第59話「遠征②」※クレメント視点
クレメントは休むことなく五階まで階段を上り、部屋に入るなり左胸を押さえた。ドクドクと強く脈打っている。
鍛えている彼の鼓動は、いつもならこの程度の運動で乱れることはない。
原因は、ヴィエラだ。
せっかく自分を警戒するよう、無防備な面を見せてくることがないよう、道化師を演じながら誘導できていたと思っていたのに――
「あれは反則でしょう」
長年想いを寄せていた可愛い女性からの、身長差が生んだやや上目遣いでのおやすみのあいさつは威力が強かった。思わず見惚れ、手に入れてしまいたいという衝動に駆られそうになってしまった。
しかし長年愛情表現を我慢し続けた体は、きちんと踏みとどまってくれた。
「良かった……僕はまだ親しい後輩でいられる」
異性として意識されてない上だけでなく、人として嫌われてしまったら最悪だった。回避できたことにひどく安堵する。
激しかった鼓動が、いつも通りに戻っていった。頭の中も冷えはじめ、クレメントは嘲笑した。
「もう手に入らないのは確定なのに、まだ諦められないなんて不毛だな」
ベッドに腰掛け、深いため息をつく。
ヴィエラの心は、ルカーシュに落ちた。
遠征で魔力切れを起こしたヴィエラが、婚約者に甘える姿を見た時点で、彼女の気持ちが傾いていることは察していた。自覚するまで時間の問題だろう、と。
なぜなら相手のルカーシュは、クレメントから見てもいい男だからだ。容姿端麗で沈着冷静。堂々とした振る舞いは仲間に安心と信頼を与えてくれる。
何より、ヴィエラが遠征先に召集されると分かったとき、ルカーシュは気に入らない自分相手にも喝を入れてくれた。冷静さを失っていることを嘲笑うことなく、魔法使いとして信頼している言葉で引き上げてくれた。
これをできる人は、なかなかいないだろう。そんなルカーシュに好意を向けられて、惚れない女性はいないと思う。
この男になら負けても当然と、この恋を諦めることができるかもしれない。そう思ったクレメントは遠征中に、ヴィエラの心をさっさと掴めとルカーシュを煽った。
結果、願い通りに失恋が確定した。遠征の帰還で、ルカーシュの腕の中で顔を赤く染めるヴィエラのそれは、恋に落ちた女の子の顔だった。
結界課の帰還は一週間ほどで、そのあとリーダーとして魔法局への報告会に一週間ほど参加してから一週間の休暇がもらえる。個人で取得した休暇も加えれば、最長で一か月はヴィエラと顔を会わせずに済むと計算していた。
その間に気持ちを整理して、父親であるバルテル侯爵に新しい婚約者候補でも見繕ってもらおうと思いながら休暇に入ったところ……嫌な予感が当たった。
「昨夜、ヴィエラ様と夜会でお会いしたけれど、本当に無垢で可愛らしい子だったわ。しかも魔法の才能も完璧。今度アンブロッシュ家に、あの令嬢を譲って欲しいとお願いしに行こうと思うの。クレメントも一緒にどう? ヴィエラ様が欲しいのでしょう?」
祖母セレスティアにそう誘われた孫の心情を表すのに、『最悪』以外の言葉はなかった。
欲しいときには無下にし、諦めようとしたらちょっかいを出してくる。すべて、手遅れのタイミングで……。
今回も恋を諦めるためにヴィエラのことを頭から追い出して、それに慣れ始めてきたときにかき乱してきた。
内心で舌打ちをしながらクレメントは祖母に笑みを返した。
「ヴィエラ嬢はルカーシュさんの婚約者ですよ。情に厚いアンブロッシュ家が一度手に入れた令嬢を、簡単に手放すとは思えませんが。それに英雄とはいえ、一度他の男のものになったおさがりなんて嫌ですね。僕はもう興味がありません」
本当は手に入れられるのなら欲しい。今から奪えるのなら奪いたい――そんな本音を飲み込んで、嘘を吐く。
他人に気持ちが向いている状態のヴィエラを手に入れても虚しいだけだ。幸せを壊されたら、優しいヴィエラでもきっとクレメントを憎むだろう。
このまま祖母セレスティアには引き下がって欲しいと願うが、相手は社交の熟練者だ。笑みがまったく崩れない。
「魔法が大好きなクレメントが、魔法の才能を持っている子を簡単に諦められるはずないと思うのだけれど……ふふ、とにかくアンブロッシュ家に利益がある話を持っていくわ。うまく話がまとまったら、そのときはヴィエラ様を受け入れてね」
セレスティアの、他人の気持ちを才能や血統で判断する思考は変わらないようだ。高位貴族のアンブロッシュ家も同じだと信じている。もう何を言っても意味がないと、クレメントは諦めていた。
祖母セレスティアを止められる人間は、バルテル家の中にはいない。
幸いにもアンブロッシュ公爵家は家庭の事情を察しているのか、バルテル家そのものではなくセレスティアのみをうまく御してくれている。
「僕が爵位を継いだら、いずれアンブロッシュ家に何か詫びとお礼をしないとなぁ」
クレメントがこう思うことを織り込み済みで、アンブロッシュ家は動いているのだろう。
「ほんと……こんな家に嫁ぐことになるより、ヴィエラ先輩はルカーシュさんと結ばれて良かったんだ。アンブロッシュ公爵夫妻も良い方だし……ユーベルト領は静かで平和だ。僕が諦めた方が、先輩は幸せになるはずだ」
そう瞼を閉じながら自分に言い聞かせ、片思いに区切りをつけようと試みる。
けれどすぐに先ほどの「おやすみさない」と言いながら微笑むヴィエラの姿が脳裏に浮かんだ。
「~~っ、これが一週間だって!?」
カッと目を見開いて、赤い髪を両手でかき乱した。これは拷問か何かなのかと、誰かに怒りを向けたくなる。
「本当、どうやって諦めれば良いんだよ。思い切って告白して玉砕するべきなのだろうか? でもヴィエラ先輩を困らせるだけの自己満足で終わりそうだし……もう後輩扱いしてくれなくなるだろうし……つら……そもそも予想通りに振られたところで諦められる気がしないし……もしかして、ふたりが入籍するまで僕はこのままなのか?」
さすがに正式に結婚したら、あきらめがつく予感はしている。ヴィエラとルカーシュは法でも結ばれ、遠いユーベルト領に引っ越す。物理的にも遠い存在になれば関わることも減り、気持ちも薄れるだろう。
逆を言えば、今のように近いところにいる間は無理ということだ。
「こうなったら今はヴィエラ先輩との遠征生活を楽しんでやる」
そう開き直って翌朝、クレメントはロビーでヴィエラの姿を探した。
昼食は実験施設でお弁当と決まっているが、朝食と夕食はホテルのレストランで各自自由となっている。一緒に食べようと、彼女を待っていたのだ。
しかし、ヴィエラはなかなか現れない。自分まで集合時間に遅れるわけにもいかず、先に朝食をとり始めるが、最後まで見つからなかった。
そして集合時間の直前になっても、彼女はロビーに来ない。
「僕、ヴィエラ先輩を呼びに行ってみます!」
待ちきれなくなったクレメントは、昨夜見た鍵の番号を頼りに部屋へと向かった。
(先輩は集合時間に余裕をもって来るタイプだ。どんなに徹夜をしても寝坊したこともないのに……おかしい)
昨日のヴィエラは後頭部を撫でる仕草が多かったくらいで、とても元気な様子だった。体調不良の可能性は低い。
夕食後、朝食の予告メニューが書かれた看板を見て顔を緩ませていたため、朝食を抜くとは思えない。
クレメントは部屋の前に着くなり、強めにノックした。
「ヴィエラ先輩、おはようございます! 朝ですよ! 先輩!」
何度もノックして、名前を呼んでみるが返事がない。扉に耳を当ててみるが、水の音は聞こえない。シャワーを浴びていて気付いてない、というわけでもない。
「ヴィエラ先輩? 返事をしてください!」
返ってくるのは、静寂。
クレメントの背筋に、冷や汗が流れる。
まさか……と引き寄せられるようにドアノブに手をかけた。カチャリ、と音を立ててロックが外れる音がする。そのまま奥に押すと扉が動いた。
鍵がかかっていない。
「……ヴィエラ……先輩?」
クレメントはゆっくりと扉を開き、部屋の様子に呆然とした。
椅子は倒れ、寝具はめちゃくちゃに乱れ、鞄の中身がぶちまけられていた。争った形跡が生々しく残されている。
「どこですか……ヴィエラ先輩!」
そうクレメントが叫んだが、どこにもヴィエラの姿はなかった。
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