偉大で尊敬すべき我が父上
threehyphens
第1話穴があいている父上
偉大で尊敬すべき我が父上は、クタクタに着古した
薄いグレーのやつで、一体何年着ていたのか分からない。
ただひとつ分かるのは、そのスウェットの
そんな危うい格好なのに、あろうことか彼はそのスウェットを着たまま近所のコンビニまで行ってしまう。
いわゆるワンマイルウェアというやつだ。
私たち家族は、近所の人が彼の股間を見てしまっているのではないか、そうでなくとも股間の穴に気付いているのではないか……と気が気ではないこころもちで日々を過ごしていた。
「他の部分に穴が開いているのは仕方ないけど、股間にあいてるのはダメ。買い替えましょう」
母は何度もそう言って父上に買い替えを
新品のスウェットでは
新品のスウェットは、クタクタに着古した綿百パーセントのスウェットより
家にいる時ぐらい心安らぐ衣に包まれていたいのだ……と、ペットの小型犬・チャムチャムチャンをなでながら彼は主張した。
ワンマイルウェアがセーフティブランケットも
偉大で尊敬すべき我が父上は、大変な激務だったと記憶している。
私が幼稚園や小学生に通っていた頃、平日に彼の姿を見た記憶があまりない。
母によると、酷い時には朝五時に家を出て深夜二時に帰ってきていたらしい。平日に彼の姿がなかったワケである。
平日にそんな暮らしをしているくせに、父上は土日になると車を運転して、家族をアウトドア系のレジャーに連れ出していた。
海や川、自分の運動サークルの試合、山ひとつを丸々使ったアスレチックランドなど……。
だだっぴろいおんもを背景に、父上はいつもまろぶように
ピョンピョン飛び回る子どもたちを
子どもたちが高熱を出した時には文字通り
まさしく体力おばけである。
そんな暮らしを何年も続けて体力が持つのか? 正気でいられるのか? と、凡人の私などは思わず疑問を抱いてしまうが、
正気だったのかどうかは分からない。
過去から今に至るまで、冗談みたいな伝説を作り続けているので、彼がいつ正気なのか、私にも全然分からない。
家族がどんなに止めても犬をスウェットの腹部に仕込み、コンビニに行き、「お客様へのお知らせです。犬や猫など、ペットの持ち込みはご遠慮ください」と、遠回しな警告放送を流されるような人である。
外国で車を運転している時に、トロトロ運転しているドライバー相手に「へたくそ!」と日本語で叫んだら、しっかり相手に気持ちが伝わってしまい、一時間ほど追われたこともある人である。
彼はこんな生活をしていた上に、決してお酒には強くないのに、上司や部下をねぎらう飲みや
驚くべき心と体を持った驚異の人である。
彼はその
だから私は、彼のことを「偉大で尊敬すべき我が父上」と呼んでいる。
皮肉の意味は全くない。
長年運動部で
そしてそんな彼に長年付き添ったスウェットもまた、偉大で尊敬すべきスウェットだった。
私が小学校高学年の頃には、彼はあのグレーのスウェットを着ていた記憶がある。
そして私が大学へ行き、
私は思わず「ソイツまだ生きとったんや!」と叫んでしまった。
「そりゃそうよ」と、父上はスポーツ中継を観ながら得意げに言い放った。
父上は、家にいる時は大体スポーツ中継か銀英伝かスラムダンクか相棒を観ていた。同じものをエンドレスで見続けて心の安定を図るタイプだったのだ。
スウェットはボロボロになりつつも生涯現役の風合いを
彼はやおら立ち上がると、スウェットにチャムチャムチャンを仕込んでどこかへ出かけて行った。
(……彼は一生涯あのスウェットを手放さないのではないか?)
と、思いながら、私は彼を見送った。
とにかく、スウェットは十年以上愛用されていたのである。
あろうことかその十年の間に海外赴任まで
股間の穴はとどまることなくどこまでも大きくなっていった。
……しかし、全部見えるレベルまで広がった記憶はない。
多分取り返しのつかないところまで穴が広がる前に、母が処分したのだろう。
あんなにあのスウェットに固執していた父上をどうやって説得したのか、私は知らない。
さて、そんな父上のもとに産まれ、父上式の教育を受けて育った私は、
産後に死にそうになっていたところ、母が家に応援に来てくれた。
彼女は赤ん坊をまめまめしくお世話したのち、洗濯物をたたみながらこう言った。
「ねえ。このタオルもそのタオルも、もうボロボロじゃない。
こういうのはもう全部ぞうきんにしちゃって、新しいのに買い替えたほうがいいわよ。私が買ってきてあげようか?」
その気前のいい言葉に私はギョッとした。とんでもない話だと思ったのだ。
絶対にタオルを買い替えたくなかった私は、必死になって母に説明をした。
これらはまだ捨てるわけにはいかない。まだ使える。何しろこれは綿百パーセントで、新品にはない風合いがある。肌触りが良く、愛着もあるのだ……と、大体そんな感じの主張をした。
私が説明をしている間中、母は何とも言えない目で私を見ていた。
かつて股間に穴のあいたグレーのスウェットを絶対に捨てようとしなかった男の血が、娘にしっかりと受け継がれているという事実を、母はあの時確信したのであろう。
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