第39話

「……絵が喋った?」

 ホームズを見た逢田あいだ兄はひどく驚いた顔をした。


「AIか? いやまさか、アバターの類だろう。……まあ気にしても仕方がない。どうせ夢だ。ネットに住まうロアだとしても文句はない。それで美しいお嬢さん、今のはどういう意味なんだろう。憑坐よりましの中に入れていない、というのは?」


「ロア、確かヴードゥーの精霊だったね。成程」

 ホームズは興味深そうに頷いた。


「はじめまして。そらくんのお兄さんだね。きみの質問には後ほどお答えするよ。名前を聞いても?」

「逢田りくだ」


「陸くんか。よろしく。ぼくはホームズだ。もしよかったらホームズちゃんと呼んでくれたまえ」

 ホームズが自己紹介する。人によってはふざけるなと怒り出しそうだが、陸は納得したようだった。


「ずいぶん洒落た格好をしていると思ったら、シャーロック・ホームズか。あなたの趣味ですか?」

 タブレットを抱えたワトソンに尋ねる。


「本人の意思だ」

 ワトソンは素っ気なく答える。

「本人というのはそのアバター、いやホームズちゃんのことですか」

 陸は問いを重ねたが、ホームズが割って入った。


「ぼくのことはいいさ。それより話を先に進めてもいいかな」

「ああ失礼。どうぞ」

「ありがとう。ではまず状況の確認だけど、きみは現実の存在としてこの場所にいるわけではない。それはいいね?」

 陸は少し考えた。

「それは哲学的な命題なのかな。現存在がどうとかいうような」


「いいや。ごく一般的な意味においてだ」

「ならば答えはイエスだ。僕がこんなところにいるはずがない。本物の僕は今頃……どうだろう。ちゃんと許可を貰って仮眠室にいるならいいが、また自席で船を漕いでいるとかだったらまずいな。あとで絶対主任にねちねち言われる」


 陸がこぼした。その身を透かして眠っているように見える遊佐ゆさが中にいるのはなかなかにシュールな絵面だ。


「きみは今夢の中にいる。結構。それについてぼく達の見解は一致している。ところできみは『また』と言ったね。こうしたことは以前にもあったということかな」


「九月に異動になって、新しいプロジェクトに入ってからめちゃくちゃに忙しくて夜まともに家で寝てないんだ。ぼうっとして自分が別の場所にいるような感じがすることは何度かあった。さすがにこういうふうに意識のはっきりした明晰夢みたいなのは初めてだが」


「別の場所というのは?」

 陸は答えることをためらった。ホームズは気安い調子で促した。

「隠すことはないさ。どうせきみには夢の中だ。旅の恥よりもっと掻き捨て易い。……きみがいたのは空くんのところだね」

 ずばりと切り込む。陸は頬を張られたように妹の方に顔を向けた。


「……確かに、いつも空の傍にいた。学校や通学路、空の部屋や風呂場」

 風呂場!?

 洋子ようこの闘争本能が瞬時にたぎる。しかしどうやったら生き霊をぶん殴れるのか分らない。それに空は未だに兄妹で一緒に入っているようなことを言っていた。ひとまず制裁は保留する。


「そうしてきみは夢であるのをいいことに空くんの体を揉んだり吸ったり嘗めたり思うさま味わったというわけだ」

「そんなことはしていない!」


「していない?」

 声を荒げて否定する陸に、ホームズはさも意外なことを耳にしたというように聞き返した。


「夢の中で何をしようときみは全く自由なのに? 裁くべき法律も、守るべき倫理も、白い目で見る世間もない。空くんだってきみが相手なら拒否はしない。そうだろう?」

 まるで今日朝ご飯を食べましたか、と尋ねられたみたいに空は頷いた。


 洋子は血が出そうなほど唇を噛み締めた。空がブラコンなのは分っていたがここまで重症だったとは。なんとしてもあたしがこっちの道に引き入れてあげないと。

 それがどっちの道なのかは洋子自身にも定かではない。


「なぜ空くんともっと仲良くしようとしなかったんだい?」

 まるで責めているみたいに問う。陸の顔が歪んだ。

「……できなかったからだ」

「なぜ」


「あれをしようとかこうしたいとかはっきり考えられる状態じゃなかった。そもそも物に触れることもできなかった。空も僕がいることには気付かなくて……漠然と感じているような時もあったが、それで喜ぶどころかかえって不安そうにしていた。夜、空が眠っている間はまた違っていた気もする。だけどそういう場合は僕の方の意識もいつにも増して曖昧だったから、正直ほとんど覚えてない」


「しかしきみはここ三日ほどの間にそれまでとは違うタイプの経験をした」

「そう……なぜ知っているんだ?」

「推理しただけだよ。ぼくは探偵だからね」

 ホームズは澄まして答える。

「話を続けてくれたまえ」


「おとといの朝のことだ。徹夜明けの僕は職場で茫然としていた。空が急に地方の学校に行くことになったという知らせを留守電で聞いたんだ。週百二十時間以上働いたおかげで、その日はようやく代休を取れることになっていた。ケーキでも買って帰ってまずは一眠りしよう。そして空が学校から戻ったら一緒に食べるんだ。その後もずっと一緒に過ごして、できる限り空分を補給しよう。そう思っていた。なのに空はもう家にいないっていうんだ……」

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