3:これで彼女は好きなところに行けるはず。

 彼らにとって、というか幽霊というものにとって、身体とは魂が入る器なのだという。

「言ってしまえばそれ以上でも以下でもないわ」


 コップにヒビが入ったら別のコップへ中身を移せばいいように。器が朽ちても魂さえ残っていればなんとかなる。そういうことらしい。


「ティーカップにコーヒー注ぐなんて冒涜が許されないように、相性はもちろんあるんだけど。まあ、そこはどうでも良いわ。許されないけどできない訳じゃない」

 許されないけど、と彼女はもう一度念を押すように言う。

「……容れ物と中身の話はこんな所ね。それで。テオが言う匂いは……そうね。感じたことあるかしら。誰かの家で感じる、その家独自の香り。魂も同様で、人それぞれ匂いがあるわ」

 テオはそこに関して特に鼻が効くみたいなの。とノイスちゃんは言う。

「テオの場合、嗅覚っていうより感覚で察知してるのかもしれないわね。そうでもしなかったら、こんな離れた島国に居るあなたなんか見つけられなかった」

「うん……凄いね。テオの嗅覚」


 海も大陸も超えて見つけるとかどれだけだよ、と言うと、テオはあははと照れたように笑った。


「これでも随分時間がかかったんだよ。それなりに準備もしたし、この国に着いてからも結構かかった」

「まあ、理屈はわかったけど……どうして僕の匂いだって分かったの?」

「正直言うと直感だよ。あの日から俺に刻み込まれてるんだ。君の血の一部が混ざってるのかもしれない。分からないけど、君だって確信だけは妙にあるのさ」


 あそこに居たのは、俺と君と、あの女性だけだったし、とテオは言う。

 なるほど。あの女性は僕が飲み込んでしまったし、覚えてる匂いが彼女であっても、とっくに僕の一部だ。もしかしたら残り香みたいなものがあるのかもしれない。

 百年も残ってるかは疑問だけど。

「この身体になってから匂いが分かるようになって。それから色んな人の匂いを感じ取ってきたんだけど、ウィルは結構特徴的でさ。鉄と霧みたいな匂いがするんだ。あと、たまに匂いが変わる。別の匂いが混ざったり、鉄の匂いが濃くなったり」

 鉄の、と繰り返すと。そう、と頷く。

 その変化は血を飲んだ時、とかなのだろうか。

「普通は意識しないとわからないけど、ウィルのはふとした拍子に匂うんだ。どこにいるか分からないけど、確かに存在を感じる。だから探してた。そんな訳で、この匂いを辿って日本にやってきたんだけど……途中で匂いが変わったんだ」

「変わるのはよくあるんじゃないの?」

「そうなんだけど、春頃だったかなあ。いつもの比じゃない位、混ざった匂いが強くなったんだ。なんて言えば良いのかよく分からないけど……土っぽいというか。土に染み付いた血とか、呪い、みたいな酷い臭い」


 その例えに、僕はしきちゃんと顔を見合わせる。

 彼女も同じ考えらしく、少し悲しげな顔でこくりと頷いた。


 時期的にもきっとそうだ。

 僕がしきちゃんの血を吸って、違和感を感じ始めた頃。

 あの、茶色い瞳と出会った頃だ。


「その顔は心当たりあるんだね」

「さっき話しただろ。彼女の血と、その呪いのこと」

「ああ」

 そう言えばそうだった、とテオは頷く。

「それで。その匂いがね。今のウィルからは殆どしない」

「え」

「それは……」

 僕としきちゃんの声が重なる。

「うん。多分、物理的に外に排出されたのかな。今は――」

 と、台所に置いてたペットボトルを指差して「あっちからの方が、強い」と言った。

「ウィルは今血が少ないから匂いも薄いけど、もしかしたらまだ残ってるのかもしれない。もう少し時間が経って、本調子になればもっと分かると思う」

「なるほど……僕の事は分かった。で」

「うん?」

「こっちが本題だよ」

 と、しきちゃんを指す。

「彼女にその匂いはある?」

 ううん、とテオは首を横に振った。

「多少はあるけど、残り香のようだ。気をつけないと分からない位」


 僕と違ってしきちゃんに出血はほとんどない。それなのに匂いが薄いと言う事は、やっぱり僕の方にあいつの大半があったらしい。

 夢にまで出てきてあんなに喋ってくれる程だ。そりゃそうか。とも思う。

 でも、それ以上に。

「だってさ。良かったね」

 そう言ってしきちゃんの頭をそっと撫でた。


 あいつの身勝手な呪いは、彼女にほとんど残っていない。彼女の存在を己自身に縛り付ける呪いは。僕が引き受けた。ペットボトルに大半が移ったとは言え、基本的には僕の血だから、今はそんな理解でいいだろう。

 この理屈に例外がないのなら、彼女が存在できる場所は僕の近くということになるのかもしれない。それは彼女にとって良いことではない気もする。

 けど。

 くすぐったそうに撫でられてる彼女を見てると、なんか。純粋に嬉しいというか、しばらくはそれでいいのかな、という気もした。どうにかできるまで部屋を貸し続ければいいだけの話だ。


 置いといて。


「うん。テオの話を聞くに。しきちゃんの居場所は、かつての家でも、あいつを内包する自分自身でもなく、自由になった。上書きされた呪いは僕に奪われて、座敷童の能力しか残っていない……と、いいなあ」

「そうだね。あと、今はその彼女の居場所を縛ってるのはウィルである可能性があるってことくらいかな」

 テオの余計な一言に思わず手が止まる。

「……分かってるようるさいな」


 ああ、ついさっきその可能性は考えたさ。考えたとも。

 溜息をついて手を離し、座り直す。


「僕はね。ただ、この時代を平和に、穏やかに生きていきたいんだ。何事も無く過ぎていく平和な日常を謳歌したい。だから」

 ふと、言葉が切れた。

「――彼女にもそう思えるような生活をして欲しい。呪いがほとんど残っていないのなら、好きな家で座敷童をすることができるだろうしね」


 僕らにとってとても住みにくいこの時代を、人でない僕らはどうやって平和に平穏に生き抜いていくか。

 僕も。しきちゃんも。テオとノイスちゃんはどうするか分からないけれど、彼らも。人間と変わらない、普通の……体質や在り方は普通じゃないけれど、人間の生活に違和感無く溶け込めるような。そんな生き方をしたい。して欲しい。


「ね」

 念を押すようにしきちゃんに笑いかける。彼女はこくり、と小さく頷いた。


 ああ、このまま彼女はどこかへ行ってしまうのかな。

 あれ。座敷童が出て行った家は、没落するんじゃなかったっけ。

 よく分からない不安がよぎるけれど。別に僕の家は繁栄している訳でもない。慎ましく夜の世界を生きている。だからきっと大丈夫。

 うん。大丈夫。なんて言い聞かせる。


 だって、僕は彼女に一時の宿を貸しているだけ。そう。そのつもりだった。

 彼女に行く場所がないのなら、という条件だった。

 だから、出て行きたいなら。どこかへ行ってみたいなら。行ってもいい。


 これは本心のはずだ。

 なのに。寂しさを感じるのは何故だろう。


「お兄さん」

「何?」

「ボク、好きな所に行っても、良いのですか?」

「うん。多分行けると思う。あいつは僕が引き受けた。しかも今はペットボトルの中だ。あれをなんとかできたら、今度こそ君は解放されると思ってる。きっとどこへでも行けるよ」

「そう、ですか」

 彼女は視線を落として呟いた。


 次はなんと言うのだろう。どう別れを告げられるのだろう。

 分からない。頭が回らない。息が詰まりそうだ。

 テオとノイスちゃんが居ることも忘れて、僕は彼女の言葉の続きを待つ。


「それなら、ボクは。ここに。このおうちに居たいです」

「え」

 彼女は僕に向き合って正座をし、きれいに頭を下げる。

「このおうちに、お兄さんの傍に。居させてください」

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