豚の生姜焼きを初めて作った日の話

アスパルテーム

第1話

 それでも、私はどうしても、あなたの顔を思い出せない。ただ涼やかな波の音だけが頭に響いている。

 その日の海は、まるで死んだようだった。鮮やかな青色は鳴りを潜めて、アスファルトを溶いたような灰色の潮騒しおさいが、見渡す限り広がっていた。遠く見える地平線の向こうまで埋め尽くす液体は、私の身体と臓物を求めて、それは気色悪くうごめいていた。海に来たのはいつぶりだろう。幼い頃に一度来た切りだった気がする。まさか、ここにあなたを、あなたの入れ物を打ち捨てに来ることになるとは思わなかった。というのも、あなたの死体の表情を見て、真っ先に思いついたのは、ここだった。さてどうしてだろう。私はあなたとここに来たことはなかったはずだが。はて。命を失った入れ物は、それは重い。人に限らずとも、飼っていた犬とか猫とかが死んで、それを抱えた時に、記憶している重さとなかなかに違って戸惑ったことがある人もいるのではないだろうか。きっと、体重を支えていた筋肉に力が入らなくなったから…だと思うのだけれど、私はその方についてはよく知らない。精神的なものによる錯覚もあるのかもしれないと考えたこともあったように思うけれども。まあ良い。 

 私はあなたを、近くの断崖だんがいまで横抱きにして運んだ。引きずるのは、どうしてもあなたに申し訳なくて出来なかった。あなたの首は、その重さで仰向けに傾き、細く白い喉をあらわにしていた。この喉に手を掛けたときの、わずかに抵抗する喉仏の感触が、今も左手の平に残っている。

 あなたを断崖の手前に座らせようとしたけれど、矢張り上手く座れず、後ろへ倒れ込んだ。それは天邪鬼に、そしてかたくなに言うことを聞こうとしない子供のようで愛らしくも見えた。しかして実際には、子供であれば持ち合わせているはずの未来も失い、かつて赤く色付いていた頬も、今では青白く張り付いている。子供という存在とは、ほとんど正反対の存在になり果てている。否、私がそうしてしまった。それでもあなたのことを見て、私は子供のようだと思った。それから私は、あなたを断崖から投げ捨てた。子供みたいだと考えてから投げ捨てるまで、私の頭の中はがらんどうになっていて、最早あなたを投げ捨てるために、脳が筋肉に指令を出しているだけの状態になっていた。つまりはこの瞬間だけ、私はただの機械になっていた訳だ。だから申し訳ないことに、あなたが海に飛び込む刹那、私にどんな表情を向けたのか、あるいはどんな格好をしていたのか、全く記憶にないのである。その直前までの記憶が鮮明にあるのに、あなたを手放すその瞬間の印象がないのはこのためだ。

 私は軽くなった腕をぐるぐると回しながら、もと来た道を戻って行った。その時には既に、その日の夕飯のことについて考える余裕が、私にはあった。勿論、先程捨てたあなたのことも頭にはあった。けれども、私の関心ごとはそれよりも、今晩の食事のことへ向けられていたのである。

 いや何、これが日常茶飯事に起きているかと言われればそういうことはない。しかし、ほら、毎日歯医者に行きはしないだろう。私にとってこのことは、それと何ら変わりはしないのだ。この類の話を友人にしようものなら、彼らは食べ物を口に入れたまま咀嚼そしゃくを止め、目を見張り固まってしまうだろう。それが当然の反応といえばそうかもしれない。だから私はこの趣味のことは黙っていようと思う。誰かが私のこの手記を見るか、正面から私を暴くまで。それが楽しみでもあり、恐ろしい不安でもあるのだけれども、実際はどちらの感情が正解なのかは、その時になってみなければ分からない。

 ちなみにその日の夕食は豚の生姜焼きだった。初めて作ったが、とても美味しく出来て吃驚びっくりした。よく眠れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

豚の生姜焼きを初めて作った日の話 アスパルテーム @asuparute_mu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ