契約結婚心中
青山 葵
第1話 - ナナとの契約
「はじめまして。掲示板を見ました。25歳で見た目は悪くないと思います。興味あれば返信ください。ナナ」
契約結婚募集サイトへの書き込みに反応があった。
伊藤は仕事を中断して携帯を開く。
このサイトには、代償なくお金を求める女性たちと、年下を安く買い叩こうとする男たちの赤裸々な投稿が並ぶ、衆合地獄のような世界だ。
例えば、
「55歳男性です。 コロナの影響で住む所を失った女性、夜職を辞めたい女性、家出、同棲解消、毒親から逃げたい、天涯孤独、身寄りのない、住む所に困ってる訳あり女性って居ませんか?(給料上げる/月給5000円)」
「40歳、身長約160の体重約70のふくよか体型です。顔は今まで悪く言われた事はありませんが、中身重視の方だと有難いです。優しくて連絡マメにくれる人を探しています(給料欲しい/月給25000円)」
ただ稀に、いわゆる普通の生活をしている女性と諸々の手続きを省略して出会うことができる。
私生活を共にする恋人は望んでいないが、身体だけのプロは敬遠したい伊藤には都合がよかった。
彼が書き込んだ内容は「30歳男性、都心で顔合わせ、希望条件は無し、金額月20万程度で希望に合わせて調整可」だ。
金額は高めにし、年齢や容姿の条件を付けないことで間口を広げる。
まずは交渉を始めることが大切で、見極めや値引きはその後にすれば良い。
バーナード・ショーの逸話をよく思い出す。
女優に百万円で一夜を共にしないかと誘い、部屋に入ったあとに数万円を提示。怒った相手に「今は女優ではなく娼婦の君と交渉しているんだ」と言ったそうだ。
ナナで検索すると3日前の投稿が見つかった。
「都内住み20代、中肉中背。容姿悪く言われたことありません。事情があって生活の経済的サポートを定期的にしていただける方を探しています。できれば都度なら4、または月極めで20を希望しています」
文章は端的、病んでいる様子も無い。
伊藤はすぐに返信した。
「ナナさん、連絡ありがとう。嬉しいです。もし良かったら今週どこかで顔合わせできますか。気になることがあれば何でも聞いてください。タケル」
30分後に返信がある。
「タケルさん、返信ありがとうございます!はい、今週の木曜か金曜の18時以降に新宿辺りで顔合わせいかがでしょうか。気に入ってもらえたら3の大人でお願いしたいです。ナナ」
やり取りに無駄がなくて助かる。
予定表を開き、金曜17時から20時を私用で抑えておく。
その日は定時で上がりジムで汗を流した後、自宅で熟睡した。
当日、爪を丁寧に切り、ヤスリをかける。
シャワーを浴び、無地のシャツとズボン、黒のジャケットを身につける。
最悪の事態も考え、カードや免許証などを全て抜いた現金だけの財布を持つ。
目黒の落ち着いた場所にある瀟洒なマンションを出て、タクシーで新宿に向かった。
新宿駅の東口前広場に着いた。
待ち合わせの男女が集まっている。
ナナへメールで服装を伝えた。
数分後、一人の女性がおずおずと近づいてきた。
「タケシさんですか?」
「ナナさん」
「はい」
スーツ姿で長めの黒髪、はっきりした顔立ちだけど目元は優しい。
本当に中肉中背で、幸いにも化粧や香水は薄い。
優しく微笑みかける。
「ナナさんさえ良かったら、今日お願いできますか」
「はい、あ、えっとお願いします」
じゃあ、と調べておいたホテルの方へ足を向ける。
「タケシさんはお仕事はお休みですか?」
「仕事あったけど、家に寄る時間があったので鞄置いてきたんだ。ナナさんはどんな仕事をしているの?」
「派遣で事務の仕事をしてます」
歩きながら、当たり障りのない会話を続ける。
話題が無くなった頃に目的地に着いた。
自然な感じを醸し出しながら一緒に中に入る。
部屋のパネルの中から、真ん中の金額の部屋を選ぶ。
支払いをして、エレベータに乗った。
そして二人になった。ベッドに並んで座る。
「さっきまで会ったこともなかったのに、何だか不思議だね」
ナナはうんうん、と頷く。
「タケシさん、私で良かったの?」
「こんなにキレイな人が来るとは思っていなかったから緊張しているくらいだけど…どうして?」
「だってモテそうだし普通に彼女とか居そうだから」
甘えた感じでもたれ掛かってくる。
「残念ながら、そんなことないよ。いつも友達で終わってしまうんだ」
伊藤は、誠実さを言葉に乗せて答える。
彼の特技は自分を騙せることだ。相手が欲しい言葉を本心のように伝えることができる。
思ったことを話せず、考えたことしか話せない。
彼は自分の性質が心底嫌いだった。
「みんな見る目が無いんだね」とナナ。
そっと肩を抱く。
いつまでも話をしていると次に進めなくなる。
「シャワー浴びようか」耳元でささやく。
ナナが一緒に入りたがったので照明を落とし服を脱がせ合った。
少しずつ好意を囁き合い、二人は2時間だけの恋人になった。
「すごく良かった」
ぐったりしたナナが言う。
実は伊藤にとって、身体の関係はさほど興味がない。
相手に満足してもらうことばかりに気を使って、自分の欲望を満たしたいという気持ちが薄い。
2回目のシャワーを浴びた後、約束の金額が入った封筒を渡す。
「ありがとう」
「こちらこそありがとう」
伊藤がこの短い時間で欲しいものは、相手の好意だ。
彼にはどこか世間知らず、もしくは理想主義の面がある。
お金だけで身体を任せる人は、いわゆる市井の女性にはいないと思っている。
だからナナも、ある程度自分を好きになってくれているのかと期待を持つ。
彼はお金に困るという体験がなく、どうしても想像できない。
親の資産や貯金もなく、家賃を抑えるために2時間の通勤を選ぶような人の、生きるためのお金の重さが分からない。
「また会えるかな」ナナが言う。
「もちろん、また連絡するね」笑顔で答える。
数回は会うだろう。
しかし毎回お金を渡すたび、これはただの金銭的な関係で相手の好意などない、と心の囁きが聞こえてくる。
そうなってしまうとどんな顔をして会えばよいか分からなくなる。
そして自分を変える必要に気付かないまま、彼は不毛にも新しい出会いを探すことになる。
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