シンタinワンダーランド

空廼紡

ワンダーランド

「君は、一体どうしたいんだい?」


 唐突にアーヤ部長がぼくに問い掛けてきた。


 ぼくは無言でアーヤ部長に、どういうことですか、と無言で書いて問い返す。アーヤ部長は閉じていた扇子せんすを開いた。黒一色の扇子だ。まともな扇子だ。初めて会った時なんか、貝殻型の扇子だったし。本当にあれは何処から買ってきたものなのか。


 ぼくの意思が通じたのか、アーヤ部長は続けて言ってくれた。


ちんが見る限り、君は声を取り戻そうという意欲が見られない。いや、それが真実なのだろう。なにせ君は、自分が喋れないことに対して、あまり不便だと感じていないからな」


 それは、ぼくがぼくの不幸に酔っていると言いたいのか。目でそう訴える。


「いやいや、君が自惚れているとは、朕は思っていないさ。そもそも、自分に対して無関心なのだと思う。気楽、というレベルでなければ、危機感がないというレベルではない。それ以前の問題なのだよ。なんとかなるだろう、と思ってもいるが、本心では、どうでもいい、と思っているのだろう。じゃなきゃ、あんなこと出来ない。あんな文字をつづったりしない。違うかい? うむ、その顔は当たっているが、まだまだ裏があるってことだね」


 疑わしい目で見るわけでもなく、好奇心旺盛な目でぼくを見るアーヤ部長。


 同じ部活の先輩であり、アーヤ部長とは同じクラスであり、アーヤ部長と長い付き合いのささ先輩が言っていたことを思い出す。


『あれは、面白い事が大好きな、好奇心の塊よ。あれはね、自分が面白いと思ったことならすごい探究心を見せるのに、それ以外はとことん無感心なのよ。好意も悪意もない。あるのは、好奇心だけ。他の感情なんて、アーヤ君にはないのよ。だから余計、性質が悪いのよね』


 アーヤ部長の好奇の対象に、ぼくが入ってしまった。とことんぼくの心情を探り、えぐり、最終的には捨てる。


 きっと、そうなるだろう。今までの人もそうであったらしいから、ぼくだけ例外だなんてないだろう。


 それにしても心情を探られるのは、すごく悪い気分だ。けど、この人には分からないだろうな。なにせ、そういう感情はないのだから。


 笑いはするが、憤怒ふんどすることはない。とがめたりはするが、呆れるわけでもない。本当にとんだ道化師だ。


 今回のことも、そもそもこの人が原因だ。部活の皆を巻き込んで、色んな人を傷つけて。でも、この人はそんなことで罪悪感を抱かないだろう。この人はただ、自分の好奇心を満たすために、ぼくの私情に突っ込んだわけだし。むしろ、現在進行で起こっている現状を、内心面白がって楽しんでいるだろう。


 悪意はない。部長も所詮、自分のことしか考えられないのだ。


 いや、人間誰しも自分のことしか考えられない生き物か。誰かの為と言いながら、結局は自分の為にやっているのだ。そこに差別はない。


 その後もアーヤ部長の戯言が耳を通り過ぎるが、ぼくは返答しない。出来ないんだ。それを良いことに、アーヤ部長は言い募る。


「では、もう一度、問おう」


 扇子が閉じられた。

 アーヤ部長は、ぼくを見据えた。


「君は一体、どうしたいんだ?」



 ―ぼくは…












「………………面白く、ねぇ」


 そう呟いて慎太しんたは開いていたソフトを閉じて、椅子にもたれ掛かる。


 今は何時だ、と壁に掛けてあった時計を見やる。時計は二時を示していた。


 今使っているパソコンにはモニターライトを点けてあるので明るいが、部屋全体は沈んだように暗い。


 なんだか気分も重くなって、肺に溜まっていた息を吐き捨てた。


 慎太は小説家志望のしがない店員である。ただ、いまは元小説家志望となりつつある。


 小説を書き始め、小説家になりたいと思い始め早二十年。一定の評価を得てもそれ以上の評価を得ることもできず、その夢はくすぶり始めた。


 思えば、中途半端な人生だった。その中途半端さが創作人生にも出ていた。


 青春は友人とそこそこ遊んで、部活もそこそこ参加して、何かに打ち込むこともなく過ぎていき。大人になった今は就職に有利な資格を特に持つこともなく、中小企業の提携店に働いて。


 恋愛事も今も昔も変わらず、ただの片思いだけですまして誰かと付き合うこともなく、燃え上がるような恋もせず、新しい恋もせぬまま十年が経ち。


 思い返せば思い返すほど、実にくだらない人生である。


 創作活動に至っては、新しい物語のネタを思いついては熱しているうちに書き進んでも、途中で冷めては「面白くない」と放置する。稀に完結する物語もあるが、だからといって評価を受けるわけでもない。


 評価を受けたとしても、それは逆にプレッシャーになって結局は止めて。


 なら、自分は何をモチベーションにして創作活動をすればいいのか。どうやったら物語を完結することができるのか。


 今でも分からなくて、それが嫌で嫌で。自問自答しても、ネットで調べて行動を起こしても、なにも改善しなくて。


 鬱憤うっぷんとした日常を影でこなしているせいか、最近は物語を閉じる頻度が多くなってしまっている。


 昔は自分は才能があると思っていたが、所詮凡才だったということだ。


 書くだけですごいだとかSNSで流れてくるが、その後に来るのは完結する人はもっとすごい、という台詞が流れてくる。


 書くだけで留まっている自分は、凡才というだけで才能がないということを突きつけられている気持ちになる。


 けれど、だからといってスッパリと諦められるような夢でもなかった。


 学生の頃からの夢だった。周りにも吹聴ふいちょうしていたから、余計に意地になってその夢に縋り付いている。


 自覚はあるものの、改善するにはあまりにも打ちひしがれている。


 それの無限ループ。


 いっそ朽ちてくれよ、と嘆願しても朽ちてはくれない、どうしようもなく救いようがない、廃墟みたいな夢。


「………………寝るか」


 明日も仕事だ。そろそろ寝ないと仕事に差し障ってしまう。


 重い身体を持ち上げ、慎太はベッドに横たわった。


(起きたらまた明日が始まるのか)


 正確にはもう明日になっているが。そうではなく、また腐りかけの日常が始まることが憂鬱なだけ。


 それでも生きるしかないのがただただ辛い。のめり込むほどの推しもいない、夢中になっている作品もない。そんな日々に生きる希望を見出せない。


 寝る前はいつも後ろ向きなことを考えてしまい、結局眠れなくなる。


 それがいつものことなのに、だんだんとウトウトしてきだした。


 脳内の思考もグチャグチャになり、ああ眠るんだな、と安心する。


 たとえ腐った日常を繰り返す行為だとしても、睡眠時間はあったほうがいい。そのほうが楽だ。


 どうかこのまま、現実に引っ張れないまま眠れますように、と願いながら意識が遠くなった。







 ゆる覚醒かくせいすると、なんだか白い世界が漠然ばくぜんと広がっていた。


(…………いや、なんで??)


 頭がぼーっとしていたこともあり、慎太はやや間を置いてから、その疑問が浮かんだ。


 自分はいつも通り就寝したはずで、特に変わったことはなかった、はず。


 しばらく呆然と横たわっていたが、状況確認をしなくては、とだるい身体を懸命に起こし、辺りを見渡す。


 完全な白い世界、ではなく、子供の落書きのような風景が広がっていた。子供が書いたような拙い花に草、ありきたりな雲が動かず、ポツンと空に浮かんでいる。


 まさしく、子供の落書きそのものだ。そう思うと同時に、ここは現実世界ではない事実がダイレクトに響いた。


 夢だ、紛うことなき夢だ。これが現実であれば気が狂ってしまったとしか言いようがない。


「夢だっていうのに、面白みがねぇな……」


 自嘲気味に呟く。すると。


「やぁ、慎太! 久しぶりだね!」


 明るい口調の少年の声が聞こえた。


 驚いて振り返ると、子供の落書きのような少年みたいなのが、手を振っていた。その手は線で出来ている。


 服らしきものを来ていないようにも見える。髪は黒で瞳の色は赤色なのだろうな、ということしか分からないほどの簡易的な人物像。その表現に尽きる。


 まるで昔の知り合いのような馴れ馴れしい棒人間を慎太は半眼で見据みすえた。


「お前みたいな棒人間、知り合いにいないんだけど」


「失敬だなぁ! いちおう胴体もあるだろ!」


 ぷんすか怒っているのか、眉らしきものが顔に表れ、逆八の字を作っている。


 すぐに仕方ないなぁ、と肩をすくめてその棒人間はふんぞり返る。


「忘れん坊の慎太のために、僕の名前を教えよう。僕の名前はキリル! 君とは・・・・・・」


 考え込むように、キリルは小さな声で唸る。


「他人か?」


「他人じゃないよ。うん、それは絶対的に言える。まあ、夢の中の友人ってことで」


「適当だな」


「今はこれでいいんだよ。時間もないし」


「時間がないって?」


「夢から覚めるまでの時間のこと」


 慎太は首を傾げる。その答えに、なんだか違和感を抱いた。


 その違和感を探ろうとしたが、それよりも気になることがあってキリルに訊ねた。


「ここ、どこだよ」


「ここは君の世界だよ。ここでは君の思い通りになれる。矛盾? 現実的に有り得ないこと? そんなのこの世界には関係ない! あらゆる事柄に対して完全無視できて、まさに創造神になれる! そんな場所」


 なんだか熱弁しだしたキリルに、慎太は白ける。


「嫌味みたいだな、それ」


 自分の思い通りにならない現実と正反対のことを言われ、思わず吐き捨てるように言ってしまう。


 こういう場面に遭遇したとき、半信半疑だけどワクワクドキドキするのが正しい反応だとは思うけれど、今の慎太にとってはむしろ神経を逆撫でされる説明だ。


 まるで夢の中でしか、縋り付けないと突きつけられているようだ。


 キリルは、心外だ、とわざとらしく肩をすくめた。


「ただ真実を答えただけなのに、とんだ捻くれ者になったものだ。嘆かわしいなぁ」


 表情が分かりにくくて感情を読み取れないが、態度が偉そうなのは見るからに分かる。


 慎太は小さく舌打ちし、おもむろに立ち上がった。


「で? この落書きみたいな世界は、創造神であるオレの頭の中だって言いたいのか?」


「正確には違うよ。ここは君が忘れてしまった世界。君のワンダーランド、と呼べばいいかな?」


「ワンダーランド? まるで不思議の国のアリスみたいだな」


「君の言うアリスはもしかして、ホラゲのアリスのほうかい?」


「なんだ、お前も知っているのか」


 原作は読んだことがないから、慎太にとった不思議の国のアリスは、アリスの世界観を完全にリスペクトをしたホラーゲームだ。


 あのゲームはアリスの深層心理を元にワンダーランドは形成されているという設定だった。だから似ていると思ったのだ。


「君が知っていることは大体僕も知っているよ」


 キリルはさらに続けて言う。


「君はワンダーランドのことを知っていたけど、大人になるにつれ忘れてしまったんだ。それでもなんとなく覚えていたから、なんとかこのワンダーランドは保っているんだけど」


 キリルがおどけた口調から、真剣な声色になる。


「そろそろ限界なんだ。友達が消え、父も消えてしまった。このままだと僕も消える。僕は皆に会いたい。だから君を呼んだんだ」


「呼んだって」


「君しかいないんだ。皆を取り戻せるのは」


 そう言うとキリルは、柏手を二回打った。


 すると、突然慎太の前に光の玉が現れた。光はだんだんと失われ、最終的には宙に浮く四百文字の原稿用紙と万年筆がそこに現れる。


「なんだこれ」


「君が創造するときに必要なものさ」


「どうせなら、パソコンの画面とキーボードが良かったんだけど。そのほうが早く書ける」


「僕もそうしたかったんだけど、これしか用意できなかったんだ。ごめん」


 少し前の偉そうな態度は打って変わっての、申し訳なさそうな声で謝るキリルに、それ以上何も言えなくて原稿用紙を注視する。


(四百文字の原稿用紙って。学生以来だな)


 最後に原稿用紙で文字を書いたのは、高校生の夏休みで読書感想文だ。つまり十二年ぶりである。


 万年筆に関しては触るのはほぼ初めてだ。しかも、文房具屋のショーケースに飾られているような、高級感のある万年筆。目に毒だからと、敢えて見ないようにしていた万年筆に酷似している。


 その万年筆に手を伸ばそうとして、気が付いた。手が骨張っていない。しかも小さい。なにより瑞々しい。


 自分は三十歳のはずでこんな十代のような手をしているわけがなくて。


「どうしたんだい?」


 固まっている慎太をキリルが不思議そうに見ている。


「オレ、若返って」


「なんでそんなに驚くんだい? 夢の中で若返っていることなんて、よくあることじゃないか」


 そう言われて、それもそうか、とすとんと納得した。


 たしかに夢の中で若返っていて、それに気付かず夢を追っていくなんてよくあることだ。


 そもそも、こんな意識がはっきりとした夢のほうがどうかしている。


 そんな風に思っていたけれど、それは徐々に薄れていった。


 思考がだんだんと世界に染まっていくのを、どこか遠くの方で感じた。


 万年筆と原稿用紙を手に取る。初めて触るというのに、それは不思議とすぐ自分の手に馴染んでいった。


「この原稿用紙になんて書けばいいんだ?」


「試しに僕の容姿を書いてみてよ。その通りになるから」


「容姿ねぇ」


 慎太はじっとキリルを見る。


「なんか要望はないか?」


「直感でいいよ。ただし、黒髪と赤目は僕の特徴だから、それは残してほしいな」


「……箇条書きでもいいのか?」


「細かい設定だったらそれでもいいんじゃない? よく知らないけど」


「直感、直感か……」


 直感でいくと、キリルは成人していない少年だ。では、何歳くらいか。なんとなく十五歳くらいのような気がする。


 顔の造作はどうだろう。男らしい顔はしていなさそうだ。腹いせに童顔に加えて女顔にしてやろうか。体格はそれに合わせて。


 次々と連想していき、箇条書きで彼を書いていく。


 一つ一つ原稿用紙に書き込むたびに、目の前の棒人間が変わっていく。


 まず顔を決めたからか、ショートの黒髪で卵形の赤い目に女顔の少年の顔が棒の身体の上に現れた。次に体格のことを書くと細身の少年になっていった。


 最初はちゃんとした顔の下に棒が生えて気持ち悪かったが、どんどんと書き換えていくうちに楽しくなってきた。 自分が決めた設定。それが、実際に目の前で展開していく様子はとても気持ちよかった。


 最終的に、黒髪ショートの赤い目、女顔で目がクリッとした細身の少年になった。


 そんな元棒人間キリルを上から下まで見て、首を捻る。


「なんか違うな」


「そう? 概ね元の姿だと思うんだけどなぁ」


「マジかよ。オレの直感、馬鹿にできねぇ」


「で、どこが違うんだい?」


「なんていうか、服が……うん、違和感があるな」


 今のキリルの服は、黒のタートルネックに青いジーパン。普通の格好だが、それがなんだか変だ。


 その理由を考えて考えて、捻り出したのは。


「世界観が合っていない、気がする」


 そういう結論だった。

 キリルは訝しげな顔をして慎太を見据えた。


「こんな真っ白な世界に世界観?」


「分かる、そう言いたいのは分かる。けど、なんか、こう、違うんだよ。なんか、お前のジャンルに合っていないというか」


「ジャンルって、現代ものとか歴史物とかそういうジャンルっていう意味?」


「そう、それだ!」


 慎太はキリルに向けて指を差す。


「お前、名前的にも見た目的にもファンタジーっていう感じだけど、服装が全然ファンタジーじゃない!」


「それは偏見じゃない? 設定によっては現代ものもいけるよ?」


「現代ファンタジーになりそうだから、結局ファンタジーなんだよ。でもなんか現代ファンタジーじゃないんだよな。王道のほうのファンタジーって感じがする」


「それなら、まず世界観から決めたら? 僕は服があるし、しばらくこのままでいい。それに世界観を考えたほうが、細かい服装も考えやすいんじゃない?」


「それもそうだな」


 住んでいる環境によって服は違ってくるものだ。

 慎太は首を捻らせて、頭を回転させたが一向に良い世界観が思い浮かばなかった。


「思い付かないって顔をしているよ」

「いきなり言われてもすぐに出てこない」


 そもそも世界観とは、時間を掛けて練っていくものだ。数分でできるわけがない。


「それじゃまず、この景色を変えてみたら?」


「景色も変えられるのか?」


「僕の容姿どころか世界観も変わるんだから、そりゃ景色も変わるよ」


 説得力のある言葉に頷く。


「それもそうだな。でも、景色って言われてもなぁ」


「それなら現実の世界で情報を集めたら? ほら、テレビとか写真とか見て良いなって思った景色を参考に書いてみればいいよ。あるいは、漫画とか映画の景色をそのままパクったり」


「パクったら駄目だろ!」


 慎太の突っ込みにキリルは不思議そうに首を傾げる。

「なんでだい? ここはワンダーランド、もとい夢の中なんだからパクっても炎上しないよ?」


「そりゃそうだけど、気持ちの問題が大きいというか」


 確かにどこかのサイトとかで発表するわけでもないし、他人に一生見せられない、自分の中でしか留められない夢の中のことだから批難されることはない。


 けれど、やはり他の作品のパクリはいけない。それはプライドと論理観があるからどうしても出来ない。出来たとしても罪悪感がのし掛かって支障をきたしてしまう。


「まあ、君がそう言うのなら僕も従うよ。どちらにせよ、いんとすぴねーしょん、だっけ? それは大事だよ」


 さて、とキリルは言い紡ぐ。


「そろそろ時間だ」


 突然意識が遠くなっていく。


 かすむ視界の中、キリルがニコッと食えない笑みを浮かべていたのが分かった。


「またね、慎太」







 目覚めると、そこには見慣れた部屋の景色が広がっていた。


 明るい。日が昇っている。

 頭上に置いている目覚まし時計を手繰り寄せて時間を確認して、目がギョッとなった。


 後十五分で家を出ないと、出勤時間に間に合わなくなる。そんな時間を指していた。


「遅刻する!!」


 悲鳴を上げて、ベッドから飛び起きた慎太は慌てて出勤準備に取りかかる。


 夢のことなど、一欠片も頭に残っていなかった。








 なんとか遅刻を免れたが、職場について一息吐く暇もなく出勤したので、いつもよりどっと疲れが出てしまった。


 慎太が勤めているこの会社、基店は短時間のパートが多くて休憩時間を取っていない人数が多いのと、出勤している人数が店の規模に対して少ないことが相俟って、休憩時間が被らないように調整している。


 人が少なくて忙しいが、誰もいない休憩室で休憩を取れるのはこの職場のいいところだと思っている。


 人がいなくて寂しい、と年上のベテラン女店員が言っていたがその気持ちが理解できないくらいには、慎太は静かかつ一人の時間が好きなのである。


 食いそびれた朝食の分も、といつもより量が多い昼食も食べ終え、だらけていると机の上に一冊の冊子が置かれていることに気が付いた。


(アルバム…………ああ、あの人のか)


 別の年上女店員が置いていったアルバムだとすぐ見当がつき、慎太は溜め息をついた。


 海外旅行が趣味であるその人は、旅行のアルバムを職場に持ってきて、皆見て、と置いていくのだ。


 自慢なのか、はたまた善意のお裾分けか。どちらにせよ面倒くさいことだ。


(海外ねぇ。よくそんなお金があるものだ)


 アルバムには、スイス、とラベルが貼っている。なんとなくペラペラ捲ってみる。

 大抵その店員と家族が写っているが、風景メインの写真もある。


(スイスの自然って綺麗なんだよな。あの有名なファンタジー映画の撮影にも使われたっていうし)


 そこで、ふっと昨晩視た夢のことが一気に蘇った。


 あの不思議な夢に出てきた少年が言っていた。現実世界で情報を集めたら、と。


 たまに先日視た夢の続きを視ることはあるが、またあの夢を視る保証はない。


 けれど、考えてしまう。あの少年がいる世界はどんなのだろう、と。


 気が付けば風景の写真ばかり目がいってしまう。自然の写真が多いから尚更だった。


(日本の山とは違うよな、やっぱ。あ、マッターホルンにも行ってきたのか)


 マッターホルンはスイスの有名な霊峰だ。そうだ、こういう山がポツンとあればいい。


(で、その下には草原が広がっていて、草原といっても芝生のような丈の小さい草が生い茂っているほうの。気持ちの良い風が吹いていて。所々に小さい花が咲いていて、細い道があって)


 マッターホルンとそのふもとの写真を見つつ夢想して、我に返る。


(馬鹿馬鹿しい)


 あの夢をまた視るわけがないというのに、こうも真剣に考える必要がない、と心の中で吐き捨てながらアルバムを閉じる。


(所詮夢だ。ワンダーランドはない。こんなこと考えるだけ無駄だ)


 時間を見るとまだ休憩を終わらせるには早い時間だった。


 けれど、休憩室から離れたくて慎太は腰を上げて休憩室から出た。







 その日の夜、なにもやる気が起きなくて音楽を聴きながら就寝すると、また夢を視た。


 先日視た夢とは違い、マッターホルンのような山が遠くで聳え立っていて、靴底までしかない丈の草と所々に小さな花が咲いている、そんな爽やかな草原が広がっている。それに加えて空が青く澄んでいて、日本には絶対にない光景がそこにあった。


 慎太は土が丸見えの細い一本の上に突っ立っている。呆然としていると、あの声が聞こえた。


「慎太ー!」


 弾んだ声色だった。振り返ると、キリルが興奮気味に慎太のほうへ駆け寄ってきていた。


 まさか夢の続きを視られるとは思っていなくて、唖然とした。


「すごい、すごいよ! 君がいないっていうのに急にこんな綺麗な風景が生まれたんだ!」


「オレ、まだ何も書いていないんだけど」


「それが不思議なんだ! なんか現実世界でしたの?」


「ただ、ここの風景のことをイメージしただけで」


「え、もしかして風景くらいなら原稿用紙を介しなくても、ワンダーランドに変化が起こるのかな? すっごいなぁ!」


「お前、ここの住人だろ? 知らなかったのかよ」


「僕もこのワンダーランドについて、全てを把握しているわけじゃないんだよ。知らないことだらけさ」


 興奮が収まったのか、キリルの声のトーンが落ちた。「なんていうか、またこの夢を視るとは思っていなかった」


 そう呟くと、そうだろうね、とキリルが返す。


「君にとってこのワンダーランドは夢だ。そう思うのも仕方がないことだよ。けれど、この夢は今後も見続けることになるよ」


「なんでだよ」


「ワンダーランドだからだよ」


「適当な答え方をすんな」


「僕も原理はなんとなくしか分かっていないから、説明し難いんだよね。そこはごめん」


 真面目な声で返されて思わず無言でいると、キリルが突然慎太の手を握ってきた。


「せっかくだからさ! この世界を歩き回ろうよ! 何か足りないと思ったら、原稿用紙に書き込んで、この世界を作り込もう!」


 するとすぐ隣からポンッという音がした。視線を向けるとあの原稿用紙と万年筆が宙に浮いていた。少量ながらに煙が立ちこめていることから、どうやら煙と一緒に出てきたらしい。


 最初は光と一緒だったのに、演出がしょぼくなっている。


 不思議に思いつつ、キリルに手を引っ張られながら一本道を駆けていく。原稿用紙と万年筆もその後を付いて飛んできている。


 嬉しそうに息を弾ませているキリルを見ていると、なんだかこちらも悪い気はしなくなってきた。


(こういう夢なら、見続けるのも悪くない、かな)


 なんて、キリルに言うのはなんだか悔しい気がして口を噤んだまま、抵抗もせずに軽い足取りでキリルの後を追った。

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