第13話

 そんなことあるわけない、とは思う。だがあり得ないというなら窓もドアも開けずに人間が部屋から消えてしまうことだって同じくらいあり得ない。

 もっとも、窓は確かに閉まっていたが鍵は掛かっていなかった。だから物理的な出入りは可能だったことになる。廊下側のドアも同様だ。洋子は改めて両方とも施錠した。これでこの部屋は一応密室になった。


 調べるべきところはまだ残っていた。二つのクローゼットを開ける。中には誰もいない。次はさっきまで自分が寝ていたベッドの上段だ。もし本当に誰か潜んでいて、覗き込んだ途端に目が合ったりしたら梯子から転げ落ちかねない。まずは離れたところから眺めてみて、一応大丈夫そうだと当りを付けてから、ようやく実際に昇って確かめた。結果、問題なし。


 これでできることは全部やった。怪人が消え失せてしまったのは謎だが、洋子が目を瞑った一瞬の隙をついてドアなり窓なりから抜け出したのだと考えられないこともない。部屋は暗かったし、洋子は動転していた。可能性はある。


 というか他の可能性は思いつかない。

 もしこれで再び出現したら、もはや“怪しい人”などというレベルではない。“怪かし”そのものだ。


 今夜はずっと起きていることにしよう。別に幽霊が怖いとかじゃない。美緒と奈美のことも心配だし、不審者(そうだ、幽霊だの化物だのじゃない。あくまで不審者だ!)が戻って来ないとも限らない。ドアも窓も大人が本気になればいくらだって破れるだろう。


 部屋の電気は消さなかった。だってやっぱり怖いし――いやいや怖くなんかない。あくまで用心のためだ。眠るには眩しいが、空はもう熟睡しているし、洋子には眠るつもりがないのだから問題ない。

 とはいえ明日も学校がある。体だけでも休めておかないと。


「おやすみ、空」

 幸せそうな寝顔にくちづけして、その二秒後、自分が何をしたのかに気付いて洋子は沸騰した。逃げ出すように梯子を伝い昇って自分の寝床に転げ込む。


 まさか起きてたりしてなかったよね?

 黙っていればきっとばれはしないはず。でも本当にそれでいいのか。つき合っているわけでもない相手に眠っている間に勝手にキスするなんてセクハラどころか犯罪だ。


 例えば想像してみるといい。もし意識がないのをいいことにワトソンが洋子にそんな真似をしたとしたら。

 唇に蕁麻疹ができそうだ。


 でももし相手が空だったら。うん、全然許せる。むしろ嬉しい。幸せな夢を見れそうだ。これから毎日同じ部屋で寝られるなんて夢みたいだ。夢かな。

 初夜こそおかしなことになってしまったものの、これからいくらだってチャンスはある。いったい何のチャンスなのかはともかくとして。


「楽しみだね、空」

「うん、洋子ちゃん」

 ありありと空の声が聞こえた。


「だけど何が?」

「何ってそれは……」

 洋子はぼんやりと身を起こした。

「おはよう、洋子ちゃん」

 顔を向けると、パジャマ姿の空がこちらを見上げていた。


「もう目覚まし止めちゃってもいいよね」

 控えめな音量でアラームの電子音が鳴っている。

「あたし寝てた?」

 窓のカーテンは閉まっているが、外が明るくなっているのは分った。


「違うの?」

 空が問い返す。昨晩洋子が見た悩ましげな、いや苦しげな面影はどこにもない。ひょっとすると全部が洋子の夢だったのではないか。そんな気がしてくる。

 洋子は自分の両頬を平手ではたくと、梯子を伝ってベッドを降りた。


「空、変なこと訊くけど」

「なあに?」

 着替えを始めた空に尋ねる。思わず視線を向けると、ズボンの下にはちゃんとパンツをはいていた。ちょっとがっかり、ではなく安心する。


「昨日の夜、誰かに襲われたりしなかった? 例えばワトソンとかに」

 スカートのファスナーを上げる途中で空は凍り付いたように動きを止めた。ひどく思い詰めた表情でひたぶるに手元を凝視する。


 失敗した。洋子は自分に舌打ちしたくなった。あれはやはり実際にあったことだったのだ。あるいは空には半分夢の中の出来事だったのかもしれないが、それでも心の奥に記憶は残っていて、洋子はその時の恐怖を不用意に呼び覚ましてしまったのだ。


「ごめんいいの、無理に思い出さなくても!」

 空を落ち着かせようとして腕に触れる。

「あっ」

 空が声を上げ、同時に勢いよく擦れるような音がして再び動きを取り戻す。


「よかった。布噛んじゃったのかと思った」

 一安心という口振りだ。

「え、なんのこと?」

「ファスナーが引っ掛かっちゃって。そういうことってない?」


「……ああ、うん。たまにあるよね」

 洋子は平板な口調で答えた。どうやら杞憂だったらしい。もちろんその方がいいんだけど。改めて尋ねてみる。


「やっぱり何も憶えてない?」

「博士は来てなかったと思うよ。それにどっちかっていうとゆうべは久し振りによく眠れた気がするし」


「じゃあ昨日までは寝不足だったってこと?」

 洋子も着替えを始める。まだ遅刻するような時間ではなかったが、食堂には余裕を持って行っておきたい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る