さいかち窪の黒兎

十文字心

第1話

その老人の家は柳窪地区の旧集落にほど近いとても閑静な場所にあった。

事務所から向かう車内で、患者のカルテを確認。七十五歳独身男性、余命宣告をされた末期の肺ガン患者で身寄りはなく、在宅での緩和ケアを希望されていた。私の仕事は終末期医療を専門とする医師である。


到着後インターホンを押し名を告げると門の鍵が解錠する音が聞こえ、”どうぞ”という女性の声が聞こえた。玄関で迎えてくれた家政婦らしき初老の女性に案内され、患者の元へと向かう。外観は昔ながらの寂れた古民家といった感じであったが、室内は綺麗にリフォームされており塵一つ無い長い廊下にはいくつもの風景画が飾られている。


家政婦の案内で寝室に入ると窓際のイーゼルに置かれた真っ白いキャンバスに向かって座っている男性の後ろ姿が見えた。


「先生、診察のお時間です。一度休憩されてください。」


家政婦の声に我に返ったのかこちらを見て軽く会釈をした患者らしき男性。顔色は優れず肩を震わせながら息をしていることから呼吸状態も悪そうだ。家政婦に支えられながらベッドへと移り、横になったところで診察を始める。検温や血圧、酸素濃度を測り一通りの診察が終わると、男性は無駄な会話をする事も無くすぐ眠りについてしまった。


カルテを書き終え寝室を出ると、応接間に通され家政婦の女性が手際よくコーヒーを煎れてくれた。


「私はこの家の家事全般と旦那様のお世話を任されております、家政婦の田中と申します。先生は一日の大半をベッドで過ごされているのですが、体調が良い時は先程のようにキャンバスへと向かわれている時間もあります。絵の事を考えると痛みも忘れるのか数時間ほど休まずに作業をされるのですが、私が声をかけると急に自分が病人だと思い出されるのか、床にふされるのです。」


田中さんに話を聞き、先生と呼ばれている患者の男性は”武蔵野三郎”という名前で活動している有名な画家であることがわかり、廊下に飾られていた絵画にも合点がいった。


その日から毎日、男性宅へ伺う生活が始まった。余命宣告をされてはいるが、高齢な事もあり病気の進行は緩やかであった。口下手なのだろう、私が話しかけても一言二言で終わっていた会話だったが、顔を合わす日が増えるにつれて自分の話をしてくれるようになってきた。


ある日、私が到着し寝室へ入ると先生はベッドに座り何やら写真集のようなものを見ていた。


「先生こんにちは、何を見ていらっしゃるのですか?」


話しかけると手招きをし、見ていたものを広げて見せてくれた。


「おぉ、お嬢さん。これはな、ワシが売れるきっかけとなった絵での。どう思う?」


見せられた絵には、一面に広がるススキ原野の割れ目から満月を見上げる、一匹の黒い兎が描かれている。芸術という分野にこれといった興味もなく生きてきた私ではあったが、先生が描いたというその絵に目を奪われ暫し言葉を失った。


「先生、とても素晴らしいです。いつまでも見ていたくなるような絵ですね。」


私の冴えない感想を聞き先生は、ふふっと笑い言葉を続けた。


「この絵にはな、描かれていない秘密があるんじゃ。それを死ぬ前に描きたいと思っておるのだが、どうにも上手くいかなくての。」


「秘密…ですか?」


「そのうち、話してやろう。どうせ誰も信じてくれないと思って今まで黙っていたが、ワシも後生だしな。」


言い終わると先生は、横になり診察が終わるとすぐに眠りについてしまった。

寝室を出ると、見計らったかのように買い物から帰宅した田中さんがニコリと会釈をして美味しいコーヒーを煎れてくれた。


「田中さんは、兎の絵の秘密って聞いた事あるんですか?」


向かいの席についた田中さんに

先程の話をしてみる。


「兎の絵?あー、有名になったきっかけのやつね。秘密って程でもないけど、その話はしたことがあるわよ。昔の武蔵野ってね、万葉集で短歌に詠まれるくらい見渡す限りのすすき野が広がっていたらしいのよ、現物を見てきたかのように素晴らしい情景が描かれているものだから、冗談で先生に”もしかしてタイムスリップでもしたんですか?”って言ってみたら少し驚いた顔をされて、すぐに笑って流されたけどね。やはり天才と呼ばれる人は私のような凡人と違って頭の中の作りが違うんだろうな?と思ったのよ。」


そう言って田中さんは、いそいそと食事の準備を始めてしまった。


次の日、先生の元を訪れると昨日まで真っ白だった窓際のキャンバスに色が入っており、いつもならば起きている先生は眠りについていた。田中さんに確認したところ、三時間ほど寝ているという事だったので一度起こすことにした。


「…おぉ、お嬢さん、もうそんな時間か…。昨晩、昔の夢を見てな、居てもたってもいられなくなり…時間を忘れて絵を書いておったら、体が疲れてしもうたみたいだ。イメージは湧いた、ワシはこの絵を完成させるまでは死ねぬ!だから、それまで命を繋いでくれ。頼んだぞ?」


私はこの日から鎮痛薬の量を増やしたり、落ちてきていた体内の酸素濃度を上げる為、今までは使ってこなかった酸素吸引を行ったりと、先生が少しでも楽に絵を描き進められるよう手を尽くした。勿論これらの処置は、治す為のものではない。薬の量を増やすことによって、後々薬が効かなくなるという弊害もおきることだろう。医師失格と言われるかもしれないが、私は何としても先生の最後の作品の完成を見届けたいと思った。


そしてこの家に通い始めた時にはまだ鳴いていた蝉の声が完全に消え、秋の虫が本格的に鳴き始めた頃、いよいよ絵は後一歩で完成というところまできていた。

絵の進捗と比例するように悪くなっていく先生の体調。こちらも、手は尽くしているが誤魔化しが通用しないというところまで差し迫っている。


その日も到着すると先生は、酸素マスクを付けたまま全身全霊の力を込めるかのようにキャンバスへ魂を吹き込んでいた。そして、私の顔を見たことで安心したのかそのまま意識を失ってしまった。急いで診察をし出来る限りの処置を行い、なんとか容態は落ち着いたが、後一度こういう事が起こった時に先生の命は尽きてしまうだろうと思った。

容態の急変に備え、その日は泊まることにした。田中さんに事情を説明し、仮眠を取らせてもらった後、夜中に様子を見に行くと先生はベッドから這い出しキャンバスに向かおうとしていた。


「せ、先生、今日は休みませんか…?」


慌てて駆け寄り声をかけるが

先生は首を横に振り、それを否定した。


「…お嬢さん、一つ、お願いが、あるのだが、聞いて、くれるかの?」


私は黙って頷いた。


「ここの近くに、”さいかち窪”という場所があるのだが、明朝、そこへ行って、スマートフォンの、カメラでいいから…写真を撮ってきては…くれぬか?ワシの予想ではそろそろ、あれが現れる頃での、頼んだぞ?お嬢さん…」


先生の言いつけ通り、日が昇る前に出発し小平霊園の一角にある”さいかち窪”へと辿り着いた私は、そこに広がる幻想的な風景に目を奪われた。登り始めたばかりの太陽の光が雑木林の隙間から注ぎ込み、モヤを巻き込みながらキラキラと光る水面。これが先生が言っていた。雨が多い年の秋にのみ現れる、湧水による幻の池…。

アニメの世界に入り込んだかのような光景を見て私は夢中でカメラのシャッターを何回も、様々な角度から押した。


その後先生が見やすいようにと思い、最寄りのコンビニで、撮った写真を片っ端から印刷し帰宅すると、田中さんが朝食を用意してくれていた。先生は、先程布団に入られたということで二人で印刷した写真を見ながら朝食を頂いていると、突然田中さんが声をあげた。


「ち、ちょっとこれ!う、兎が写ってる!」


撮っていた時には気づきもしなかったが、確かにそこには、先生の代表作に描かれていたものと酷似した黒色の兎が映り込んでいた。

朝食を急いで食べ終えた私は、先生の元へと向かった。先生は、布団の中で苦しそうな顔をしてうなされていた。


「先生、先生!写真、撮って

きましたよ!ほら、く、黒い兎が!!」


私の声が聴こえたのか、先生は薄らと目を開けて手を伸ばしてきた。先生の手を支えて兎の映った写真を握らせる。先生は最後の力を振り絞るように上体を起こし声を絞り出した。


「お嬢さん、これが秘密の正体だ…。描いても描いても売れぬ絵に、もう絵描きを辞めてしまおうと、自暴自棄になっておった若かりし頃、不思議な体験をした。それは美しい満月の夜、さいかち窪の池淵で夜空を眺めておった時の事。ワシは突然空から降りてきた眩い光に包まれたのだ。そして気がつくと全く見たこともない場所にいた。目の前に広がるすすきの原野。隣には何故か黒い兎がいた。空には先程と同様に綺麗な満月が輝いている。不思議と怖さはなく、何処までも続くすすきの原野にひたすら心を奪われた。気がつくとワシは元いた場所に戻っていたのだが、黒い兎は変わらず隣にちょこんと座っており、目が合った刹那、ぴょんぴょんと雑木林の中に消えていった。そして、急いで家に帰り先程見た情景をキャンバスに再現し”武蔵野三郎”という名前で売り出したというわけだ…。」


今までに無い程、流暢に話し終えた先生の脈がどんどん弱くなり、酸素濃度が低くなっていく。


「先生、先生?絵は?完成したの?」


私の問いかけに、声を出さずにうんと頷き、先生が指を向けたキャンバスには

さいかち窪へと満月から降り注ぐ眩い光の中に漂う黒い兎と美しい水面が描かれていた。


「お嬢さんが、最後に私の話が、嘘では無いことを証明してくれた…もう、思い残すことはない…ありが…――――――――」


私は規定通りの死亡確認を行い

田中さんへ武蔵野三郎の死を静かに告げた。

そして、二人で抱き合い

大声を上げて泣いた。



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