第26話
「あれ、二人ともまだいたんだ」
遊佐が早くも上がってきた。まだ五分ぐらいしか経ってない。だが長い髪はしっとりと湿っていて、体からは石鹸の香も漂っている。
「パンツなんか握り締めてどうしたの。今から手洗いでもするの?」
遊佐はたぶん冗談で言ったのだろう。だが案外いい考えであるような気がした。
「そうしようかな。新しい方も勝手に触っちゃったし。空は先に部屋に戻ってて。お風呂場で洗ってくるから」
だが空は受け入れなかった。
「洋子ちゃん、洗濯ならわたし自分でやるよ」
「そう。じゃあ、はい」
洋子はすぐにパンツを返した。もしかすると空はこの場でズボンを脱いでパンツをはこうとするのではないかと思ったが、今回は一般常識が勝利を収めた。
階段の所で遊佐と別れ、空と並んで廊下を歩く。そろそろ消灯時間が近く、他の子の姿は見られない。皆がもう寝てしまったわけもないだろうが、居室で騒ぐ声も聞こえなかった。いつもの通りの静かな夜だ。
一階の東端、112号室の前まで来ると洋子は尻ポケットから鍵を出してドアに差した。今までは長期休暇で実家に帰省する時(といっても同じ
中に入り、まずざっと室内を見回す。特に異常はない。窓の鍵も掛かったままだ。隣室に通じるドアを控えめにノックする。
「どう?」
囁き声で尋ねる。
「別に。何もない」
素っ気なく美緒は答える。朝のことをまだ根に持っているらしい。
「あんまり頑張り過ぎないようにね。適当なところで寝なよ。もし何かあったらいつでもこっちに来ていいから。じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
静かにドアを閉じる。空はもう新しいパンツをはき終えたらしい。古い方は洗濯物入れの中でいっときの眠りにつく。
部屋に戻ってからもまだ空とは話ができていなかった。洋子がパンツを「盗もうとした」ことを空が怒っているから、ではない。洋子の気が重いからだ。いっそさっさと寝てしまおうか。一晩経てば少しは頭もすっきりすると思うし。
だけど駄目だ。
「空、こっちに来て」
ベッドの上で一緒に寝っ転がってお話という誘惑を振り払い、洋子は勉強机の椅子に腰掛けた。
「なあに?」
空が目をしょぼつかせながら寄って来る。相当眠いらしい。
「あんたも座って」
「うん」
空は洋子の言葉に従った。太腿の上に得も言われぬ柔らかな重みが加わり、肩に腕が回される。
「これでいい?」
洋子より少し高い位置からとろりとした声が降ってくる。
「……どこに座ってるのよ」
軽く失神しかかった意識を洋子はどうにか立て直す。
「洋子ちゃんのお膝の上」
洋子に跨った空が体を密着させるようにしなだれかかる。やばい。この体勢は大変危険だ。前に寮で回し見した雑誌の特集記事に載っていた図が頭を過る。これじゃまるで座位、いやいや。あたしは女の子だし当然あれも付いてないからそれは無理、いやいやいや。
洋子は空の匂いを胸いっぱいに吸い込みかけて、脳が途中で溶け出しそうになったので横隔膜の稼働を強制的に停止した。
「空、いけないことになるから早くどいて! あ、いけないことっていうのは、もちろん転んで怪我しちゃうかもって意味だから。勘違いしないように」
「あ、ごめんなさい。重かったよね」
空は洋子の前の床に座り直した。
自分の椅子持ってくればいいじゃない、と言おうとした洋子の膝に空が頭を乗せる。うん、やっぱり本人の意思を尊重しよう。
「ねえ空、あんたあたしに訊きたいことがあるよね」
空の髪を撫でながら洋子は思い切って口を開いた。
「うん、いっぱいあるよ」
寝言みたいにもごもごと空は答える。
「音楽の趣味とか、好きな男の子のタイプとか、感動した映画とか、お胸は気持ちいいかとか、得意な科目とか、好きな女の子は誰かとか、○○○○○○の回数とか、お料理のレパートリーとか、ご家族のこととか、あと」
「待って空、ちょっとストップ」
一瞬空が考えた隙を捉えて割り込む。
「そんなの別に今じゃなくたっていいでしょ。これからだんだん知っていけば」
放送コードに抵触する不適切な質問が幾つか混ざっていた気もするが、今は措く。
「さっきのことだけど、あたしはほんとに空のパンツを取るつもりなんてなかったし、そんなことをした覚えもないの。あんなにはっきりした証拠があるのに何言ってんだ、って思われるかもしれないけど……」
「うん、洋子ちゃん」
猫が匂いつけをするみたいに、空は洋子の太腿にすり寄った。
「あ、空!」
洋子は吐息を洩らした。うっとりと細めた目に涙が滲みかける。
空はあたしを信じてくれる。それだけで怖いものなんて何もない。たとえ相手が幽霊だろうと超能力者だろうと、空におかしなちょっかいを出す奴がいればあたしが潰す。
「洋子ちゃん、普通の白いのしか持ってないもんね。たまには可愛いやつも付けてみたいよね。空のパンツならいつでもはいていいからね」
きっとそれは親愛の一つの形。
でも違うから、空。気持ちは嬉しいけど、そうじゃないから。
だが洋子はそれ以上言うのをあきらめた。空は既に寝息を立てていた。
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