第50話 一言の約束

 自然にできたのだろう、階段(――と言うには、段差の高さも違うし、亀裂も入って、傾いていたりと不安定だが)を上がるジオが振り向けば、すぐ後ろにいるとばかり思っていた『彼女』の姿がなかった。


 視線を下げればいた……、アンジェリカが、膝に手をつき肩を上下させている。


「まっ、はや……、ジオ、く――」


「荷物が多いからだろ。背中のプレゼンツと腰のポーチに色々と詰め込んだみたいだけどよ……、主に移動が中心になるんだ、軽装でいくのが普通だぞ」


「だ、だって! 備えあれば憂いなし――でしょ!?」


「備え過ぎて目的を達成できないんじゃ意味がない。山登りをしたことないか? 命を守るためにリュックを背負って装備を整えるのは当然だが、あれは整備された道だからこそだ。

 未知の異国を歩くのに、軽装に見えるお前の荷物の量は、山登りにスーツケースを引いていくようなもんだ……。

 せめて背中のそれは捨てていけよ。いらないだろ、翼のプレゼンツなんて――」


「底が見えない穴に落ちたらどうするの!?」


「そん時は俺が拾ってやる。命綱のロープされあれば、なんとかなるもんだ。俺なんか、携帯食とこれだけだぞ? 何泊もするつもりはないしな……最短で助けるつもりだ」


「……そうやって焦ると足を踏み外すよ、ジオくん……。ロープを足場に引っ掛けて、安全なのかもしれないけど……、今にも崩れそうなここでそれに頼るのは怖くない……?」


「お、アンジェリカもそういうことに気づくようになってきたか……そうだ、危険だ」


 え、と戸惑うアンジェリカである。

 下は黒い穴だ……底が見えず、落ちれば絶対に上がってはこれないだろう。

 だけど下から伸びているこの足場(……山の一部? 建造物みたいだけど、柱が建つ地面が見えないと不安が増していく)があるということは、少なくとも足をつけるべき大地があるのだろう……、――きっと。


 空中にぴたり、と柱が固定されているわけもないし……、でも、それは人間の常識内での話だ。プレゼンツによって覆されてきたこれまでのことを考えると、神と拮抗する悪魔がすることなら、なんでもできてしまうのでは? と思えてしまう。


 暗雲に包まれた異国は、一向に変わらない夜である。退路はまだ見えているが、進めば当然、見えている光も届かなくなり……、完全に飲み込まれる。


 もしも、入口が塞がってしまえば、悪魔の国から出ることは叶わなくなる……。


 アンジェリカからすれば、どれだけ備えても足りないと考えてしまうだろう。


「危険なんてことは百も承知だ。分かっていながら助けにきた――俺は何度もお前に言ったぞ、死ぬかもしれない、もう二度と帰ってはこれないかもしれない……、

 それでも俺についてくる気か? ってさ」


「…………うん」


「それでもお前はついてきた。

 一歩目で、仮に死んでも構わない覚悟を持って、この国へ入ってきたんじゃないのか? 覚悟さえあれば一歩目だろうと目的の目前だろうと、死ぬことに恐怖を感じるわけがないだろ。

 ――最後のチャンスだ、退路が見えている今しかねえ。怖いなら帰れ。正直、これから先、俺がお前を守れる保証もねえ」


「……ジオくんが助けるのは……ネム社長だけ、だもんね……」


「ネム以外を助ける余裕は、残念だが、今の俺にはねえんだ――分かってくれ」


 だから手を伸ばさない。


 肩も貸さない……、ジオがアンジェリカに、『一緒にきてほしい』と頼んだのではなく、アンジェリカがジオに、『連れていってほしい』と頼んだのだ。

 無視して勝手に出発することもできたジオだが、生きて帰る保証ができない……異国への侵入である……。

 勝手にいくのはさすがに、アンジェリカに悪いと思ったのだ。


 だから伝えた――、異国に入ってしまえば、ネムランドを優先する。

 アンジェリカが困っていても、助けない――と。


 ついてくることを拒絶することはないが、手を煩わせるなら、遠慮なく置いていくと言っているのだ。

 分かった、と言ったアンジェリカが、ジオの手を煩わせないためにプレゼンツをたくさんポーチに詰めたのだが……、それゆえに足が遅くなっているというのは、皮肉なものだった――。


「……先、いってるぞ」


「そうだね、ジオくん――悪魔を倒しにいくわけじゃないんだもんね」


 と、アンジェリカが吹っ切れたように顔を上げた。

 さっきまでの疲れと足の痛みと恐怖に歪めていた顔ではなく、生きて帰ることを決意した目――でもなく、たとえ死んでもいいと覚悟を決めた表情だった。


 背負っていたリュックを捨て、腰のポーチも捨てる。

 柵のない階段から外へ投げ捨てた。底が見えない穴へ落ちていく荷物が、大地に叩きつけられる音は、当然ながら聞こえなかった。

 

 真上の暗雲から聞こえている雷の音に負けて――のもあるが、そもそも穴の底に大地なんてないのかもしれない。


 水面、という可能性も……。


 だとしたら着水音くらいはあるか?


「お前、携帯食まで捨てただろ」

「……――あ」


「バカ。……まあいい、俺のを分けてやる。

 早くついてこい。身軽になったなら、最悪、お前を背負うこともできるしな……」


「……あたし、お荷物……?」


「出発前に自分で言ってただろ、『お荷物だけど連れていって!』って。お前がついてくることを良しとした時点で、アンジェリカは荷物だって認識してる。……今更だ。

 軽装でいれば、バディを背負うことができる。だから荷物は少ない方がいいんだよ」


「え、じゃあ、あたしを最初から背負うつもりだったってこと……?」


「つもりじゃねえ。そういうこともあるかもな、とは思っていたが――」


 しなくていいなら、それが一番いい、とジオ。


 油断するな、と強く言い聞かせられていたアンジェリカだが、背負ってくれる、と言ってくれたジオの『優しさ』に、アンジェリカの笑みがこぼれる。


「あ、気を抜いちゃった」


「……ずっと気を張っていても疲れるだろ……、徹底する必要はねえ。

 ただ、敵陣のど真ん中であることを忘れるな。上へ続く階段しかないとは言え、これからなにが起こるか――分からないんだからな」


 目的はこの階段の先……のはずだ。


 もしかしたら行き止まりで、なにもないかもしれないが……。

 異国へ入ってみれば、階段これしかなかったのだから、ここを進むしかない――。


 他に取れる選択肢がなかったのだから。


「……底が見えなきゃ、上へ続く階段の先も分からねえか……集中力が削がれる場所だな」


 せめて目的地が見えていれば……、全体の何割、進んでいるのか分かるのだが。


 階段を上がり続け、今どこにいるのかが分からないのは、かなりきつい。


 出発した時の覚悟が揺らぐ程度には、体力も精神力もすり減っていっている――。


 一人なら心が折れていただろう――、でも。



「え? ……ジオくん、なんで、手を貸してくれて……」


 段差の下にいるアンジェリカへ手を伸ばし、彼女の手を取る。

 ぐっと引っ張って、彼女を同じ段差へ立たせた。

 ……今は一人ではない。アンジェリカがいる。


 連れていって、と言われて渋々だけど了承したが、心の底で彼女を必要としていたのは、ジオの方だったのかもしれない。


 一緒にきてほしかったけど、言えなかった――でも、彼女の方から言ってくれたのだ。

 ……厚意に甘えているな、と自覚しているが、自身を咎めることはなかった。


 利用、と言うと言い方が悪いが……、きっと手を引かない彼女が、自分の知らないところで無茶をするくらいなら、隣にいてくれた方がいい、と理由を付けたのだ。


 せっかくいてくれるなら、使うべきだ……でないと逆に失礼である。


 まるで一つの結果を出すために、過程を調整しているような言い訳ばかりだったが……。


 ジオ=パーティには、アンジェリカが必要なのだ。


 アンジェリカがいると安心できる、という本心は隠して……。


「……俺が背負うから……ほら、乗れ」

「なんで……? ジオくん、急に優しく、」


「背中の上でのんびりしててもいいってわけじゃねえぞ? やってもらいたいことがある……、周囲の観察、異変を、いち早く察知してもらいたい。

 どうせ二人いるなら、役割分担した方がいいだろ――あと、」


「あと?」


「……しつこく話しかけてくれ。

 いつもならうざいだけだが、こういう時は意外と支えになったりするもんなんだ」


 背中を見せて屈んだジオへ、覆い被さるようにアンジェリカが体重を預けた。


 アンジェリカの口元が、ジオの耳へ……――ふ、という息遣いが聞こえてくる。


「ジオくん」

「囁くな。ベッドの上みたいだろ……なんだ? 異変でもあったか?」


「ジオくんの心臓、ばくばくだけど」

「疲れてんだよ」


 ネムランドの救出に向かっている以上は、ジオの意識は助けるべき彼女へ向いている……、だけど、短くても、濃密な日々を過ごした結果、ジオの中でアンジェリカへの『意識』が変化しているのかもしれない……。

 こうして密着しただけで(ジオは否定しているが)、心臓が主張するくらいには。


 最初は子供ガキにしか見られていなかったのが、『女性』として意識してくれている……、なんだかんだと、諦めずにアプローチをし続けた結果、こうして変化が現れているのだ……――アンジェリカの努力は無駄ではなかった。


 無駄で終わらせる気は、アンジェリカにはなかったようだが。


「ジオくん、いつでもになってあげるからね?」


「?」


 この意味が分かるのは、ネムランドと再会した、後のことである――。

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