Aurora
七条ミル
Aurora
「オーロラ、綺麗だな」
ルーナの隣に座るニュイが、そう呟く。並んで座る二人の少女は、生身ではなくあくまでゼロとイチの集合体でしかなくて、その目に映るオーロラも、またゼロとイチの集合体でしかない。上下左右、前を見ても後ろを見ても、どこにも本当の世界など映っていないのに、半ばそれが本当の世界のようにふるまっている。
――だったら?
それが、夢にも似た、ただの映像であったとしても、ルーナにとっては一つの現実だった。
たとえそのルーナという名でさえ、本当の名でないとしても。
「そうだね」
曖昧に、ルーナは返す。そのアヴァターの目は、確かに空に浮かぶオーロラを映している。
「私はさ」
ニュイが口を開く。
「本物のオーロラが見たいんだ」
「本物のオーロラ?」
鸚鵡のように言葉を返すルーナの表情は、ニュイには見えていないはずだ。
「そう、本物のオーロラ」
ニュイは真っ直ぐ、空を見ているから。
本物そっくりに出来たルーナの横顔も、本物よりもほんの少しだけ健康的な、ルーナの腕も。
そうして暫く二人は空に浮かぶオーロラを眺めていた。まがいものでも、やっぱり綺麗だった。
「ねえルーナ」
ニュイがまた、口を開く。今度は、ルーナの顔を、目を、しっかりと見ていた。
「今度は本当のオーロラで会おう。夢じゃなくて、本当の空の下で、さ」
「そうだね」
そんなことは無理だと、あり得ないことだと、不可能だと、そうわかった上でルーナはそう答えた。目覚めてはもう二度と、ニュイと会うことなどありえない話なのに。この電子の海で出会った人間と出会うことなんて、あり得ない話なのに。本当の空の下なんて、あり得ない話なのに。
「約束だぞ? 嘘ついたら針を千本飲ますからな」
「針を千本? なんで?」
そう聞き返すと、ニュイはにいっと笑った。
「昔からそういう風に決まってんの」
だからと、ニュイはぐいっとひとつ伸びをする。夢の中なのだから、身体の不調はあり得ない。だからきっとそれは、ニュイの癖なのだろう。立ち上がったときに、ああやって身体を伸ばすのが。
「次会うときはきっと、空の下だ」
「わかった。きっとね」
――ニュイなら。
或いは本当に成しえてしまうのかもしれない。なぜか、そんな気がした。
「じゃあ、空の下で、また」
ニュイが、空中に手を伸ばす。それは、目覚めるためのコマンドを入力するための動作。もうすぐ、ニュイとの時間は終わる。ニュイは目覚めて、きっとオーロラを見るための方法を探すのだろう。
ルーナも。
「またね」
空中に手を伸ばす。そこには青白い半透明の、無機質なウィンドウが表示され、幾つかのメニューの下にログアウト、というボタンがある。
ウィンドウの上の方には。
「オーロラ」
きっとこの場所の名前なのだろう。この座標近辺に付けられた名前。
――私と一緒だ。
その横に掛かれた、アウロラという自分の本当の名前を見ながら、そしてその向こうに透けて見える光の粒子になりつつあるニュイのことを見ながら、ルーナはログアウトというボタンにそっと触れた。
――おやすみなさい。
そっと、心の中でニュイに告げる。
それは、届くはずのない言葉だ。
むくりと身体を起こす。鉄板を組み合わせたベッドと呼ぶのも烏滸がましいそれは、ルーナ――アウロラのベッドだ。夢へ行くためのヘッドセットを外し、寝台の横に置く。
それから、今日夢に見たことを思いだす。
ニュイという少女は、自分と同じくらいの年齢でありながら、技術者をやっているのだという。色々なものを直したりして、そうして再び人間がその目で空を見ることができるようにしたいのだという。
今日初めて出会った少女だというのに。
自分とは真逆の少女だというのに。
ルーナとニュイは気が合った。だから、二人でオーロラを見に行った。自分の本当の名と同じ綴りをするその光を見るのは、これが初めてだった。
――本当のオーロラか。
そんなものが存在するのだろうか、とアウロラは自分の手を見る。やせ細ったその腕は、明らかに栄養が足りていないと分かる。けれど、自分が食べることのできるものなど限られていて、最低限の栄養ブロックを齧る以外に生きる術はなかった。
ほのかに空腹を感じて、アウロラは立ち上がる。少しふらつく足元を、壁に手を添えて誤魔化しながら進んでいく。
居間では、アウロラの母親がコップで水を飲んでいた。その手には、栄養ブロックがひとかけら握られている。それをちびちびと大事に、ゆっくりと食べているのだ。
「おはよう」
アウロラが声を掛けると、母親はゆっくりと顔をあげ、虚ろな目でアウロラのことを見た。
「おはよう、ルーナ」
母親は向こう、とキッチンの方を指さす。アウロラも頷いて、そちらへと壁に手を添えゆっくり進む。キッチンとは名ばかりの鉄板を組み合わせた水道の横には、栄養ブロックの袋が一つ置かれていた。袋には「ルーナ」という名が入ったものと父親の名が入ったものとあって、迷わず自分の、ルーナというアカウントネームが入った袋を手に取った。
ふと、母と父の名を思い浮かべる。どちらも、本当の名ではない。二人は自分たちが付けたのだからアウロラの本当の名を知っているはずだけれど、その逆にアウロラは両親の本当の名前を知らない。
どこでもそうなのだという。
だから、それが普通。
「いただきます」
袋を破って、栄養ブロック一つを口に放り込む。少し大きいそれを、水分と取られながら噛んで、コップに入れた水道水で流し込む。腹は満たされないけれど、これで生きる最低限の栄養は補給できている。だから、死なない。
「お母さん」
「なに? ルーナ」
アウロラの問いかけに、母がゆっくりと振り返る。栄養ブロックはもう食べ終わったらしい。
「お母さんは、空って見たことがある?」
「そりゃあるよ」
「……それは、夢の中で?」
少しだけ期待して、アウロラはまた問いかける。
「当たり前じゃない」
けれど期待は、外れる。
「本当の空を見る方法って、あるのかな」
「あるんじゃないの? 死ぬかもしれないけどね」
それはそうだろう。
地上は、もう人間が生きていけるような場所じゃなくなった。だからこんな、狭くて暗くて、生きることしかできないような地下深くで人間は暮らしているのだ。お金を沢山持っていた人は浅い場所で暮らしているのだと聞いたことがあるけれど、本当かどうかは知らない。それはアウロラには関係のないことだから。
「やっぱり、死んじゃうのかな」
「そりゃそうだよ。だってここは死の星、地球なんだから」
母は呑気にそう言うと、アウロラの方に手をぽんと置いた。
「私も若い頃は思ったなあ、外ってどんなところなんだろうって。でも、外を見た人なんて殆どいないんだよ。もう何百年も前から、人間はこうやって暮らしてるんだから」
諭すように言う。きっと、アウロラが変な気を起こさないようにそう言っているのだろう。
少なくとも、昨日ニュイに会うことがなかったら、アウロラは外のことなど気にもしなかっただろう。自分では、そう思う。
――でも。
今は少しだけ、その死の星というのがどんなところなのか気になってしまうのだ。そして、その死の星から見える空は、オーロラは、どんな様子なのだろうか、なんて。
学校は、ある。未来なんてないと言われて何百年も、惰性でこのまま来たのだという。だから、何百年、何千年までまでの歴史を事細かいに習って、ここ数百年の歴史はまったくわからないまま終わるのだという。それでもなんとなく、アウロラはその学校に通っていた。数百年前を境にぱったりと消える歴史を学びに。死の星になる前の地球のことを学びに。
だから今日も、授業を受けた。アウロラの目に映る死んだ目の教師は、とても子供のことを考えているようには見えないのだけれど、それでも先生はお前たちのことを考えているんだぞ、という。だれもそんなこと信じていないと、アウロラは勝手に思っているけれど。
左右に並ぶ生徒たちは、アウロラと同じように授業を受けて、けれど教師の目よりはいくらか、生きた顔をしている。
――ニュイよりは。
きっと生きていない。アウロラが見てきた中で一番生きた目をしていたのは、アヴァターとは言っても、ニュイだ。
みんな、国に就職して安定した生活をするとか、みんなに希望を与えたいだとか、思い思いの夢を語っていた。それでも、誰一人として外へ出たいなんて言う人はいなかった。
――だって、外に出たら死んでしまうと言われているもの。
はあ、とアウロラは溜息を一つ吐く。ニュイは今頃、外に出る準備でもしているのだろうか。
未来なんてないのだとしても、死んでしまうのは怖いことだと思う。周りにいる人達との関わりなんて殆どないに等しいけれど、それでもこの中の誰か一人が死んでしまったら、きっとアウロラは悲しむだろうな、と思う。
「いいですか皆さん、目標をしっかりと持って、自分に出来ることを頑張れば、夢はきっと叶いますからね」
教師のそんな言葉が、虚しくアウロラの胸を通り抜ける。
――でも外に出るのは。
きっと叶わない夢だ。
――誰も外の様子は知らないし、知ることは出来ない。
アウロラの手にある本には、そう書かれている。外の様子を知ることが出来ないのなら、もしかすると外に出ても死なないのかもしれない。人間が地下へ逃げる前のような状態に戻っているのかもしれない。或いはもっと環境は劣悪になって、外どころか地下でも既に人間が住めなくなっているのかもしれない。
でもそれは、誰にもわからないのだそうだ。
アウロラははあ、とまた溜息を吐いて、本を元あった本棚に戻した。そこは図書館の一角、環境に関する書籍が並べられたコーナーで、どの本も同じように昔の地球は緑豊かな星だったが、今はそうではない、と書かれていた。どこにも、そうなった原因に関して言及する本はない。どの本でも、突然、人間が住めなくなる。
いずれにしても、外に出ることは叶わないと、誰もが言っていた。
――ニュイなら。
本当に少しの時間しか、ニュイとは関わっていない。それでも、ニュイならば本当に外に出てしまうんじゃないか。アウロラには、そう思えてならない。
だから、アウロラも、自分と同じ名の、その光を見るために外に出たいと思うのだ。本当のニュイと出会うために。
そこにエレベーターがあると知ったのは、本当に偶然のことだった。
なんとなく考え事がしたくて、アウロラは鉄骨だらけの街を歩いていた。今までなんとも思ってこなかった文字一つひとつを、何とはなしに読んでいた。それは古い広告だったり、頭上注意の看板だったり、工事中の看板だったり、表札だったり、色々なものだった。その中の一つが、エレベーターと書かれたそのプレートだった。
そのプレートの左側には、両開きの重々しい金属の扉があって、開かないように黄色と黒の警戒線のようなテープがべたべたと貼りつけてあった。長い間使われていないようで、左右にある柱は塗装が剥げて錆がでていた。
「どこに繋がってるんだろう」
エレベーターなのだから、上か、下だ。けれど、アウロラの住むこの場所は、何層にもなる地下空間の中でも、一番下の場所だ。一番地上とはほど遠い場所で、これ以上下に行くものだろうか。
――それなら。
これは、地上までつながっているのだろうか。それとも、地下空間の中で、上層へ行くためのエレベーターなのだろうか。
エレベーター、と書かれたプレート以外には、何もない。だから、本当のところはどうか知らない。
でも、それが地上に続いていたら夢があるな、と思う。
――そのとき、どこからともなく、ゴウン、と大きな音がした。大きく地面が揺れて、近くにあった柱に掴まって、なんとか転ばずに済むような、そんな調子だった。次の瞬間には、どこからともなく悲鳴が響いて、大きな地下空間の中で共鳴して、やがて止んだ。水の音がするのは、今の揺れで水道管が破裂でもしたからだろうか。何が起こったのかわからないのが、余計に怖かった。
揺れが収まっているのを柱から離れて確かめてから、アウロラは家の方へ向かって歩き出した。こんな風に揺れることは今までなかったけれど、歴史の授業ではかつて起こった多くの災害を学ぶ。それを考えれば、むしろここまでの人生で何もなかったのが不思議だな、と思う。たった十六年間でも、それは幸運なことなような気がした。
鉄板のベッドに寝転がり、アウロラはヘッドセットを頭に付ける。ルーナになれば、またニュイに会うことが出来るかもしれない。またあの声で、ルーナに外に出てオーロラを見たいと語ってくれるかもしれない。
目を瞑り、夢のような世界へと進む。
街は煌びやかで、色々な人がいる。思えば夜の世界に、思えば昼の世界に。ここでは、自分のいたい場所に居ることができる。
ルーナは迷わず、昨日の空の下へと走った。
やがて昨日と同じ場所の下に出る。空を見上げると、そこには満天の星空がある。
――オーロラは。
そこにはなかった。
そこにあるのは瞬く星ばかりで、鮮やかに輝く光の帯はどこにもない。
「ニュイは」
そこにはいなかった。
メニューを開いてみると、そこにある文字は「夜の星空」と変化していた。
――これじゃあ、意味ないな。
ルーナは、昨日と同じ場所に腰かけて、空を見上げる。隣にニュイはいない。
「空」
そこには空があって、けれどそれは本物の空ではなくて。
外に行くことができたら、またニュイに会うことができるだろうか。あの、不思議と気の会う少女に、会うことができるのだろうか。
意味もなくエレベーターの前に立ってみる。
オーロラについて調べてみると、なんでもオーロラというのはどこでも見れるわけではなくて、北極や南極に近い場所で、それも運がいいときにしか見れないらしい。昔の本に書かれていたことだから、どこまで今に当てはまるのかはわからないけれど、そう簡単に見れるものでもないのだろう。外に行ったくらいでは、本物のオーロラは見れないのかもしれない。
――それでもいい。
気づけば、アウロラの目的は、ニュイに会うことに変わっていた。そのためには、オーロラの下へ行かないといけない。きっとニュイは、そこにいるから。
「どうしたら」
もはや、死んでしまうのは怖くない。考えてもみれば、生きていても、アウロラにしたいことはない。ただ唯一残ったアウロラの願いは、もう一度ニュイに、オーロラの下で会うことだった。ニュイが冗談で交わしたかもしれないあの小さな小さな約束だけが、アウロラが死なない理由になっていると、気づいた。
無機質なエレベーターの扉の前、アウロラはゆっくりと息を吐く。錆びて、目的も無くて、どう動いたらいいのか分からなくて。まるで自分みたいだな、なんてちょっと恥ずかしいことを考えて、頭を振る。金属製のエレベーターの扉は、アウロラの姿を反射していた。全身をどこも遮られることなく鏡で見ることなんて無かったから、初めてアウロラは思った。
――今にも死にそう。
それでも、オーロラの下へ行くまでは、死ぬわけにはいかない。それだけが、アウロラが死なない理由だから。
――そうしないと、針を千本飲まされちゃう。
冗談を言っていたニュイの横顔を思い出して、ふふと笑ってしまう。笑った自分の顔は、まだ生きているような気がした。
いつもと同じように、ヘッドセットを着けて、眠る。夢の中、そこは星空の下で、ニュイと二人で語り合ったあの場所だ。
ニュイと出会ってから、もう何日も経った。けれど、そこにニュイが現れることはない。
けれど、その日は偶々寝転がって空を見たから。
ルーナは、その寝転がったすぐそばに、紙切れが落ちていることに気づいた。現実を再現したこの夢の世界だけれど、決して現実にはあり得ないことも出来るように造られているらしい。その最たるものはこうして星の下に寝転がることなのだろうけれど、それとは別に、見た目が年齢に応じて変化しないようにしたり、或いは、ものがどれだけの時間を経ても劣化しないようにしたり。
その紙に乗せられたインクは、まさに今書かれたもののように見えた。けれど、そんなはずはないと、ルーナは自分の考えを捨てる。だって、ルーナはずっとここに居たから。
その紙に書かれているのは、短く、一文だけ。すこし雑だけれど、元々は綺麗だと分かる字で書かれたそれは、始まりに「ルーナへ」と書かれていた。
『エレベーター』
エレベーター。
覚えがある。
――もしかして。
案外、ニュイはすぐ近くにいるのかもしれない。
迷いなく、ルーナはメニューを開いて、ログアウトする。
「行かなくちゃ」
起き上がったアウロラは、最低限着替えて、黙って家を出た。走って、エレベーターのある方へ向かう。そこに、ニュイがいると信じて。
カン、カン、と等間隔にアウロラの足音が響く。唯でさえ夜だとされる時間帯で、こんな時間に起きている人間なんて居ない。みんな、夢の中にいるのだ。気を付けないといけないのは、巡回する警察官だけ。
幸いと言っていいのか、アウロラは人と会うことなく、エレベーターの場所まで辿り着いた。
――そういえば。
ついこの間まで貼ってあったはずの黄色と黒のテーブが剥がされている。この間は何も思わなかったけれど、だから全身が映ったのだ。
けれど、ニュイの姿は見えない。
表側にある道はこれ一つだけだった。近くにある行くことのできる道は、そのすぐ横に設置された小さなはしごだけ。それも、天井に繋がってはいるものの、地上までつながっているものとは到底思えない。第一、ここは地上数メートルなどという可愛い場所ではない。とても、自分の細い手でこれを登っていくことができるとは思えない。
――でも、あの天井くらいなら。
少し錆びたはしごを手でつかむ。少し手で引っ張ってみても、折れたりするほど脆くはなっていなさそうだ。足を掛けて、一段、また一段とはしごを登る。途中横を向いて目を凝らすと、遠くに小さな灯りが見えた。
いつもアウロラたちが暮らしているその地下空間の天井裏は、ただだだっ広い、配管があちこちを這うような場所だった。唯一エレベーターがあるその場所だけは貫くように四角く囲われているけれど、それ以外は基本的に上へ行くものはない。はしごも、暗くて見えなかっただけで、すぐ上にあるまた別の天井で止まっていた。
ここには、下の天井についていたような光源はなくて、はしごの穴から差し込む光が届く範囲しか見えない。
けれど、暗い側からだったら、光のすぐそばにいるアウロラが見えるはずだ。
「ルーナ!」
少し大きな声が聞こえ、残響が暫く残る。少し眩しい光に目をそばめ、その光に慣れたとき、それが懐中電灯の光だと気づいた。それを持っているのは――
「……ニュイ?」
「やっぱり! 次会うときはオーロラの下とか言っておいて、結局こんな鉄と鉄の間だ、ハハ」
ニュイは、あのアヴァターと寸分たがわぬ表情で笑うと、アウロラの手を掴んだ。
「ニュイは、本当に外に行くの?」
「ああ、勿論。それが私の願いなんだ。私は、そのために生きてる。それが生きる理由なんだ」
「でも! もし死んじゃったら、外は危険で、出るだけで死んじゃうって言うし……」
そうなってしまうのは、アウロラは厭だ。だって、そうしたらニュイには、今度こそ二度と会えなくなってしまう。
「……確かにそうだ。死ぬかもしれない」
「それに、オーロラが見えるかなんて――」
「――見えるよ」
アウロラの言葉を遮るように、ニュイが言った。
「ルーナ、オーロラは、見えるんだ。だって――」
「お前たち! そこで何をしてる!」
それは唐突だった。カンカンカン、という硬い音がして、やがてもう一つ、明るい光に二人は照らされた。それが巡回する警察官だと気づくのに、そう時間は掛からなかった。
「逃げるよ!」
アウロラの手が、ニュイに掴まれる。ぐいと身体が引っ張られて、それから漸く、アウロラは走っているのだと気づいた。
「なんてったって、私たちは都合が悪い人類だからね」
後ろから追いかけてくる警察官は、それほど足が速くない。だから、二人は追いつかれることなく走り続けた。
「どういうこと?」
息を切らしたアウロラは、それでもなんとか、最初のニュイの言葉に問いかける。景色は、今までに見たこともないスピードで流れていく。やがてニュイは懐中電灯の電気を消すと、スピードを落として、アウロラの手を引いて横に曲がった。一際太いパイプの影に二人は入り込んで、身体を密着させ隠れる。ニュイの手が、アウロラの口を塞いだ。
やがて、カンカンカン、という音がして、警察官が走り去っていくのがわかった。それでも、まだアウロラの口元からニュイの手は離れない。けれどそれはそれで、居心地がよかった。今まで、人と触れ合ったことなんてなかったから。人の肌が自分と同じように温かいとは、知らなかったから。
「もういいかな」
ゆっくりと、ニュイの手が離れる。ニュイが懐中電灯を点けると、どれだけ自分たちが密着しているのか改めて認識してしまい、少し恥ずかしいような気持ちになる。ニュイの身体は、自分のそれよりも幾らか柔らかい。
「それで、都合が悪い人類ってどういうこと、だったね?」
パイプの影から這い出しながら、ニュイはいたずらっ子のように笑った。
「私たちに空を見せたくない人がいるのさ」
「どうして?」
「さあね。でも、外を見てきた人たちは消えた。消されたと言ってもいい」
そう語るニュイの目は、どこか悲しそうに見える。
やがて、ゆっくりとニュイは来た道を戻り始めた。ニュイに続いて、アウロラも道に出る。
「でも、外に出たら死んじゃうんでしょ? だったら、消されるなんて」
「――死ななかったんだ」
それは都合の悪いことなんだろうね、とニュイは言った。それからは黙ってしまって、気づけば元いたエレベーターの場所へ戻ってきていた。ニュイはしゃがみ込むと、床に懐中電灯を向けて、そこにあった四角い蓋のようなものを手で外した。
「ほんとは、準備が出来たらすぐに行くつもりだったんだ。でも、キミと出会ったから、待とうかなって思った」
ニュイは笑って、アウロラの方を向いた。続けて、パチパチ、と何かスイッチのようなものを動かすと、いつかのように地面が揺れた。アウロラは、すぐ近くにあったパイプに掴まった。
「この揺れは?」
「エレベーターが起動すると、こういう揺れ方をするんだ。なんていったって、何キロも登らなきゃいけないわけだからね」
「じゃあ、この間揺れたのも」
「そう、私がスイッチを入れたんだ」
――じゃあ。
ニュイは、最初からすぐそばに居たんだ。
「待っててよかったな、これで、約束通り、ルーナとオーロラを見れる」
揺れが収まると、ニュイはゆっくり立ち上がった。
「行こう、ルーナ」
「あのね、私本当は――」
――アウロラって言うんだ。
その言葉は紡ぐことが出来なかった。
「お前たち! くそっ!」
警察官の声が聞こえたからだ。灯りも、すぐ近くとは言わないけれど、かなり近いところまで迫っている。
「急ぐぞ」
ニュイが、滑るようにはしごを降りる。それに続いて、アウロラもゆっくりとだけれど、踏み外さないようにはしごを降りていく。いつか見たエレベーターとは違って、今度はあの金属の扉は左右に開いていた。中は狭い籠のようになっていて、無機質な室内には大きなディスプレイが一つと、操作盤らしい機械が鎮座していた。
「乗って!」
地面に足がついて、ニュイに手を引っ張られるのと、警察官が穴から飛び降りてくるのが同時だった。
恨めしそうにこちらを見る警察官を目に映しながら、エレベーターの扉は閉まる。
「私たちの家に入ってこないで!」
まるでかわいらしい女の子のように、ニュイはそう叫んだ。外に居る警察官には、聞こえたのだろうか。
「へへ、してやったり」
そう、今度はいたずらっ子のように笑って、ニュイは操作盤に手を掛けた。
「これも、全部修理したんだ。ちゃんと動くよ」
そう言われても、アウロラには何がなんだかわからない。そこにあるのは、意味不明な文字列が掛かれたプレートと、小さなスイッチが沢山だ。あとは、ボタンとレバーもある。
「こうして、こう」
ガクンと揺れて、エレベーターが上に動き出す。暫く上へ上ったところで、ニュイは口を開いた。
「私の両親は、本物の空を知ってるんだ」
それは、ニュイの両親の話だった。
§
かつて、本当の空を取り戻そうとした人々が居た。
その人たちは、エレベーターを作りながら地上を目指した。
やがて穴は地上にまで達し、エレベーターも完成した。
――死の星地球は。
様々な動物、様々な植物、そして美しい空に囲まれた、生きた星だった。
その人たちは、喜んでエレベーターで戻った。
そして、みんなに、地球は生きた星だったと。
人間も生きることの出来る星だったのだと、そう声高々に語った。
それがいけなかった。
その人たちは、ある日突然いなくなった。
全員が警察と名乗る人々に連れていかれ、二度と戻ってくることはなかった。
そうして、生きた星地球は、嘘になった。
えらい人はその地下世界全体に喧伝する。
「人間は、地上で生きることはできないのだ」
――と。
§
「その人たちのうちの二人が、私の両親ってわけ」
ニュイはそう言って、ディスプレイの電源を入れた。
そこに映し出されたのは、緑豊かな、教科書に載っているような森林の写真だった。
「これはそのときに両親とその仲間が撮った写真みたいだ」
いくつも、いくつも写真が流れている。その中には、大自然の中、仲良さげに二人で写る男女の写真もあった。きっとこの二人が、ニュイの両親なのだろう。
やがて写真は一番初めの写真に戻る。
「私は、本当に幼い頃に、両親に繰り返し聞かされた。地上はとても素晴らしいところだって。かつて人類が犯した間違いによって死んだかもしれないけれど、立派に生きてるって」
――生きている。
なんだかそれは、とても素晴らしいことのような気がした。
「だから、私はこの目で見たいんだ。地上を。空を。そして、オーロラを」
エレベーターがガクンと揺れて止まる。ゆっくりと開いた扉の外は暗闇で、小さくピイピイという音や、風の音が聞こえた。そして、風に何かが揺らされる音も。ゴウゴウと大きな音もする。音の反響は、殆どない。
「音って、全然違うんだね」
「ああ、本当に」
エレベーターの灯りに少し照らされたそこには、図鑑で見た苔が付いていて、緑色に変色していた。その先には、草原と言うのだろうか、あの、夢で見た場所にそっくりな景色が広がっていた。
――月だ。
空に浮かぶ大きな月は、真ん丸で、明るい光は地上を照らしていた。
そして。
「…………オーロラだ」
全面に広がる、光の帯。それは、夢で見たオーロラと寸分たがわない。けれど、あんなものよりももっと、輝いて見えた。ふと横を見ると、ニュイの頬に一筋、光が見えた。
「ねえニュイ。あのね、私本当は、アウロラっていうの」
言いたかったことを、言う。誰にも言ったことがなかった、自分の本当の名前。どうして言ってはいけないのか、それはアウロラにはわからない。けれど、そういうものらしいのだ。だから、誰にも言ったことがなかった。
けれど、ニュイにならいいと思う。
――違うな。
ニュイには、知ってほしかった。
もじもじと地面ばかり見ていても仕方がないと、アウロラは少し顔を上げた。そこにあったニュイの顔は、とても驚いていた。
「びっくりだ」
アウロラの顔を見て、ニュイが呟く。
「え?」
その反応に、アウロラの方が少しびっくりしてしまう。
「私の両親が、地上で見たもののなかで一番綺麗だと思ったもの、それを私の名前にしてくれたんだ。だから、ニュイという名前も素敵だけど、そこに浮かぶ私の本当の名前のそれを、私は見たかった」
「えっと……」
「私の名前はね――」
――アウロラ。
「オーロラ、綺麗だな」
隣に座ったアウロラ――ルーナ――の隣に座ったアウロラ――ニュイ――がそう呟く。
二人は紛れもなく生身の人間で、その目に映る世界も、二人の目が映したものだ。二人の目に映るものは少しずつ違えど、見えているものは、一緒。
風は凪いで、二人のアウロラの手は草の露に濡れていた。
「これがさ」
「うん」
「はじまりになればいいと思うんだ」
「はじまり?」
「そう、はじまり。人が地上で、もう一度、自由に暮らすんだ。勿論、その過程で間違いは起こるかもしれないけどさ」
「うん」
「やっぱり、願わないとはじまらないから。だから、私が願うんだ」
「私も」
「うん」
「私も一緒に、願うよ」
「じゃあ、一緒に願おう。――オーロラにさ」
「オーロラに、ね」
「でもまずは、ちゃんと地下に帰らないとだな」
ははは、と二人は笑う。にぎやかな森のさざめきに、二人の声が重なった。
Aurora 七条ミル @Shichijo_Miru
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