ハレと雨
枕火流
水とつとめて
日常にはその有難さは感じがたいものである。
例えば晴れの日。日光を浴びることができ、雨に花を散らされることもないその福徳と幸運をまるで当然というふうに人々は享受している。
しかし、いざ雨の日になると体を動かすもことも相手の顔を十分に見ることも叶わなくなるので、こぞって早く晴れないかな、なんて愚痴を言うくせに、転じて晴れると雨の事なんてすっかり忘れたように日常に戻っていく。
まぁそんなことはどうでもいい。
とにかく僕は、雨の日にようやく晴れの日の尊さを知れるように今、雨の日を乞うていた。
少なくともそうすれば彼女の目から伝う水玉の意味について考えなくて済んだだろうし、何よりロマンチックだ。
彼女はしばらく茫然とした表情で僕の顔を眺めていたが、やがて豁然と口を開いた。
「離して!」
怒気の籠った声である。僕は断った。
「嫌だ」
当然だ。僕が彼女の腕から手を放すという事は重力とそれに伴う衝撃を彼女がその細い身に受けてしまう事を意味する。
彼女の長い髪とスカートが風に揺れた。
やがて僕は悟った。彼女は遊び半分でこの事態、即ち屋上からの飛び降りに臨んだのではなく勁烈な自殺願望と果断な判断力を持って事態に臨んだであろう、ということを、である。
僕は彼女を引き上げた。不思議なことに彼女は抵抗しなかった。体重は僕が片手で持ち上げられるほど軽かった。
彼女は礼も言わずにスカートをサッサッと払うと何事もなかったかのように階段の方へ向かったのでついおかしくて笑ってしまった。
彼女は止まってむっとした顔をこちらに向けた。
一通り笑い終わると問うた。
「君…名前はなんて言うの?」
「水」
みず。凛乎とした雰囲気によく合致している。が疑問が生まれた。
「水?H2Oの?」
彼女はこの質問が嫌いらしくまた階段に向かって歩き出した。僕は追いかけた。
「苗字はなんて言うの?」
「答えたくない」
そう言って目をちらりとした。貴方の名前は?ということだろう。
「僕は大和」
彼女の自分で聞いてきたくせに『だから何?』と言わんばかりにプイッと向こうを向いた。
「なんで自殺しようとしたの」
僕は引き止めるように大声を出した。彼女は止まった。必死に脳を回転させている様だ。その後ろ姿に少しだけ憐憫を感じた。
やがて空気を鋭く通過する声が聞こえてきた。
「自殺に理由なんかいらないわ」
もっともだ。自殺すれば、明日の宿題のことも全て無に帰すことが出来る。
自殺に必要なのは唯二つ、小さな勇気と、その後張られるであろう「逃げ虫」のレッテルに耐える根性のみだ。
僕はそう思ったが、彼女はただ格好つけてそう言っているだけだろう。でなければ、あんなに思考をまとめる———偽造する———-必要なんかない。
「そういうあなたは何故ここに来たの?」
(なんでだっけ…あっ、そうだった)
「僕も自殺するためだよ」
彼女、もとい水は驚いたようだ。僕の方に向けていた背中を急に身を翻すと口を半開きにして凝視している。
どこかで猫がにゃーんと鳴いた。そんな夕方のことである。
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