4:吸血鬼のちょっとした説教と勧誘
――暗い意識に、何かが投げ込まれたような音がする。
手足が重い。もう少しだけ、放っておいて欲しい。
でも、その音は定期的に僕の意識に響く。
なんだろう。聞いた事がある。なんだっけ。
遠い昔? 最近?
ええと、この音……声は。
「――っ!?」
がばりと起き上がった僕の耳元で、小さく言葉を飲み込むような音がした。
反射で起き上がったものの、瞬時の覚醒は見た夢を忘れるような速度で薄れていく。
どんどんぼやけていく。
どうして起きたんだっけ。考える。
とはいえ、頭はちっとも回らない。首はどんどん下を向く。
と、足に毛布がかかっている事に気付いた。
右に視線を動かすと背もたれ。更にその向こうにはキッチンが見える。
ここはソファか、とようやく認識する。
「えっと……レポートでも、してたっけ……?」
テーブルを見るが、その上にはリモコンと数冊の本しか乗っていない。壁掛け時計に目をやる。こちこちと進む時計の針は十時が過ぎた事を示していた。カーテンの外は明るいらしく、部屋は薄暗く照らされている。
まだ午前中。僕にしては早起きな方だろう。
それで。だ。僕はなんでソファで寝ていたんだっけ。頭をがしがしと掻きながら考える。
「お、お兄さ、ん」
「ん……?」
小さな声がして、振り向く。が、そこには誰も居ない。無人の丸テーブルとキッチンがあるだけ。
だが、確かに呼ばれた。
あれ、と首を傾げると、ソファの裏からそっと小さな指が生えた。
薄暗い部屋。突然ソファの背もたれに現れた小さな指。
ひ、と声を上げそうになったのを堪える。
僕は人じゃないけれど、どっきり系の恐怖というのはどうにも苦手だ。気配もなくそっと湧いてくるのが、とても心臓に悪い。
そんな僕の目の前で、ソファの背もたれから覗くように幼い少女が顔を出した。
肩で揃えた灰色の髪。僕を見上げる赤い眼。ぶかぶかのカーディガン。
それでようやく思い出す。
数時間前に出会った彼女の事。
寝落ちしたのをそのまま連れ帰ってきた事。
そして僕はソファに沈むように寝た事。
彼女に何も、説明をしていない事。
少女の目は何か言いたそうに僕を見ている。もしや、と背筋が少し冷えた。
彼女にとって誘拐という認識なのだろうか。そうだったらどうしよう。寝落ちたからとりあえず連れてきました、ってそれで信じてもらえるだろうか。信じてもらえなくても事実なんだけど、どうしよう。通報されたらきっと一発でアウトだ。やっぱり僕の選択は間違っていたのだろうか。やめてよそういうの、僕はただ平穏に過ごしたいだけなんだって。
そんなアレやこれやの不安をとりあえず押しやって、息をつく。
「あ。ええと……」
そう言えば名前を聞いていなかった。呼べずに「君か」と誤魔化す。
「よく眠れた?」
こくりと彼女は頷く。それなら良かったと言葉を返すと、さらに頷いた。
色々と聞きたい事や話したい事はあるが、それよりも先に僕のお腹が空を訴えていた。話はご飯を食べながらでも良いだろう。
「ご飯。用意するけど……パンと目玉焼きでもいいかな?」
少女の目がぱちりと瞬きをして、固まった。
何を言われたのか分からない。そんな戸惑った顔をしている。
「……ごはん、ですか?」
少しだけ首を傾げて問い返してくる。
もしかして物を食べるという習慣がなかったのだろうか。
確かに僕達は食べなくても生きていけると思うけど。それでも物を食べるという行為は大切だ。お腹も心も満たされる。
「うん、僕は食べようと思うんだけど。君はどうかな、って」
食べる? と再度聞き返すと、戸惑った表情のままこくりと頷いた。
とりあえず彼女にソファを譲り、トーストと目玉焼きを作る。残っていた野菜と一緒に適当な皿に乗せて、テーブルへと並べる。
「できたよ。こっちおいで」
呼ぶと彼女はこっちへやってきた。椅子を示すと、遠慮がちに着席する。素直な子だ。
「よし、食べながら色々話をしよう」
そう言って二人で手を合わせて「いただきます」と食事を始める。
「そうだな、まずは自己紹介か。僕は須藤むつき。吸血鬼。生まれはイギリス。日本に来てから……そうだな、100年くらい経ったかな。今は近くの大学に通ってる」
バターを塗りながら名乗ると、彼女もトーストをそっと両手で持ち上げる。
「ボクは、しきといいます」
「しきちゃん」
確認するように繰り返すと、トーストの端をかじって頷いた。
さく、という感覚に少しだけ驚いた顔をして、そのままもぐもぐと口を動かす。なんだか嬉しそうな空気が漂うが、彼女の表情は変わらない。そのまま口の中が空になった所で言葉を続ける。
「座敷童ですから……苗字はありません」
「苗字がない。って事は、その家の苗字を使ったりするの?」
彼女は少し考えて、頷いた。
「必要な時は、そうしています」
「なるほど」
座敷童は様々な家に住み着いて過ごすという。その家の一員になるため苗字を持たないのだろう。しかも彼女は家を出てきたと言っていた。と言う事は、今現在彼女自身を示すものは「しき」の二文字。そういうことなんだと理解した。
ふんふん、と頷きながらトーストに目玉焼きを乗せてかじる。
とても簡単な物だったけど、お互いの自己紹介が終わったら、後は雑談タイムだ。
まずは率直に疑問をぶつけてみた。
「そういえばさ」
「?」
黄身が零れないように上手く傾けながら問いかけると、彼女はトーストに口をつけたまま首を傾げた。
「どうして僕に声をかけたの?」
同時にさくりとトーストを齧る音がした。
答えようとしたのか僕の方をじっと見て、それから慌てて口をもぐもぐと動かし始める。
「あ。ああ……慌てなくていいから。ゆっくりで、ね?」
このままだと喉に詰まらせかねない彼女を宥めるように飲み物をすすめる。こくこくと頷き、牛乳のコップに手を伸ばす。
そして飲み込んで一息ついた彼女は目玉焼きに視線を落として口を開く。
「前のおうちを出て、ずっとひとりでした。夜は見つかると怖いから隠れてたのですが……お兄さんなら、遊んでくれそうな気がして」
そうか。僕はそんな風に見えていたのか。夜中の公園でベンチに一人寝てる男なんて怪しい事この上ないのに、彼女は「遊んでくれそう」、つまりは、話しかけても大丈夫そうな相手だと判断した。と。
喜んでいいのか、褒めていいのか、悪いのか。
何とも言えない気持ちになりながら溜息をつく。
「あのね、しきちゃん」
「はい」
「僕だったから良かったなんて言えないし。知らない人に付いていく……のは、座敷童だから仕方ないかもしれないけど。夜の公園で突然声かけて遊んでもらうっていうのは褒められないな」
彼女は食事の手を止めてきょとんと僕を見る。
分かっていないのか、自分の目に余程自信があるのか。どちらかは分からないけど、とりあえず僕の言いたい事が伝わりきってないって事は良く分かった。
「僕の勝手な意見だけどね。種族とか、そういう括りは関係なく、せっかく現代に生きている“人外(なかま)”が減るのはなんだか寂しいんだよ。だから、できる限り自らを危険に晒したりするような事はしないで欲しい」
彼女は顔を上げて、僕の言葉を受け止める。
「僕だって吸血鬼だし、それなりに力も能力もある。それでもこの世の中広いからね、もっと力があって危ない人も居る。しきちゃんも人の世を長いこと見てきたなら分かると思うけど、それは僕達みたいな存在に限らない。人間だって例外じゃない」
だから、と言葉を続けると、彼女の口元がぐっと結ばれたのが見えた。
思わず言葉が止まる。
「……ごめん、なさい」
しゅんと俯いたしきちゃんから、小さな声が漏れた。
「ボク、もっとちゃんと気をつけます」
そう言って俯く彼女の目は、なんだか寂しそうだった。
ああもう僕はなにをしているんだろうという気分になる。彼女に、しきちゃんにそんな顔をさせたい訳じゃない。
「ああ……えっと。僕が言いたいのはね。これから君をどうこうしようとか、迷惑だとかそんなのじゃなくてね。なんて言うのかな……嬉しいからこそ、気をつけて欲しいんだ」
「え……?」
彼女の首が疑問そうに傾く。肩の力が抜けたのか、吊りスカートの紐が少しずれた。
「僕も長くこの国に居るけど、なかなかお仲間に出会う事はないんだ。出会った人達も戦争とか天災とか開発とか、そんなので散り散りになったり死んだりしてる。特にここ数十年はすっかり居場所もなくなって、息を詰めるように過ごして、同類にだって正体を明かしたりしない事も多い」
ちょっと寂しい事だよね、と口元を上げると、彼女はこくんと頷いた。
「それで、僕は今考えてる事があるんだ。ここからは僕の提案なんだけど聞いてくれるかい?」
「……はい」
何を言われるのかと不安そうに見上げる視線を誘導するように、僕は指を一つのドアへと向ける。
「今、一人暮らしで部屋が余ってて。行く場所がないなら、そこの部屋に住んでみない?」
「……」
返ってきたのは沈黙だった。
その目の色は疑問から困惑へと変化していく。
「で、でも……危ない人はダメって……」
「うん。そうだね」
思わず苦笑いした。自分で注意しといてこの提案、怪しい事この上ない。
「正直矛盾した事言ったって反省はしてる。でも、それでいい。その警戒心は大事」
トーストを皿に置くと、黄身が野菜の上へと少し流れ落ちた。
「あとは見極め。しきちゃん。きっと色んな家や人を見てきたであろう君の判断を信じて。僕が君にとって危ないか危なくないか。この家に住んでも良いかどうか」
深夜の公園で遊んでくれそうという評価はひとまず置いといて、自分から「僕は安全だ」なんて言えない。
僕は外見だけでも大学生。髪は赤く目は青い。服装や髪型から、なんか軽そうだと言われる事もある。
そもそも吸血鬼。人を襲い、恐れられてきた種族だ。
しかも一人暮らし。最近は物騒だ。部屋が空いていたからどうだ、というだけの話とはいえ、これだけの条件。自分が安全だなんて、言い切れる気がしない。
彼女も困ったようにじっと僕を見上げている。
「数時間ボールで遊んだだけの仲だしね。僕の事なんてまだまだ分からないだろうから。もう少し――そうだね、とりあえずそのご飯食べて、気の済むまで考えていいよ」
箸で野菜ごと黄身を掬い上げてパンに乗っけながら言うと、彼女は少しの間の後にこくりと頷いた。
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