息子

うつりと

鍵(キー)

 キラキラ輝く蝶を見ると、あの時の光景が甦る


 毎日の暮らしが私をすり減らしていた。そしてすり切れた私の心が家族を傷つけていたことにあの頃は全く気づきもしなかった。


「あの子は何が気に入らないんだか私の言うことなんてまるで知らん振りで、プイっと外へ出掛けてしまうんですよ。

 今日も学校から呼び出されて、もうこれで三度目だわ。先生が学校に来ない日があるって言うんですよ。

 ご近所の人にもフラフラしているところを見たって言われるし、最近あの子、変な恰好をしてるんです。悪い仲間でもいるんじゃないかしら…。

 きちんとした格好をしなさいって言っても駄目なんですよ。

私がまるで意地悪でもしてるような目で見て…。

あの子のことを聞かれると恥ずかしいわ。

おんなじに育ててきたのに何で兄弟、あんなに違うのかしら…。

あなたから話してください。」

 朝からの妻の小言にはうんざりしていた。

「悪い仲間と付き合うのはお前が気を付けていないからだろう。私は仕事で忙しいんだよ。朝からそういう話はよしてくれないか。」

 吐き捨てるように言った後、出掛けようと靴に足をねじ込んだ。 

息子がダイニングの前に立っている。

「母さんに迷惑かけるんじゃないぞ。」

 一言残し、私は家を出た。


 私が役職に就くようになってから世の中の景気は下がっていった。長く続く円安で会社もだいぶ痛手を被っていた。

 毎日のように会議続きでこの不景気をどう乗り切るか、そのことで頭はいっぱいではっきり言って息子や家族のことを妻に相談されるのは迷惑に感じていた。

 入社以来、コネもない私が自分の努力だけでここまで這い上がってきたのだ。

 家も建てた。同年代の友人の中では立派な家だ。二人の息子も私立の名門校に入れた。これ以上私に何をしろというのだ。


 今日も会議の後、遅くに家に帰った。

―ピンポーン―

「こんな遅くに誰だ。」

―ガチャ― 

 警官だ。

「今晩は。夜分すみませんが息子さんはお宅においでですか。」

「は?うちの子が何か…。」

「今日、学校の裏のスーパーのガラスを割った者がいまして、息子さんのクラスの生徒らしいので何か知っていたらと思いまして。」

「まあ!」

 妻は二階の息子の部屋へヒステリックな音を立てて上がって行ったがすぐに降りてきた。

「あなた…あの子が鍵をかけて開けないのよ。」

 カッと頭に血が上り、階段を駆け上がった。

―ガチャガチャ!ドンドン!―

「開けなさい!ここを開けなさい!」

 力ずくしでドアを壊して中へ入った。

―バーン― 

ドアが弾けて開くと、それと同時に東の窓が開き一瞬強い風に押し戻された。部屋に息子はいない。

真っ暗だった部屋は月明かりで照らされ、窓から見える森の向こうへ何かの光がすうっと吸い込まれたような気がして、しばらく森を見つめていた。

(何だろう…)

 だが直ぐにそんなことは忘れてしまった。


 警官は息子を見かけたら直ぐに家へ連れてくると言って帰った。

 私は無言のままソファーに座ったり、立ち歩いたり、どうすることも出来ずただイライラだけを募らせていた。

 妻は手に負えない息子を嘆き、家庭の相談に乗らない私をなじった。

(いい加減にしてくれ、私の足を引っ張るのはもう止めてくれ…)

「明日から出張なんだよ、家の事はお前に任せていたはずだろう。あいつがあーなったのもお前のせいだぞ!」

 妻の言葉を振り切るように私は寝室へ入って寝てしまった。


「あの子の事なんですけど…」

「出掛けにあいつの話はよせと言っただろう!」

 妻の言葉を遮った。

 昨日は妻も疲れて寝てしまったが、朝になると息子はいつもの時間に部屋から降りてきた。階段の前に立っている息子に平手打ちをし、私は出張に出掛けた。

 あれから息子には会っていなかった。


 出張から帰るとすかさず妻は、息子の部屋にバットがあったと言ってきた。

 野球をしていたのなんてずっと小さい頃なのに今頃バットが部屋にあるのはおかしいと言うのだ。

「やっぱりスーパーのガラスはあの子が…。」

「そんな事を言うんじゃないぞ、近所にバレでもしたらどうするんだ!」

 ナプキンで口を拭いながら立ち上がり、階段の上を見つめた。

 息子の話をされると嚙み合わなくなった自分の人生は皆息子のせいのように思われてくる。

(一体なぜ、いつからあんな風になってしまったのか、あいつは何を考えているんだ…)

「今日帰ったら、私から話をする。外へ出掛けないように言っておきなさい。」

 と言って会社に出掛けた。


 その日は仕事は残っていたが、夕飯時に家に帰った。

(今日はあいつにしっかり言い聞かせよう。一度きりだ。何度もあったらたまらない。仕事をこれ以上放っておく訳にはいかないんだ。)

 ぐるぐると頭の中を仕事の問題と家庭のごたごたが不愉快に取り巻いていた。


 食卓に着いたところで、息子を呼びにやらせた。

 二階から降りてきた妻の顔が青い。

「あなた、あの子がまた…。」

 二階へと駆け上がると息子の部屋に入った。

(まただ…)

 帰るまで風など無かったのに、窓の開き戸が風で激しく軋んでいる。

(光がみえる)

 きっと懐中電灯か何かだろう。窓から飛び降りて逃げたに違いない。

玄関へ回り、外へ飛び出した。怒りが込み上げてきた。

(仕事を残して帰ってきたというのに!お前の為にだ!)


 走った。光を追い掛けて走って走って走った。

 ハアハアハア

 光を見失って気が付くと、森の奥深くに来ていた。

 周りを見渡した。

(一体あいつは何処に…)

 すると月明かりの中、目の前に巨大な老木がそびえていた。大人が五人で手を繋いでも届かないだろうその大木は地面に太い根を幾つも張り巡らし、その大きな体を支えている。表面はびっしりと苔生していて夜露の香りが一面広にがっていた。

 するとその大木がうっすらと光り始めた。それが徐々に光を増してきている。

 月明かりのせいではない。何か木の内部から発光しているようだ。

 いや、木ではない。何か木に付いている物が光っているようだがよく見えない。光が少しずつ強くなるにつれ、輪郭が見えてくる。

(あれは…蛹だ…)

 老木の幾つも伸びている枝のうちの太いその枝はベッドのように横たわり、大きな蛹を抱き込んでいる。こんな大きな物は見たことがないし、それにその蛹は光を少しずつ強くしているのだ。

 よく見ると透き通ったその本体に張り付くように無数の葉脈のような管の中を液体が流れ、それがキラキラと美しく輝いている。光はその内側から漏れているのだ。

 全体が呼吸をするように微かに動き、それに合わせて光の強さや色が変化している。

 うっすら影が見える。頭部が分かった。それは胎児のように両腕で両足を抱え込んでいる。

(人だ…)

 そう、それは人の形だ。

(人が閉じ込められているのか?どうなっているんだ!)

 一体、目の前で何が起こっているのか全く解らずパニックになった私は両手を振りかざし、大声で叫んだ。

「何だ!何なんだ⁈」

 すると光はぐんぐん強くなりだし、物凄い光を放った。

「うわっ!」

 思わず目をつむり、両腕で顔を覆った。何かが爆発したと思ったのだ。が、音がしない。

 おかしいな、と思いながらそっと目を開いてみると、目の前の大きな蛹から何かが産まれてくるところだった。

 その手は透き通り、光り輝き、しなやかにゆっくり、ゆっくりと外界へ押し出ようとしている。

しっとりと濡れた輝く手と腕が出ると、頭を擡げた。

何と美しい光景だろうか。

 いつしか私は驚きも恐ろしさも忘れ、うっとりとその神秘に見入っていた。


 そしてその生き物がとうとう横顔を見せた時、世界の全てが止まってしまったように体が凍り付いた。

(息子だ)

 産まれてきたその生物はこともあろうに息子と同じ顔をしている。いや、間違いなく息子だ。

 ゆっくりと体を伸ばすと、背に畳み込まれていた羽が静かに広がりだす。月明かりとその体から零れ出る光に呼応するかのようにその羽は美しく輝きだした。

 それは全く息子の姿をしていたが、背中には蝶のような羽が生え、頭には触角があり、体は淡い緑色に輝き透き通っていて今にも壊れそうな危うさを感じさせるが、目だけは鋭い眼差しをしている。そしてその目はこれが現実なのか夢なのか解らなくなり呆然としている私をじっと見据えた。

「おまえ、なのか…!?」

 やっとのことで発した言葉には聞こえたのか聞こえていないのか、言葉を知らないように反応しない。

「お、お前なのか…?」

 もう一度呼びかけて駆け寄ろうとしたその時、天から伸びた一筋の細い光が息子の体を貫いた。

 その瞬間私は感じ取った。

(息子は生まれ変わったのだ。いや、新しく生まれ直したのだ…)

すると蝶になった息子は羽を大きく羽ばたきを始め、一気に光の示す方向へと飛び立った。

「ま、待ってくれ!」

 しかしそのまま一直線に空へと飛んで行く。

 まるで、流れ星のように真っ直ぐに。小さくなった光は澄んだ空の彼方へ行ってしまった。


 ああして森の中に一体どのくらいの時間いたのだろうか。

 あれ以来、息子は家には帰らなかった。捜索願も出したが、警察も最近では諦めてしまったようだった。

 妻とは離婚をした。家も売り、会社も辞めた。

 

 今私は田舎に小さな農場を買って、そこで暮らしている。

 夕方になると外のガーデンチェアに腰を下ろし、向こうの森を眺めながらバーボンを飲むのが習慣になった。

そうやっているとあの森の奥から一筋の光が飛び出したような気がしてハッとする時がある。

 息子は何処へと旅立ったのだろう。人間でなくなった息子は私を覚えているだろうか。

 息子が空へ吸い込まれる瞬間に、私を見ていたような気がするのだ。それを思い出すとき、息子は泣いていたようにも思えるし、そうでなかったとも思えるのだ。いや、あの時は私を軽蔑し、睨んでいた気がしたのだが、日が経つにつれ時が過ぎるにつれ、思い出すあの時の息子の目が私を許す目に変わっていくのだ。

 あれからの長い人生を振り返った時、私はずいぶん変わった。そしてこれで良かったと思う。

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息子 うつりと @hottori

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