掌編小説・『空』

夢美瑠瑠

掌編小説・『空』

(これは、今日の「空の日」にアメブロに投稿したものです)





  掌編小説・『空』


 「東西冷戦による核戦争への恐怖が、宇宙からの救済を求める集団心理になり、それが空に投影されて空飛ぶ円盤の大量目撃証言に繋がったというのが、カール・グスタフ・ユングの「空飛ぶ円盤」という著書の骨子である。…」

 今時には珍しい純文学プロパーの、老私小説作家である古木寒巌<こぼく・かんがん>氏は、エッセーの書き出しにこう記した。

 

 彼は、「古井戸」という雑誌から「空」という題で原稿を依頼されて、あれこれ黙想した挙句に、古井戸→フロイド→ユングと連想が働いたのだ。精神分析や、精神医学の分野には多少造詣があった。

 

 作家のご多分に漏れず彼も分裂気質で神経病みで、若いうちには散々に「精神的苦悩」をして、そうしたっ造詣はその悪戦苦闘の爪痕というか名残なのであった。

 

「…ユングという人は一般にはジイグムント・フロイトの正統的な後継者と思われているが、実はだんだんに相互の思想が離反していって、後には袂別しているのである。

 フロイトはご存じのように親子の葛藤に神経症の起源を見て、オイディプス・コンプレックスが神経症状の大本、と喝破した人だが、つまりそうした人間の性的な葛藤があらゆる森羅万象の裏に潜んでいると、そこにこだわり続けていたとそうした印象があるが、この精神分析の鼻祖の門弟のうちで唯一の否ユダヤ人だったユングには、師のそうした思想が馴染めず、寧ろ人間精神の奥底には非常に高貴な宝物殿のような、神秘的な領域があると、そういう発想に傾いていって、禅とかヨーガとか易経とかそうした東洋的な精神遺産の秘教的な意味を精神分背の文脈で考究しようとした。私はそう理解している。

 しかし、汎用される内向性・外向性の概念や、コンプレックスという言葉を作ったのもユングであり、単純な神秘主義者ではなかった。

 「空飛ぶ円盤」への興味や、いわゆるシンクロニシティという概念はユング博士の才知の深さとか興味の分野の広さを反映しているものであろう。…」


 そこまで書いたところで、正午になったので、古木氏は休憩を取った。

 「ううばあいいつ?」というドイツ語か英語かよくわからない店から出前を取って、昼食にした。


 …電話してまもなく、派手な制服を着た髪を緑色に染めた若者が玄関にあらわれた。

 「ちっす。天丼一丁ですね」

 「そう」

 「480円っす。」

 「この間こんな割引券をもらったんだが…」

 「あ、一割引きですね。だから48円引くと…」

 「442円かな?」

 「そう…でも…いや432円です。」

 「正直だね。ご褒美に100円おまけするよ」

 「金の斧ていう童話みたいですね。ハハハ。毎度あり」


 「…だから、東洋的、仏教的な「空」という概念についても、ユング氏は一家言持っていたに違いない。般若心経には「色即是空 空即是色」という言葉があり、これは色ごとのことではなくて、実体のある事物、あるいはそういう実質性と、何も内容がない、空っぽということは同義だ、そういうことらしい。老子は空の器の有用性はその空の空間にある、と述べて、これも逆説だが、禅問答めいたこうした逆説の両義性や神秘性が東洋思想の特徴といえよう。…」


「いわゆる”東洋の賢者”は、いろいろな小説や物語等において、結跏趺坐の姿勢のままで、すぐには意味が分からない神秘的な、不可思議なことを呟くことになっている。 

 考えに考え抜いて何とかしてこの世の真理を悟ろうとしていると、一周回って、どうしても自家撞着とも思えるこうした哲理、箴言の表出に至るのかもしれない。哲学一般にもやはりこうした弊があるように私には思える。一般の人々から見るとこうした賢者や聖哲、偉人の有様や言葉には違和感があって、よくカリカチュアライズされる。私にも、般若心経のようなポピュラーなお経でも、「なぜ色が空なんだろう?」と率直に言うと素朴な疑念が生じる。

 

 そこにあるギャップというか乖離というか、それがよってきたるところは多分、この世の中、この宇宙、全世界というものが、根本的に不可思議な「謎」を孕んだ、不可知で矛盾した「わけのわからないもの」であるという、そのことの反映かもしれない。

 だからいくら考え抜いても答えが出ない。わからないから結局矛盾したどっちつかずの迷答?に落ち着いてしまう…

 ソクラテスが「無知の知」といったのは、「実は私にも何だかわからないのだ」という降参宣言、そういう意味にもとれる。


 素人のとんちんかんな暴論かもしれないが、今日の駄文の結論はそういうことにしておく。」


 かなり怪しげな論を無理矢理にまとめたみたいになったな?とちょっと気が差したが、締め切りが近いのでそれで取り敢えずいいことにしておいて、編”輯”者の「薫ちゃん」と後は相談することにした。


 硝子戸の外には暮色がさしてきて、初秋の清澄な空気が外を満たしていた。「色即是空」というのは案外こういうことかもしれないな?と古木氏はまたわけのわからない想念に屋上屋を架すのだった。

 

<了>

 

 

 

 

  

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