん、また難しい顔されてどうしたんですか?」


案の定マスターは私に話しかけてきた。


「いや『キャッチャー・イン・ザ・ライ』学生時代によく読んでたので懐かしくて」


「僕は村上春樹の訳が好きですね。サリンジャーの原文に程よく村上春樹流のスパイスがつけられている気がして。菊田さんは?」


また訳の話だ。外国文学を原文で読むことを鼻につくのではないかと後ろめたく感じてしまう私にとっての最悪の質問だ。


「いや…実は原文が好きなんです。一時期留学に行ってたもので…」


申し訳なさそうな私を尻目にマスターは上品に笑う。コーヒーカップを拭く手は止まらず動き続けるところに彼の優しさを感じ取った。


「僕は英語には疎いのでそのままの純度で海外文学を楽しめるの羨ましいです。」


マスターはやはり私を肯定してくれるようだ。アイスココアの甘さとマスターの優しさが重なり、心に立ち込める暗雲は徐々に取り払われていく。

こんなに素晴らしいカフェなのにお客さんはとても少ない。いつもいるのは顔を知っている常連さんだし、今日みたいに一人の時も少なくない。いくら隠れ家カフェだからと言って繫盛していないことが不思議で仕方なかった。だが、ひとたび繫盛してしまえば私とマスターとの安寧の時間は約束されなくなってしまうので、私としてはちょうどいいのが本音だ。


この小さいカフェ内には似合わないほどの本棚が店内に置いてあり、扉の横のブラックボードには『図書喫茶 陽炎』と書かれている。

マスターは類を見ないほどの読書家で、彼にひとたび本の話をすれば、答えられなかったことは一度たりともない。私が読書家を語っているのが恥ずかしくなるほどの知識量だった。見たところ40代中盤といったところだと勝手に推測しているが、今までの人生のどれくらいを読書で使ったのか不思議になるほどだ。


店内にある本棚にはミステリー、純文学、エッセイ、時代小説、啓発本、さらには若者が読むような甘酸っぱい恋愛小説などオールジャンルが揃えられている。マスターの好みが知りたかった私がこの本棚を見て、何も参考にならず啞然としたのが記憶に新しい。


「いらっしゃいませ」


私が本棚に思いを馳せているとマスターが珍しい台詞を口にしていた。マスターは顔がわかる常連さんは基本的に何も言わず店内に迎えるので、いらっしゃいませなどと言っているのを見ることは基本ない。私が咄嗟に振り返るときっちりしたスーツ姿の若い男性が立っていた。


「あ、お隣よろしいですか?」


見るからに美青年な彼の申し訳なさそうな表情は子犬を彷彿とさせ、心をくすぐられた。私は彼を二つ返事で隣に招くと、彼は


「おすすめとかあります?」


とマスターに問いかけた。マスターは少し困った表情を浮かべるとすぐに本棚に向かい一冊の本を取り出した。


「『若きウェルテルの悩み』なんていかがでしょうか?結論を言ってしまえば悲劇なんですが、何と言っても書簡体小説というのが新鮮ですね。若いあなただからこそ悩み続けるウェルテルの気持ちに共感できそうかなと思いまして。それにですね――」


「あのー…すみません。ここって喫茶店ですよね?」


本について語るマスターを止めて彼は言った。マスターはきょとんとしていたがすぐに言葉が含んでいる意味にハっと気づきカウンターに戻った。


「いやはや飲み物のおすすめでしたか、失礼いたしました。当店特におすすめはございません。図書喫茶ですので読んでいる本に合わせてお好きなものをお好きなだけお飲みください。」


マスターはきっぱりそう言う。こういう人の気持ちを第一に尊重する態度がマスターの魅力だと私は思う。私たち客はおすすめを押し付けられないことによって少し肩の荷が下りる。隠れ家的な店では顕著にそうだ。


「ここよく来られるんですか?」


隣りの彼が話しかけてきた。私はこくりと頷く。


「じゃあ本のおすすめはあなたに聞こうかな。」


彼は含みのある笑顔を見せる。マスターのさわやかな笑顔とは違う、感じたことのない魅力を感じる笑顔だった。


「じゃあ…これなんてどうですか?」


本棚に歩みを寄せて一冊のミステリー小説を手に取った。彼は難解そうな顔でその小説の表紙を見た後すぐに笑顔をこちらに向けた。


「ミステリーですか!普段あんまり読まないから新鮮です。」


「あえて何も言わないでおすすめしておきます。トリックが予想出来たら面白くありませんから。」


私は彼の笑顔に応えるかのように口角をあげた。その後私が勧めた本を読む彼の横顔をちらちらと見ながら、幻想的な時間はすぐ過ぎ去った。


「そろそろ僕帰りますね。マスターさんもお客さんも暖かいしいい場所だ。また来ます。」


彼は扉に向かって革靴を向けたがすぐに踵を返して、私の方を見た。


「あ、そうだ。お名前お聞きしてもよろしいですか?」


私ははっとして、すぐに彼に向き合った。


「申し遅れちゃいましたね。菊田真澄です。普段はこの近くでOLやってます。」


「僕は江崎亮って言います。僕もこの近くで働いてるからいつかカフェ以外でも会うかもですね。」


私たちのやり取りを見ながらマスターはいつもの神妙な面持ちを崩さない。


「またお越しください。」


マスターの声が店内に響く。今日も図書喫茶は私の安寧の地だ。


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