第35話 おもちかえり⑧ 『かわいい』

「あのー……そろそろいいか? 歯を磨きたいんだが……」


「「!!」」


――カイさんとの添い寝がかかったゲームが始まった、刹那。



「かっ、カイさんっ!!」


先手必勝ですっ! 

私、月野ひなのは、ねむさんが口を開くより前に、大きな声でカイさんの名前を呼びました。

同時に、がちゃっとお風呂場の扉を開きます。そこには、ぽかんと戸惑ったような顔をしたカイさんが佇んでいました。



「? ど、どうした?」

「え、えーっと、えーっと……!」


しかし、声をかけたとはいえ、話す内容が思いつきませんっ! どうやったら、カイさんから『かわいい』を引き出せるんですか、教えてくださいっ!

わたわたと視線をさ迷わせていると、


「ねえかいかいー、同級生のバスタオル姿はどお?」

「――失礼しました」

「ちょっとお!?」


そういえばねむさん、未だバスタオル姿でした!?


「ちょっ……」


焦る私を置いて、ねむさんはお風呂場から離れようとするカイさんに近づき――いきなり抱き着きました!?


「なっ」

「感想を言ってくれるまで、放しませえん」


「……くぅっ……」


その手は卑怯ですっ!! 

むっと頬を膨らませる私にお構いなしに、ねむさんはカイさんを至近距離で見上げ続け――


「かわいい?」

「っ……と、まあ、『かわいい』……と思う」


「「!!!」」


途端、勝ち誇ったような表情で――否、ねむさんはそれほど感情表現が豊かではない故、僅かに紅潮した頬と瞳で判断して――私に視線を投げてきました。


「いち」

「うぅ……カイさんは、軽々しくかわいいとか言っちゃう人だったんですね! ぷん!」


いつも私にかわいいかわいいと言ってくれるカイさんですが、同じように、沢山の女の子に言ってるのだと考えると……悲しいです悔しいです嫌いですーっ!!


「いや、ひなは格別に『かわいい』から」


「―――っ!! カイさああんっ!」


不意に投げかけられた、最高級にうれしい言葉に、私は思わずカイさんに抱き着きます! ふああ、このぬくもり、ベッドでも堪能したいところですっ!


「むう」

「いち、ですっ」


と、まだ未練がましくカイさんに抱き着いているねむさんに、ぺろっと舌を出し、挑発しておきます。

ねむさんは、ふんわりとした亜麻色のボブヘアーを揺らしながらも、恨みがましそうに私を見てきますが……これで同点です!



「じ、じゃあ、歯磨くから……」


カイさんの声に、私は、ぴくんと反応します。

こ、これはチャンスっ!? カイさんの歯を優しく磨いてあげたら、カイさんの口から『かわいい』がこぼれだすんじゃないですか!?


「かいかいの歯、磨いてあげようか?」「カイさん、私が磨いてあげましょうか?」


と、私と同時に同じ言葉が重ねられ、私はねむさんと思わず顔を見合わせてしまいます。


「わ、私の方が歯を磨いてあげるのが得意です!」

「ねむ、よくれおれおの歯、磨いてあげてたよお? まあ、小さいころの話だけどお」

「じゃあねむさんはレオさん専用歯磨き師ってことで! 私は私の彼氏の歯を磨く使命があるんです!」


「い、いやいいよ……自分で磨くから……ありがとな……」


二人でむむむとにらみ合っていると、少し引き気味でカイさんが歯ブラシを手に取ります。


「「むう……」」


「そ、そんなに俺を手伝いたいのか?! なら……俺の部屋に布団でも敷いてきてくれないか?」


「……はーい」

「……わかったあ」

「なんで急にがっかりするんだ……」


わけがわからないといったように首をかしげるカイさんを置いて、私たちはすごすごとお風呂場から退場します。


「……先制点はいただきましたあ」

「結局同点なんですから、そう威張らないで下さい。格好悪いですよ」


そう恨み言を言い合いながらも、二人でカイさんの部屋へと向かいます。



――こうして、第二ラウンドが始まるのだった。

「この布団、トイレに運んでくるねえ」

「そうですね、あとでごたごたせず済みますから」


カイさんが歯を磨き終えるまでに、私たちはせっせと準備を進めます。


カイさんの部屋は、カイさんが倒れた日、じっくりと堪能――こほん、確認させてもらったので、大体どこに何があるのかは把握済みです。

現状、カイさんの部屋にはベッドが一つしかないため、新たに布団を二つ用意する必要があるのです。


「う、よいしょっ……ひゃっ……!?」

「ねむがやるよお」


私が担ごうとしていた重い布団を、ひょいと軽々と持ち上げるねむさん。それをジト目で見つめながらも、私はびしっと指を立てました。


「ねむさん、いいですか? カイさんはすーっごく優しくて、すーっごく格好良くて、すーっごく神様みたいな方ですが……負けた時、それに甘えてはダメですからね!」

「それはひなのちゃんにも言えるんじゃなあい? 負けた時、『うえーん、カイさんのそばを離れたくないですうー』とか言うのは反則だからねえ」


わざわざご丁寧に、声真似までしてくれるねむさん。私は仕返しとばかりにべーっと舌を出し、


「ねむさんこそ、『かいかいー、ひなのちゃんがトイレで寝ろとか言ってくるんだけどお、さいてえー』なんて言うのはやめてくださいね?」

「しないよお、ひなのちゃんじゃないんだからあ」

「どういう意味ですかっ!」


ばちばちばち、と数秒間睨み合ってから、先に動いたのはねむさんでした。


「とりあえず、トイレに敷いてく――」

「待ってください」

「?」


しばらくの黙考の末、待ったをかける私に、怪訝気にねむさんが首を回してきます。


「カイさんの香りがする素敵なお布団を、トイレなんかに敷くのは気が引けます!」

「言い分が変わりすぎてなあい?! それならどうするって……」

「簡単です。――敷かなければいいんです」


ねむさんは、私の言わんとすることがようやくわかったというように、挑戦的な色を瞳に宿します。


「へぇ。つまり、布団なしで、寂しくトイレで寝ろとお。徹底的に敗者をいじめたいんだあ? それが自分にかえってきても知らないからねえ」

「誰だって冷たいトイレの床で寝るのは嫌ですから。真剣勝負です、しんけん!」


冷たいトイレで、身を縮こませ、ひたすら朝を待つ――最悪ですっ!!

さらに、カイさんの部屋で行われていることを想像すると、もやもやが爆発しちゃいそうです!


「でも、ベッドでのあれも、お風呂でのあれも、邪魔されたんですから。いいですよね」

「なんだかわからないけどお。本気、って事でいいんだよねえ?」


ちょっと卑怯な気もしますが……ねむさんが自信ありげに胸を張るのを見て安心します。



「磨き終わったぞ」

「カイさん!」「かいかい!」


その時、がちゃ、とカイさんが部屋に入ってきて、私たちに太陽のような笑みで笑いかけてきます!


その笑顔についついにやけてしまいます……いかんです、月野ひなの! 今は命を懸けた真剣勝負真っ最中なんですよ!?


「? あれ、布団は敷かないのか?」

「んーと、一人くらい外で寝たい人がいるかもしれないから……しし敷いてませんっ!」

「そんな奴いる?」


一枚も布団が敷かれていない部屋を見回し、困惑したようにカイさんが言います。


まさか、『敗者はトイレで寝ることになってるので、布団は敷いてません!』と言えるわけもないですし……嘘が苦手なので、ばれちゃわないように、必死に口笛を吹きます。


「じゃあ、それはいいとして……どうしてもう一つの布団も敷いてないんだ?」

「えとえと、勝者……こほん、誰かが、もしかしたらカイさんと同じベッドで寝る可能性もあるなあ、とか思ったりして!」

「さすがに三人は入らないぞ……」

「いえ、お構いなくっ!」


――そう。勝者は、カイさんと同じベッドの上で寝られる権利を持つのです!

これも、ねむさんと話し合って決めた、勝者への報酬。


カイさんのベッドは、二人が至近距離で寝ればぴったりくらいの大きさです。

カイさんが倒れた日、一緒に寝たあのどきどきを思い出します……今日は意識のあるカイさんと二人きり……きゃー、どきどきしてしまいますっ!!


「ねえかいかい、見てぇ。この髪型かわいくないー?」

「お、いいんじゃないか? 『かわいい』じゃないか」


「っっっ!?!」


そんな声に、はっと私の意識は覚醒、慌ててねむさんの方に顔を向けます。


ねむさんは、ハーフツインに結んだ髪をくるんとお団子にし、カイさんに見せていました。

小熊の耳のように、ぴょこんと結ばれた愛らしい髪型。そのままねむさんは、唖然とする私と目を合わせ、


「に、だよお」

「ううっ!!」


誇らしげにブイサインを決めてくるねむさん。まっ、負けてはいられません!


「カイさん、オリジナル連想ゲームやりませんか? はいっ、私と言ったら?」

「急だな!? ……っとだな、天使?」


戸惑った顔をするカイさんは、すぐに返答をしてくれます。さらさらな黒髪の合間からのぞくかっこいい瞳に、心臓がどくどくと鳴り響きますっ!

そういや、カイさんの私服を見るのも久しぶりです。紺色のパーカー、似合いすぎて惚れ直しちゃいそうですっ!


「ほ、他にです!」


危ない危ない、カイさんの魅力に吸い込まれそうになりました! 

目的を思い出し、『かわいい』を引き出そうと奮闘します。


「なんでもいいんですよ? あ、ほら、カイさんがいつも言ってくれる言葉、とか!」

「! そりゃ、もちろん、か――」

「ねぇかいかい、ねむと言ったら?」


いい時に邪魔が入り、私はばんばんと布団を叩きます! 


「ねむさんっ!? 邪魔ですっ」

「しーらないもんねえ。ほらかいかい、ねむと言ったら?」

「先に私ですーっ!」


私たちに詰め寄られ、口をぱくぱくとさせるカイさん。やがて、ようやく頭の整理ができたのか、


「えっと、ひなは『かわいい』、ねむは『レオ』……かな」


「やったあ! に!」


私がカイさんの腕にしがみついたまま、立ち膝でぴょんぴょんと跳ねてしまいます。


「……れおれおが出てくるって、どういうことお」

「そりゃあ、ねむとレオはセットだろ」

「~~~~~」


不満げな顔つきのねむさんに、してやったりとブイサインを決め、ねむさんがダメージを食らっている間に新たな手を考えます。


「! そうだ、ねえねえカイさんっ!」

「?」

「昔の私と今の私、どっちの方がかわいいですか……?」


付き合う前と付き合った後、という意味での問いかけに、カイさんは即答、


「そりゃ、どっちも『かわいい』に決まってるだろ! そ、その……顔だって『かわいい』し、て、てて照れた顔とか、笑顔とか、そういうのも『かわいい』し! もちろん性格もおてんばで『かわいい』……ダメだ、いつでも……か、『かわいい』から! 自信もってくれ!」


そう言い切った後、真っ赤な顔のカイさんを前に、私も頬を赤らめてしまいます。そんなにかわいいって思ってくれてたなんて……うううっ、いい夢が見れちゃいそうですっ!!


「……あ、ななです、ねむさん」

「ぅぅう」


はっと我に返り、数を数えて報告すると、ねむさんにしてはわかりやすく焦ったような顔になりました。ふふん、これが彼女の特権ですよっ! これで、カイさんとの添い寝は確定――


「――しょおがない。奥の手使うしか、ないかあ」


小さな声でねむさんが何かを言う。聞き返そうとすると、その前にねむさんが立ち上がり、カイさんの部屋に飾られていた、犬のぬいぐるみを抱き上げた。


「悪く思わないでねえ、ひなのちゃん」

「な、なにを」


眉をしかめる私をよそに、ねむさんはスマホをいじりだしたかと思うと、少しためらうようにして指を硬直させる。

しかし、決心したようにして、とある動画を画面に映し出し、カイさんの前に差し出しました。


それは――。


「……これって」

「そお。ねむが昔飼ってた、わんちゃん。もずくっていう名前」


無邪気に走り回る、黒色のトイプードルの動画に、カイは一瞬大きく目を見開く。

それはねむさんも同じで、映像を見て、どこか傷ついたような、悲しげな色を瞳に灯しています。


「そ、それって」


ごくっと息を呑む私。

この子は……ねむさんがずっと心の中で引きずってきた、亡くなられた飼い犬なのでは……?


固まる私のそば、カイさんは微動だにせず、動画に見入っています。

そして――


「え、『かわい』っ!?! なにこれ、『かわい』すぎない?! があああ転げまわってる、『かわい』すぎないかっ?! 『かわい』すぎてもはや天使。はあああ、しっぽもふもふじゃん、死ぬほど『かわいい』んだが!? うおっ、こっちきた!! うあああ、『かわい』すぎかよ!?!」


「――!! ほかにもあるよ?」


呆然とする私のそば、カイさんは目をきらきらとさせてねむさんに顔を近づける。


「はい、次はこれ。散歩言った時の動画なんだけど……」

「うおっ!? 耳もふもふ『かわい』すぎ! もふりたい!! この黒い毛、俺も愛でたい、『かわい』すぎんだろ!?」

「ふふっ……まだまだあるからねえ」


初めて見るような、ねむさんの可憐な、無邪気な少女のような笑み。


それは、どこか吹っ切れたかのような、そんな晴れ晴れとした笑顔で。

その延長で、ねむさんは、硬直する私に視線を投げてきた。


「ちなみに、今で、じゅう」

「~~~~~~~っっ!!」


「うひゃ、『かわい』すぎ……なんだこの生き物はっ」


画面にくぎ付けになって、今やどんな言葉をかけても届かないカイさん。



「もっと、もっとないのか!? 『かわい』すぎるぞ!?」


「ね、ねむさんっ……ううぅっ……」

「……言わせたら勝ち、だもんねえ?」


なにも言えずに、ただ悔しさに頬を膨らませることしかできない私。




――勝負の結果は、既に決まったも同然だった。

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