9/25 小説なんてどうでもいい、って思えたら楽なんだろうな
9月25日。快晴。
今日はチビたちの運動会。「お姉ちゃん来てね!!」と熱烈な招待を受けていたからには、行かねばなるまい、と思う。祖父母について行って、しばらくはかけっこやら綱引きやらを見ていたが、理由もなく涙が出てくる。特に、親子競技。
運動ができない子供の例に漏れず、私は運動会が嫌いだった。さらし者になるのがわかりきっていたからだ。長い開会式も閉会式も嫌いだった。やりたくもないことをイヤイヤやって、「一生懸命がんばった」ことにされるのも嫌いだった。
それだけじゃない。父母ともに共働きで、保護者席に母がいないことが寂しかった。小学校4年生の時だろうか。母が途中で「ごめんね、帰るね」と声をかけてきた時、泣いてしまったこともあった。小4にもなってこんな理由で泣くのはみっともない気がして、周りの人たちに「どうしたの?」と声をかけられても、私は頑なに理由を言わなかった。けれど、今なら、そんなに無理に大人ぶる必要はなかったよな、と思える。寂しいって言って泣いても許される年頃だったんだよな、と。
運動会を見ていたら、嫌でもそういうことを思い出して、しんどくなった。一時間は耐えたけれど、それ以上は無理だった。「疲れたから帰るね」と私は先に自宅に戻り、ベッドでうずくまっていた。チビたちには、大人たちが口裏を合わせて、「見えない場所でちゃんと見ていた」ことになった。見てくれることを楽しみにしていたチビたちには申し訳ない。
ベッドで、色んなことを考えた。最近、本を読んでいても、何をしていても嫉妬にかられてしまうこと。評価を得ている人がうらやましくて仕方ないこと。この持て余した承認欲求はきっと、「小説を書く」ということを手放せば楽になるだろうということ。
小説を書くことは、ある時まで、甘い蜜だった。小説は、私が唯一認められる場所であり、心の支えだった。けれど、いつしか呪縛に変わった。「小説で認められる」ことが目的になって、それ以外のものが全部手段になった。本を読むことも、生きることも。「小説を書くため」に本を読む時間は、義務感だけに駆られていて、昔感じていたはずの純粋な楽しさからはかけ離れていた。秀逸な部分があれば、なぜ自分にはこれができないのだろうと、悔しくなった。
小説に拘泥しすぎて、私は苦しくなっている。心の支えだったはずの小説が、アイデンティティにまでなっていた小説が、ここ最近は一番に私を苦しめている。たまに報われることもあるからやりきれない。時々優しくしてくれるDV彼氏みたいだ。
小説なんてどうでもいいと思えたら楽なのだろう。そうすればきっと、小説で承認されないことに焦燥感を覚えることもなければ、八つ当たりみたいに他人に嫉妬することもないのだろう。
それでも、私は甘い蜜が欲しい。欲しくて、縛られている。
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