第41話

「最後に一つ教えてもらってもいいかな」

「構わないよ。もっとも、きみはもう自分で答えを知っているんじゃないのかい」


「自分のいる世界の正しさは自分では証明できないからね。……つまり、僕にとってこれは夢だ。だけど君達にとっては違うんだね?」

「その通り。ぼく達にとってここは現実だ。それこそ言葉で証明することは不可能だけれど、しかし」


 陸はホームズを遮った。

「空、お願いがある」

「はい」

 空はベッドに上がり、陸の正面で膝を揃えた。


「僕に電話を掛けてほしい」

「電話?」

「空の携帯からなら絶対に気付けるようになっている。マナーモードでも、近くにいなくても……それから、眠っていても」

「ちょっと待って」


 空は自分の机のところまで移動して、置いてあった携帯電話を取り上げた。ほとんど通話機能だけに特化してあるような小型の機種だ。

 番号は登録済みなのだろう、ボタンを二度押しただけで顔の横にあてがう。


 一秒、二秒、誰かに肩を叩かれたみたいに陸が体を震わせた。

 三秒、四秒、陸と空の視線が重なって。

 五秒、大丈夫だよ、というふうに空が笑い。

 六秒、陸は笑い返した。


 それはまるで空に光が射したように美しくて。

 この人は本当に空のお兄さんなんだ。洋子は心底から実感できた。

 七秒、陸は消えた。


「お兄ちゃん?」

 空が呼び掛ける。この場所にいない相手へ。

「うん、わたし――元気だよ、ありがとう。お兄ちゃんは?――そうなんだ。あんまり無理しないで大変だったらちゃんと休んでね――うん、いるよ。ホームズちゃんも、ワトソン博士も、洋子ちゃんも始ちゃんも、それから――」

 空はベッドの方を振り返った。正気に返ったらしい遊佐がふわりと手を上げる。


「綾香ちゃんも。なんともないみたい――うん、言っておく。あ、待って、お兄ちゃん、あのね、わたし……ごめんなさい。お兄ちゃんがそんなに辛いんだって気付いてあげられなくて――」

 空は悪くない。洋子は思った。きっと、向こうにいる人も。


「――ううん、ほんとはわたしも寂しかったの。だけどお兄ちゃんはお仕事だから、わがまま言っちゃいけないって思って――それで、わたし」

 空には自然な決断だったのだろう。


「お兄ちゃんがよければ、いつだってそっちに帰る」

 洋子は下を向いた。


「ずっと傍にいる。お嫁さんにもなるよ。籍は入れられないだろうし、赤ちゃんを作るのは慎重にした方がいいかなって思うけど、でもお兄ちゃんが欲しいって言ってくれるなら、わたしも頑張る」


 超噎せた。ジュースでも飲んでいる最中だったら毒霧みたいに部屋中に噴き散らしていたに違いない。


 仰天したのはもちろん洋子一人ではなかった。先坂はまるで発作をこらえるみたいに胸を抑え、ワトソンは「え、いや、さすがにそれは、しかし、せめて義理なら」などとたわ言を垂れ流し、ホームズさえ開いた口が塞がらないという態で絶句する。そしてなぜか遊佐が身を二つ折にして笑い悶えていた。何が壺にはまったのかは皆目見当もつかなかったが、遊佐がこんなにうけているところを見るのは初めてだ。


 そして彼方の相手にとっても、空の言葉は想像の範囲を五光年ぐらいはみ出していたらしい。洋子に劣らず咳き込んでいるのが携帯のスピーカーから洩れ聞こえた。


「お兄ちゃん大丈夫!?――うん、本気だよ。だってわたしお兄ちゃんのこと大好きだもん。空が傍にいるとお兄ちゃんが幸せになってくれるなら、わたしはそうしたい」

 受け止め、落ち着き、考える。次の会話が始まるまでに沈黙の時間が挟まれた。


「――うん、だって前の学校の友達にも会いたいし……え」

 空は息を止めたようだった。

 洋子もだ。 

 空の瞳が潤んでいる。


「ううん、離れたくない」

 震える声で首を振った。

「まだこっちにいたい。せっかく仲良くなれたんだから。もっともっと一緒にいたい……」

 空がこっちを向いた。


「……いても、いい?」

「当り前でしょ!」

 洋子は空に飛びついた。マシュマロみたいに柔らかい体を力いっぱい抱きすくめる。


「空はずっとここにいていいの。いなくちゃ駄目なの。あたしの……あたし達の場所に!」

 頬にくちづけをして、流れる涙を掬い取る。

「うん――ありがとうお兄ちゃん」

 ここではないどこかと繋がっていた不可視の線を、空は愛おしむように断ち切った。


     *  *  *


「まったく、どうしてこんなに遠いのかしら。嫌になっちゃうわ」

 先坂が不平を鳴らす。今日は授業は午前中だけだったので、掃除の時間もまだお昼前だ。九月下旬に入っても残暑は残り、陽光は強烈だった。


「そうだね。ちょっとだけ大変だね」

 一つのゴミ箱を間に挟み、先坂と反対の縁を持った空が言う。

「だけどわたしはお散歩してるみたいで楽しいな。始ちゃんも一緒だし」

「それは……うん」

 下を向いた先坂の口元がひそかに緩む。


「だけどどうせすぐに飽きるでしょうね。初めのうちは広くて新鮮に感じるかもしれないけど、通る道なんて決まってるし、結局毎日同じ景色を見続けるだけなんだから。そろそろ別の場所に行きたいなって、この頃思う」

 空はいきなり足を止めた。ゴミ箱の片側が前に進まなくなったせいで先坂はつんのめる。


「い、今のは違うの!」

 先坂は慌ただしく振り返った。

「私は長くいるからそう感じるってだけで、空さんといるのが楽しくないってことじゃないから!」


「ねえ始ちゃん、別の場所に行きたいんなら」

 空はゴミ箱を離すと、代わりに先坂の手を握った。

「こうすればいいんだよ」

 舗道の外に足を踏み出す。先坂はすぐには後を追わず、ためらうように尋ねる。


「でもどこに行くの? たぶんそっちには何もないわ」

 空はふわりと笑った。

「どこへでも。わたし達の行きたいところに」


 その後揃って迷子になった挙句、日も傾き始めた頃になってようやくホームズとワトソンに見付けてもらった二人は、戻ってからさんざん洋子に説教されたのだった。

(了)

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