第33話

「理事長先生が知ってる……あたし達のこと」

 洋子はひどく狼狽えた。


「そんな、どうしよう、刈谷先生にも変なふうに言われてるのに、このうえ理事長先生にまで誤解されたら……不健全だって処分されて、学院にいられなくなっちゃう。空と引き離されちゃうよ!」


 空には理解が難しかったが、洋子は本気で動揺しているようだった。というかほとんど度を失っている。


「なに、心配することはない。そのためにぼく達がここにいるんだ」

 ホームズが力強く宣言する。

「どういうことですか?」

 遊佐が尋ねる。


「ぼく達は理事長の依頼を受けて来た。きみ達が直面している問題を解決し、平穏な日常に帰れるようにするためにね。空くん、姫木くん、先坂くんの三人はもちろん協力してくれるだろう。事実を偽らず正直に打ち明けてくれるなら、きっといい結果になると保証しよう。ぼくの言葉だけでは信用できないというなら、ワトソン」


 ワトソンは無言で頷くと、タブレットを片手持ちしてポケットから三つ折にされた便箋を取り出した。


「どうぞ」

「あ、はい」

 遊佐は便箋を受け取り、さっと目を走らせた。「へえ」と小さく嘆声を発し、先坂へ回す。先坂は何度か繰り返して文面を追ってから、未だ落ち着かない様子の洋子に渡した。洋子は便箋とワトソンを見比べて「本当に?」と呟いた。


「空」

「ありがとう」

 ようやく空の番が回ってくる。万年筆っぽい手書きの文字は少し崩してあったが十分に読み易い。


“学院初等科内にて近来発生している不祥事に関し、調査及び事後処置の全権を当学院常勤職員和藤尊悟に委ねる。逢田空、先坂始、姫木洋子、以上三名は謹んでその指示に従うべきこと。

 私立凛英女子学院理事長 和藤尊武“


 署名の脇には大きな四角い印鑑が捺されて、今日の日付が記載されている。

 筆跡も印影も空の初めて見るものだったが、本物であることは一瞬たりとも疑わなかった。風格と威厳が滲み出ているかのようだ。


「それでわたし達はどうすればいいですか?」

 不祥事というのはいまいちぴんと来なかったが、たぶん自分が一番の当事者であるはずだ。ワトソンに便箋を返しながら空は尋ねた。


 ホームズは顎に手をやった。

「そうだね、まずは場所を変えようか。ここでは目立ちすぎるし、犯人の駆り出しにも向いていない」


「博士のお家?」

「嫌よあんなとこ」

 ワトソンやホームズが答えるより先に洋子が拒否する。


「でも和藤さんには理事長先生の全権委任があるわけだし」

 遊佐が指摘するが、洋子は譲らない。


「だからってあそこじゃ何かあった時に助けも呼べないじゃない。もし閉じ込められたらどうするの? そのうち誰か気付いてくれるとしても、一時間かそこらあれば取り返しのつかないことになるには長過ぎるわ」


「では先坂くんの部屋はどうかな。余計な手間も省ける」

「私の部屋、ですか」

 先坂は明らかに嬉しくなさそうだった。


 物言いたげに空を見やる。だが空にはその意味するところは分らない。結局、先坂が挙げたのは空とは関係のない事情だった。


「だけど同じ部屋の子になんて説明すればいいのか」

 確かに空達同級生だけならばまだしも、ワトソンやホームズまで訪れたら何事かと思うだろう。


「あの、和藤さんっている必要あるんですか?」

 遊佐が聞きようによっては心を抉るようなことを尋ねた。

「その機械だけ持っていって、後はカメラとマイクを繋いで外から遣り取りするみたいなことができれば用は足りると思いますけど」


 洋子が即座に賛成する。

「それいい。いくらワトソンだってそれなら変な真似できないだろうし。さすが綾香」


「合理的な提案に思えるね」

 ホームズも感心したふうだった。

「だが残念ながら不可能だ」


「どうしてよ」

「語り手のいないところに物語は成立しないものだから」

「意味分んない。でもどうせ適当に難しいっぽいこと言ってごまかしてるだけで、ただみんなと一緒に部屋に入りたいだけなんでしょ、この変態」


「そうじゃないさ。といってももちろんワトソンの変態性を否定したわけじゃないがね。彼はまごうことなき変態だよ。前にも言った通り」

「おいホームズ」


「致命的なのは、彼の感知できる範囲にいないとぼくは上手く形を保てないということだ。従って正しく機能することもできない。さらに手続上の問題もある。理事長が委任状を与えたのはワトソンであってぼくではない。責任者が不在では処置の公正さに疑問を残す」

 理屈はともかく、ワトソンの立会が必須らしいということは空にも分った。


「えっと、わたしのお部屋じゃ駄目ですか。洋子ちゃんも一緒だし、隣の美緒ちゃんと奈美ちゃんにはこっちに来ないように言っておけばちゃんと聞いてくれると思うし。ね、いいよね洋子ちゃん?」


「……他にないんだったら、しょうがないけど」

 洋子はワトソンの白衣のポケットから覗いている便箋に目を向けた。理事長の命がある以上どこかでは従わなければならない。いかにも気乗り薄な洋子に、遊佐が助け舟を出す。


「もしよければ私も一緒に行くけど」

「ほんと?」

 洋子は遊佐の手を取らんばかりに喜んだ。


「綾香がいてくれたら心強いわ。空は訊くまでもないとして、先坂さんもいいよね」

 先坂は少し考えた後に同意する。

「そうね。遊佐さんなら他の人に余計なこと喋ったりもしないだろうし。反対はしないわ」


「和藤さんもいいですか?」

「もちろん。願ってもない。そうだろうワトソン」

「助かる」

 返答は短かったが、それがかえって真情を表しているようだった。

 ホームズは右足を引いて、胸に左手を当てた姿勢で一礼した。


「遊佐綾香嬢の厚意に感謝を。後で少し変わった体験をすることになると思うが、きみは落ち着いてじっとしていてくれればいい。それで級友三人の悩みの種を払うことができる」


「私にそんな癒し効果みたいなことを期待されても……」

 遊佐は珍しく困惑したふうに言うと、長い髪を後ろに払った。

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