満月の瞳

USHIかく

満月の瞳

 ――それは、風の穏やかな満月の夜だった。

 遠くの灯りは消えかけ、点滅を繰り返していた。真っ暗な砂浜には、静かに押し寄せては引き行く海の波の音だけが聞こえてきている。


 明かりのない場所のはずなのに、その白い砂浜はやけに輝いて見えた。貝殻が点々とフラウンホーファー線のように暗闇を作り出していながら、それを乗せる白砂は、淡くて弱々しく、発光しているかのようだった。その光景に儚い光を映し出しているのは、暖かな空気の空の先にある、大きく奇麗に見える月だった。


 私は、どこにでもいる一人の青年だ。異端児と称される事もあれば、誰にも見向きもされない石ころのような存在でもあり、そういう意味で、どこにでもいそうな、普通の青年だ。それでも私は、どこかそこはかとない虚無感に身を包まれていた。

 私は、命を全うすることに疲弊していた。

 別に、私は恵まれていない訳ではない。特段、何か大袈裟な不幸に心を蝕まれているわけでもない。比較的順風満帆で、然程変化のない日常を十何年だか二十何年ほど過ごしてきた。それでもなお、私自身が息を吸い、この世界で前を向くことに疑問を感じていた。なぜ、志を諦め、辛苦に耐えながらも、この世界で生きながらえる為に努力をするのか。なぜ誰にも規制されているわけではないのに、この社会で生きることに息苦しい窮屈さを感ずるのか。その答えは分からないが、それが、私自身の存在意義を疑問に晒すのだった。

 それだからか、私は私自身の存在を不幸に感じていた。なぜかを答えることは、やはり少し難しいかもしれない。

 だから、私はそこはかとない虚無感に襲われていた。路頭に迷ったときは、孤独の自然で空を眺めるのは私の常だった。全てを忘れて、一旦、考えることをやめてしまいたかった。誰の目も気にせず、ぼーっと過ごしたかった。なので、その満月の夜、私は寂寞な匂いを醸す白い砂浜に赴いたのであった。


 淡い月光に照らされて押し寄せては引き行く波を眺め、静かなその音を聞きながら、砂浜の岩に腰を下ろし、私はその果てしない海と暗い空を見つめていた。あの海の先には何があるのだろうか。ネットで検索すれば一発で現在地も海の先も、すべての名称も情報も事細かに表示されるのだろう。だが、そうではない。海の奥。空の上。地平線の果て。そこに、私の中に潜む虚脱感を引き出す疑問の答えは眠っていないのか。わからない。だが、思い悩むのもバカバカしくなる広大な自然の世界に身を預けているだけで、私は良かった。我を忘れ、その光景を眺めていた。幼い頃から何度も見た光景である、寂しい砂浜には違いない。今日のような温かい季節の夜、月明かりに照らされた砂浜に来たこともある。だが、思い返せば、満月の夜はなかったのかもしれなかった。


 ふと、気がついた。今晩、この砂浜は、私の特等席ではなかったことに。少し離れた所に、一人の少女がいた。彼女からは、なぜか不思議なものを感じ取った。そう歳は離れていないと思う。黒い髪を伸ばした、普通の少女だった。

彼女は砂浜に立ち尽くし、無気力に海と空を見ていた。

 人と話すのは得意でもないし、初めて合う人なら尚更話しかける勇気などないが、こんな寂しい夜中に砂浜に来ていることを奇妙と思っただけなのか、それとも何か他のものを感じ取ったのかは、もう覚えていない。私はゆっくりと腰を上げて、砂を踏む音をかすかに響かせながら、その少女に少しだけ近づいた。私に気がついているかは分からない。

 美しい横顔だった。別段美人でも醜悪な顔つきでもない。珍しい格好をしているわけでもない。白のワンピースだろうか。薄着だ。それでも、その姿は不思議に感じて、その雰囲気に私と似たものを感じ取った。その横顔は儚く、その瞳はなにか深いものを映し出しているような気がした。

 話しかけることなどはしない。話しかける理由も、内容も思いつかない。ただ、その雰囲気を感じ取りながら、月に照らし出されているだけであった。距離はそう近いわけでもなく、10メートルほど離れていて、ただ誰もいない砂浜に立ちながら海を眺めているだけであった。


 突然、彼女はその空虚な色の瞳を閉じた。横目で見ていただけであったが、彼女は私の方を向き、薄く開いた目で私を見つめて、少しだけ近づいてきた。私もゆっくりと彼女の方を向いた。

 彼女の瞳は、深緑色のように見えた。その空虚な雰囲気に魅惑的に引き込まれてしまう、異質な物を感じた。だが、その瞳から目を逸らすことはできなかった。鮮やかで、明るいものをも想起させながら、同時に空っぽで深い悲しみをも想起させる、不思議な色を彼女から感じ取った。そんな私が彼女に抱いた感情の正体は分からない。同情だろうか。可哀想、と感じたのだろうか。一種の慈悲なのかもしれない。慈しみたくなり、だが同時に、なにか恐れをも感じてしまう、そんな魅惑的なものを、彼女は醸し出しているのだった。その深淵に映し出されているものを、言語化することはできなかった。


「――私も、わからない」


 ふと、彼女はそう声を上げた。可憐な、そして静かな、一声だった。まるで、全てを見透かされているかのようだった。そして、彼女も私に、同情を抱いているかのようだった。

それが、私と彼女の間で交わされた、たったの、一言だった。

 静かな弱い風の音だけが耳に入る沈黙の後、私の隣に立つ彼女は再び海と空を見た。

 その美しい横顔を眺めると、あの深遠を写す瞳には、空に浮かぶ奇麗な満月が浮かんでいた。

 私も見上げたその空に浮かぶ満月。

 ――なぜか、今日はその満月が、不気味にも美しかった。


 二人の間に生じたその奇妙な哀れみは、今も忘れていない。

 あのあと、私達はいずれ別れた。

疑問が解決したわけではない。疲れが取れたわけでも、虚脱感が失われたわけでもない。あの晩以降、私はまた日常に戻った。


 だが、あの夜の美しい横顔は、忘れていない。


 一晩限りの、奇妙な哀れみであり、儚い恋のような、でも少し違う、複雑な感情。

名前も知らない彼女の一声を。あの、不可思議な出会いを、私は一生忘れないだろう。


 彼女が何者だったのか。今、どうしているのか。

 それは――誰も、知らない。


〈了〉

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