第17話

 あれ?

 キャンバス地の手提げ袋の中を見てそらは首を傾げた。体操服の下がない。確かに入れてきたはずなのに。なにしろ今朝のことだ。ちゃんと憶えている。

 というか実は空の頭からはすっかり抜けていたのだが、洋子ようこが注意してくれたので用意することができたのだ。


 下だけ入れ忘れたのだろうか。可能性は低いと思う。準備するところを洋子も傍で見ていた。そんなミスがあれば気付いたはずだ。ではどこかで落とした。絶対ないとはいえないが、ちょっと考えにくい。途中で転んでもいないし、歩きながら鞄を振り回したわけでもない。


「空、早く着替えなって。遅れるよ」

 下半身パンツのまま悩んでいると、洋子が近くにやって来て言った。

「ねえ洋子ちゃん、やっぱり体育って短パンはかないと駄目かな」


「んーっと、スカートのままじゃ駄目かって意味? それはそうでしょ。動きにくいし、汚れるし」

 洋子の答えは空の意図とはずれていたが、いずれにしろ無い袖は振れぬ、ならぬ無い短パンははけない。


「どうしたのよ」

 洋子も何か変だと気付いたらしい。空の手提げの中を覗き込む。

「もしかして、ないの? だって朝ちゃんと入れたじゃない」


「そうだよね。不思議」

「不思議、で済んだら魔法少女はいらないわよ」

 洋子は怒ったように言った。


「ごめん」

「あたしに謝ったってしょうがないし」

「うん、ちょっと恥ずかしいけど、今日はパンツでやるよ」

「却下。見学にしなさい」


 さすがに空も強いてやるとは言わなかった。いくら周りにいるのが女子ばかりとはいえ、屋外で下はパンツ一枚きりという格好が余り一般的でないということぐらい弁えている。


「体育やりたかったな」

 体を動かすのは好きだし、転校して初めての機会なのでなおさら参加したかった。

「またすぐあさってあるから」

 洋子が慰めの言葉を口にする。


「使う?」

 すらりと背の高い少女が空にジャージのズボンを差し出した。

 遊佐ゆさ綾香あやかだ。氷細工のような繊細な顔立ちに、細くて長い足を黒いストッキングに包んでいるのが印象的だ。まだ九月なのに暑くないのかなと空は些か気になっていた。もっとも今は体育のために白いハイソックスに履き替えている。


「綾香? だってあんた……」

 洋子が驚いたように言うと、遊佐は淡白に頷いた。

「いいの。いつまでも隠してるつもりはなかったし、ちょうどいいきっかけだわ」


 空はジャージを受け取った。遊佐は他の子より長めの、膝下丈のスカートを脱いだ。既に短パンは着用済みで、裾から伸びた素足は左の腿から下が赤黒く変色していた。火傷の痕か何かだろう。

 洋子が早口になって言う。


「あのさ綾香、よかったら空には短パン貸してあげてくれないかな。ジャージは綾香がはけばいいよ」

「私は平気だから。逢田あいださんが使って。人の服を着るのは気持ちが悪い、とかじゃなければだけど」

 もちろんそういうつまらないことを感じる神経は空にはない。


「ありがとう綾香ちゃん」

 礼を言った後で、遅まきながら確認する。

「えっと、綾香ちゃんって呼んでもいい?」

「はい?」


「やっぱり駄目かな。はじめちゃんにも呼ぶなって怒られちゃったし」

「言ってる傍から呼んでるじゃない」

「わ、そうだった。始ちゃん、じゃない、先坂さきさかさんには内緒にしてね」

 小波が立つように遊佐は笑った。


「いいわ、黙っておく。それと私のことは好きに呼んでいいわよ。これからよろしくね、逢田さん」

 先に着替えを済ませた遊佐は、空達を待たずに教室を後にする。

「どういう心境の変化だろ」

「何が?」

 尋ねた空のことを、洋子はまるで珍獣か何かのように眺めた。


「でも意外と綾香には空みたいな子が合ってるのかもね。そしてあんたはさっさと支度する。せっかく貸してもらったのに遅刻したら悪いじゃない」

 空は急いでジャージをはいた。

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