6:彼女をどれだけ信じているかっていうと
夢を見た。
僕はベッドに腰掛けて、窓からロンドンの風景を見ていた。
入ってくる風は重くて、暗くて、良いもんじゃない。
けれど、温かくて、柔らかくて、懐かしい物だった。
一通り堪能して窓を閉めると、僕が座っていた場所に影が座り込んでいるのが窓に映って見えた。
あいつだ。
「君も懲りないねえ」
振り向かない僕に彼は相変わらずの調子で声を掛ける。
「……うるさいよ」
あの後。しきちゃんの血を少しだけもらった。
首から吸うと歯止めが利かなくなりそうだったので、手首から少し。でもやっぱり足りなくて。無意識のうちに腕を噛んでしまった。
怒られはしなかったけど、深々とついた牙の痕に包帯を巻きながら謝り倒した。
なのに。
「傷が塞がるまでなら、血があげられますね」
なんて微笑むもんだから、思わず思考が止まったのは言うまでもない。
傷をつける罪悪感と、彼女の微笑みの安心感と、何というか、こう。時間を止めたくなるような複雑な気持ちが頭の中をぐるぐると回っていて。
それをこいつはたった一言で突き刺してきた。
「大体……お前はなんでまだここに居る訳?」
「私かい?」
影はくすくすと笑う。背中を丸めると同時に、ベッドがぎしりと小さな音を立てた。
「そりゃあ、君の中から消え去った訳じゃないからさ。君の中に流れ込んだ二人については私が――」
ほら、と袂から小さな袋を取り出した。
「この中だ。見てみるかい?」
「結構。お前がそうなればよかったのに」
「ふふ。期待に添えなくてすまないね」
「全くだよ……」
溜息をつく。同じ部屋にこいつと長居するのはあまり気が進まなかったけれど、この部屋の外に出すのも嫌な気がした。
部屋の外はリビングとキッチン。そしてなによりしきちゃんの部屋に繋がるドアがある。僕の夢の中だから、ただの空き部屋かもしれない。けれど、それでもここからコイツを出したくはなかった。諦めるしかない。
「それで、ウィリアム君」
「お前もそっちで呼ぶの!?」
「ふふ……ああ失礼。君の反応が面白そうだったからつい」
そう言いながら影はくすくすと笑う。
「私にとって君の名前はまあ、どうでも良いのさ。最終的にこの身体が手に入れば良いわけだし」
「そんなに存在が薄くなってるのによく言うよね」
こいつが混じった血の大半は台所のペットボトルの中だ。処分はまだ考えていないけれど、あれを飲んだりしない限りコイツの力が強まることはないだろう、と踏んでいる。
「まあ、すっかり自分の輪郭も保てなくなってしまったけれどね。未練ってのはそう簡単に消える物じゃないし。なによりここは居心地が良い。もしかしたらまた、輪郭を取り戻せる日が来るかもしれないと希望を抱きたくなるのさ」
「亡霊が希望抱くなよ」
「まあまあ。希望を抱くのは自由。そうだろう?」
「……」
そうだけど、なんかこいつに言われると癪だった。
「それにしても、君はこれからどうするんだい?」
「どうする、って?」
「私が君のあちこちを覗いて感じたのだけれど」
「何してくれてんの」
「まあまあ、君は日常を平穏に謳歌したいと思ってるんだろう?」
「……そうだけど」
呆れかえった僕の答えに彼は「だからね」と続ける。
「君が吸血鬼であることは変わらない。そして、座敷童も共に生活をしている。それからあの二人――フランケンシュタインの怪物とポルターガイスト。そしてまあ、私も似たようなもかな。類は友を呼ぶと言うけれど、人ならざるものがこれだけ集まったら平穏無事な生活って難しくないかい?」
「今回一番の非日常騒動貢献者が言う?」
「おや。そんなに褒められるとは」
「褒めてない」
不機嫌で切り捨てると、彼はやはりくすくすと笑った。
コイツのおかげでしきちゃんに辛く当たって、学校を休んで、柿原に吸血鬼であることを知られてた事が分かって、挙げ句家に乗り込んできたノイスちゃんに刺されて。
実に平穏とは程遠い数ヶ月だった気がする。
「そう。それら全て、君が人外であることと、座敷童を迎え入れたことによって引き起こされた。これからも平和である保障はないのでは?」
「……それはどうかな」
ほう、と不思議そうな声が返ってきた。僕はそれに少しだけ笑って答えてやる。
「我が家自慢の座敷童が居るからね。お前じゃなくてしきちゃんが。だから――きっと良い方向に進む」
「それで刺されたようなものなのに、君は彼女をどれだけ信じてるんだい?」
「そりゃあ、丸ごと」
きっぱり答えてやると、少しの間を置いて楽しそうな笑い声がした。
「笑うなよ」
「いや失礼。そこまで断言されるとは思わなかったのさ」
「だって彼女のおかげだよ。しきちゃんは呪いから解き放たれて。僕はかつての友人と再会して。受け継いでしまったものもなんとかなりそうだ」
そこで初めて振り返る。影はやっぱりそこに座っていた。
「私はまだ諦めないよ。君の感情も変化しているのが分かる。弱みを見せたら」
「見せてやるもんか。挑戦だったらいくらでも受けて立ってあげるよ」
こいつが実体を持ってないから血を吸ってやれないのは残念だが、吸ったところで良いことはないだろうな。とも思う。
影は「そうか」と静かに頷いた。
「君が彼女を信じるなら、私から言う事はないよ。それに、君に何らかの影響を与える力もほとんど残ってない。だからもうしばらく様子見をさせてもらうよ」
君の学習内容を得るのも楽しいしね、と彼はベッドから立ち上がり、僕の本棚から一冊の本を手にする。
それはただの資料集だ。僕がこれまで学んできた時に使った本の一冊。それをぱらりとめくり、影はうん、と頷く。
輪郭は曖昧で、色はすっかり影色で、表情は見えないけれど。その声は楽しそうだった。
「別に知識くらいならいいけど……他は立ち入り禁止だからな」
「立ち入ったりなんてしないよ。ちょっと眺めるだけさ」
「それをやめろってば」
油断していては色んなものを暴かれそうだ。僕の過去も名前も既に知れているとはいえ、だ。これ以上踏み込まれては堪らない。しかもこいつは自身の情報にちっとも立ち入らせてくれないし。
なんだかイライラしてきたところで、ぱたん、と本を閉じる音がした。
「まあ。これからもまた、よろしく頼むよ」
「一日も早く消えてくれると嬉しいんだけど……」
そう言うと彼はやっぱり笑って「難しいことを言うね」と言った。
そりゃそうだろうな。と僕も返す。
血に混じってしまった物は、時間をかけて僕と同化するか、こうして僕の中で生き続けるかのどちらかだろう。平和である内はいいけれど。この輪郭がまたはっきりしてきたら。そんな日が来たら。また何か考えなくてはならないかもしれない。
そんな日が来るのはゴメンだが。
溜息をつくと、背後から光が差した。
「おっと。もう朝かな」
「え……これ、起きたら寝た気がしないやつじゃないの?」
「そうかもね。まあ、一日頑張っておいで」
僕はそれに何も答えなかった。
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