第37話 おもちかえり⑩ 「……もう、カイさんのばかあ……」


――時は数時間前にさかのぼる。



「ぐぎゃあぁあっ……し、し……死ぬ……ッ!!!」


ベッドにねむと潜り込んで何分が経過しただろうか。

俺は、絶賛、死にかけていた。


「ん……」

「ぐいいあああぁぁっ!?!」


どうにかベッドから降りられないかと苦戦するが、もがけばもがくほど、みしみしと体を締め付けられ、息が吸えなくなる。


「むにゃ……」

「お、起きろねむ!! 俺を殺す気か!?」


犯人は、俺の横で健やかな寝息を立てる少女。ねむだ。

俺のお腹に回された、細くて白い腕。それが、先程から俺を殺さんとばかりにぎゅうぎゅうと圧迫している。


「くそっ……本気で抱き枕だと思ってるのか……!?」



――ベッドに入って数分は、まだよかったのだが。



「かいかい、二人だけの夜なんてえ、なんだかロマンチックだねえ?」

「そ、そうか?」


耳元で囁くようにしてねむが顔を寄せてくるのを、俺は反対方向を向きながらも必死に回避していた。


「ねえねえ、かいかいはこれまで恋愛経験とかあるのお?」

「……っ、まあ、ないこともないが」

「えー教えてよお! 付き合ってたのお?」

「……ま、まあ」

「ふぅーん。じゃあ、こんなこともしたんだあ?」


途端、するりとねむの手が俺の腹あたりまで回る。硬直する俺に、ねむの微笑が聞こえたかと思うと、


「あはは、かいかいったら緊張しちゃってえ、面白おい」

「……っ」

「わ、照れてる? 照れてるのお? 抱き枕の代わりになってもらってるだけだよお?」

「……さっさと寝ろ」

「ふあーい」


こんな様子、ひなに見られたら終了だ……と体を強張らせる。

もし見られたら、どうやって誤解を解こうか、そんなことを考えていると。


「……そんなに、ひなのちゃんのことが好きい?」


途端、ねむの声色が、寂しそうな、弱弱しいものになり、思考が停止する。チョコレートの板みたいに、ぱきっと簡単に折れてしまいそうな、そんなか細い声が、背後から聞こえる。


「!? そりゃあ、大好きだ、けど」

「…………」

「……ねむ?」


背中にぎゅっと頭を押し付けられ、ねむのふわふわした髪の毛が俺の首筋に当たる。

ねむに意識をフォーカスすると、ふんわりとお花のような香りもしてきた。もしかしたら、今日の俺との買い物のために、香水のような何かを付けていたのかもしれない。


「……ねむ、も……こ、んなに、頑張って……」

「……ねむ?」


声が続かず、俺は首だけねむの方へ回そうとした。した、が。


「―――ぎぁあぁあああっ!?!!」

「……すぅ……」


途端、体が締め上げられるほどの激痛が体をむしばんだ。

その時からだ、悪夢が始まったのは。




「く、くそっ、マジで俺死ぬぞ……これ……」


意識が覚醒するとともに、胃が雑巾のように捻られる感覚。今日のうどんが口へ逆流する予感、俺は限界を迎えるぎりぎりだ。

ベッドを汚したくはない。早くトイレに行かねば、だけどねむが……。


「……こうなったら……!」


みしっと体が悲鳴を上げるのを歯を食いしばってなんとか堪え、俺は両手を後ろに伸ばし、ねむの横腹を探り当てる。

そして、


「必殺!! こしょこしょ攻撃だ!!」

「ん、ひゃ、きゃふっ」


ねむのあたたかい横腹をくすぐった瞬間、腹を絞めていた腕が嘘のように解かれる。

ねむは、薄いパジャマの胸元を乱しながらも、紅潮した顔で身をよじった。


「おお……」


普段は無表情のねむさんが、こんな顔をするとは! 横腹が弱点だったのか。メモメモ。


「んっ……んぇ?」


ねむはまだ眠りの世界にいるようだ。無意識に手を伸ばし、なくなった抱き枕の存在を探すようにして動かしている。


「うーん……このまま立ち退いたら、さすがのねむでも起きるか……?」


何か抱き枕の代わりになるもの……と思い部屋中を見渡すと、先程ねむが床に置いたらしい、俺のお気に入りのイヌのぬいぐるみが目に留まった。


「少々無理があるか……? いやでも、また俺が抱き枕になるのは勘弁だ……よし!」


一か八か、頭三つ分くらいのイヌのぬいぐるみをねむの胸の中に押し付ける。


「ん…………もずく、ちゃん……」


途端、ねむの強張っていた頬が、一気に緩んだのを見た。

まるで、何億年も凍っていた氷が、人触れしただけで液体に代わるように。


ぎゅうっとイヌのぬいぐるみを抱きしめるねむ。何が何だか分からないが、抱き枕影武者作戦は成功のようだ。


「死ぬなよ、いぬまる……!!」


いぬまると名付けていた、最愛のぬいぐるみに投げキスをし、俺は足音を消して部屋を去った。


――俺の、最愛の姫の元へ行くために。










「ひ、ひな……っ?!! お、きてたのか……っ!?」


様子をただ確認するつもりだったが、暗闇の中、神秘的にきらめく紫色の瞳と目が合い、俺は大いにたじろいだ。

ひなのあまりの美しさに、たじろいだ。


「カイ、さん……?」


天の川のように綺麗な銀髪は、月明かりを反射して星屑のように輝いている。

だぼっとした絹のTシャツから覗く足は、神から与えられた賜物のようになめらかだ。

整った顔も、月の妖精だと言われても納得してしまう程に端麗で、こんなにも神に近い存在が俺の彼女だと、再認識するのに時間がかかる。

例えトイレの壁にもたれるようにしていたとしても、便器が近くにあろうと、ひなはいるだけで神々しい。


「カイさん、だぁ……」


その甘く緩んだ唇から俺の名前が呼ばれる。その宝石のような瞳から、つう、と流れ星のように雫が伝い―――


「は?! なんで泣いてるんだ!?!」

「ううううーっ、本物の、ほんもの、ですううっっ」


慌てて顔を近づけると、ひなは当然のごとく身を寄せ、俺の首の後ろに腕を回す。


「カイさんっ」


そしてそのまま、ぐいっと顔を寄せてきて、ごく自然に俺の唇に唇を重ねてきた。


「~~~~~っ!?」

「……へっ、へぁっ」


柔らかな感覚に、俺はばっと赤くなり、どてんと派手に尻もちをつく。

そこでようやく我に返ったのか、ひなも口をぱくぱくとし、唇を抑えて目を白黒させている。


「わ、たし、今何を……っ」


涙も止まったのか、ひなはトイレの床にへにゃりと溶けるようにして座り込む。テンパっている彼女を見ると、思わず笑いがこみ上げてしまう。


「……い、今のは、わわ忘れて――」

「やーだね、忘れてなんかやらない」

「~~~~~~~っ!! カイさんの意地悪、ですっ!!」


ぺしぺしと腕を叩いてくるが、それも照れ隠しのためなんだろう、腕の合間から覗く真っ赤な顔がバレバレだ。


「……ところでひな、調子はいいのか?」

「え? 調子……? あ、ああ、大丈夫ですよっ」


謎の間があったのが腑に落ちないが、とりあえず無事なことに安堵する。


「ならいいんだが……ところで、ひな。今から、だな」


俺は、咄嗟に思いついたことを危うく言いかけ、慌てて口を噤んだ。


「へ、なんですか?」

「い、いや、なんでもない! お、俺ここで寝るから、ひなはベッドで寝てこい! ほ、ほら、うちの親が寝てるベッドがあるから、そこで!!」

「……なんでそんなに焦ってるんですか?」

「い、いや、ほんとに何でもなくて!」


――今から、一緒のベッドで寝ないか。

……そんな事言おうとした俺がバカだった!! バカすぎだ!!


不思議そうなひなを無理やり立たせ、トイレの出口に押し出す。


「……本当に、ばればれです、カイさんって」


顔を背けていると、先程とは形勢逆転、いつの間にかひなが前にかがむようにして、トイレの床に座り込む俺に顔を近づけていた。

近づく、ひなのかわいい企んだような表情に、ただあっけにとられる俺。


「そういや、今日は冷えるそうですね」

「? そ、そうなのか?」


突拍子もないことをいきなり言うひなにますますきょとんとしていると、


「だから、ですね……これから一緒に、どうですか?」

「これから……な、なにをだ……?」

「もう、鈍感です。これ以上は言ってあげません」


ルール違反ですし、とどこか不服げな、でも期待が膨らんだ表情で俺を見るひな。


「カイさんだって、そう思ってるんじゃないですか?」


一緒に。これから。

先程の妄言が蘇る。にやにやと小悪魔のように笑いかけてくるひな。

……ええい、こうなったら一か八かだっ!!


「いっ……一緒に、寝ないか、か?」

「へえカイさん、私と一緒に寝たいんですか?」

「~~~~~っ!?」


やらかした、と真っ赤になって口をぱくぱくとさせていると、


「なーんて、ちょっとからかってみました。こんな私、どうですか?」

「かわいいです」


よろしい、と満足げなひなを見上げる。その瞳が、しょうがないですねっ、とでも言いたげな色を帯び、


「じゃあカイさん、夜は冷えるので、一緒に寝ましょうかっ? カイさんもまんざらでもなさそうですし!」

「……いつからひなはそんなに恋愛上級者になったんだ?」

「えへへー、いっぱい少女漫画を読み漁ったんですよっ」


そんなひなもかわいい。

思わず見惚れていると、ひなは急に真面目な顔になり、少し俯く。


「本当は、トイレで一人で寝るなんて寂しくて泣いちゃってたんですけど……」

「!?」

「しかも、このままだとルール違反になっちゃいますかね!? どうしましょうかっ」


一人でうむむと唸るひなもかわいい。


「どうしたんだ? 俺に何かできないか?」


思わず肩に手をおいて尋ねると、ひなは顔だけ俺の方に向ける。さらに、ちょこんと首を傾げる仕草。急なかわいいアタックに、思わず「かわいい……」が漏れてしまう。


「――!! これですっ!! カイさん、できるだけいっぱい、私を褒めてくださいっ」

「えっ、い、今!?」

「そうです、今ですっ!」


いきなりひなにせがまれて、俺は目を白黒とさせながらも、ひなのかわいい所を沢山褒める。

やばい、それを聞いてる時の照れたようなひなの顔もかわいい。両頬を手で押さえる仕草、反則だろ。


しばらく、とめどないひな愛を思いつくがままに話していると、五十個ほど上げた頃に、


「か、カイさんすとーっぷ……もう限界です……」


ぎゅうっとTシャツの裾を掴み、目を逸らして頬を染めたひなが静止してきた。


「その照れた顔もかわいい」

「っっ!! だーからっ、もうすとっぷですっ!!」


少し強めのアタックを腹に受け、猫背気味になっていると、


「こ、これで、ねむさんも文句は言えませんよね……にしてもどうしましょう……恥ずかしくって……もう、カイさんのばかあ……」


と、なにやら小さな声でひなが呟いている。先程から様子がおかしい。


「急に褒めてって言いだしたり……さっきの、その、キス……だって。本当にどうしたんだ?」


心配になって、でも唇にそれとなく触れながらも言うと、ひなはぼっとますます赤くなる。


「あ、あれは……そうです、カイさん不足、です……」


俺から距離を取るようにして手を持ち上げながらも、ひなはか細い声で言う。


「そんなところもかわいい」

「ひゃっ……ぁっ?!」


我慢できなくなって、ひなを抱き寄せ、耳元で囁く。びくっと震えるひなは、しかし俺の袖をぎゅっと掴んでいる。


「な、なにを」

「ひな補充。俺も不足してた」

「え、えへ……カイさんも、」


そこでひなの言葉は途切れる。なぜなら、ひなの唇は俺によって塞がれてしまったからだ。


「~~~っ!?」

「どう? 補充できた?」


優しい口づけ。儚いものを繋ぎとめようとするように、そっと触れた唇。

ひなの体温を間近に感じて、夢のように心地いいのに、息が足りなくなって顔を離す。キスはまるで水に潜った時のようだ。


真っ赤になったひなは、長いまつげで縁取られた目を見開き、でもすぐにとろけたようにして目を細めた。


「ま、まだですよっ。いっぱい、ベッドでお話ししましょうね」

「ああ、お前が飽きるまで話してやるよ」

「へえ、どっちが長く起きていられるか、勝負ですね!」

「ひなの寝顔が見たいから、俺が勝つな」

「いーや、カイさんのかわいい寝顔が見たいのは私もです。負けません」


かわいい言い合いをして、やがてふにゃりと空気が緩む。


俺たちは手をそれとなく繋ぎ、寝室へと向かった。


都合よくというか、偶然と言うか、欠けることない綺麗な満月が、窓から光を届けていた。

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