食わず嫌い
枕火流
ハンバーグ
太陽の燃えるある八月のことだったと記憶している。僕は三年ぶりに故郷の土を踏んだ。
「ただいま」
そう言うと奥の台所からお帰り、と母さんの声がした。帰ってきた、と実感した。
ハンバーグの匂いがした、
と言えば、おふくろの味、とか、昔懐かし、みたいな懐郷的美辞麗句が似合いそうだけど、卵の食べれない僕にとっては昔にどこかで卵入りハンバーグ(一般的に言えば普通のハンバーグ)を食べて発作を起こして以来、恐怖の先入観なしには見れなくなった。
台所へ行くとやはり、ハンバーグだった。
発作を起こしてからは我が家でハンバーグと言えば決まって卵抜きだったから多分これもそうだろう。
いつ見ても粘土みたいだ。灰色に所々玉ねぎの白色が混じったそれは、幼稚園で粘土と土で作った粘土を思い出された。
三年ぶりの帰郷という事もあってまるで客人をもてなすように僕をもてなしてくれた。
変わったな、そう思わざるを得ない。
気が付けば、誕生日席に座らされて目の前に炊き立てのご飯、みそ汁と野菜、そしてハンバーグが置かれていた。
「たくさん食べるのよ。少しやせたんじゃないの」
変わったな、
僕はご飯とみそ汁と野菜を順繰り食べてハンバーグを避けていた。
意図的ではない、と思う。ハンバーグか他の二品か、という場面で他の二品を選んでいるだけで。
近くで見ていた母さんはそれに気づいたのか
「ハンバーグもお食べよ」
と言った。
「父さんは?」
と僕は言った。
「今も病院だよ。やせ細って大変や」
子供の頃、父さんに殴られた左わき腹がうずいた。
(父さんも人間なんだな。まぁ天皇陛下もそうなんだしそうか)
俺は終にハンバーグを箸で小さく割って口で運んだ。
幼少期の怨念が僕を襲ってきて手が小さく痙攣したけど、母さんにはバレなかったようだ。
「おいしいかい?」
「美味しいよ」
確かにおいしかった。玉ねぎがシャキシャキと躍動して、肉汁がはじけた。
(確かに粘土じゃない)
心の中でクスクス笑った。
やがて異変が起こった。母さんはまだ僕がお代わりすると見込んで新たにハンバーグを焼いている時。
喉にムカデが三匹は踊り狂っているような極度の不快感と目で血が逆流しているような鈍い痛み、そして何より脳を直接殴られているような眩暈に襲われた。
(卵だ!)
脳が異常を判断している。僕は自分が言うのは何だけど、父親の暴力(体罰が半合法化していた頃なのでこの表現とする)を受けても無言で黙っているような優しい子供だったので、この異常を母親に悟られまいとした。
その時、玄関で扉が開く音がした。
「あら?」
母さんは鼻歌混じりで玄関に行くとやがて父さんと共に帰ってきた。
「父さん⁉」
僕は可能性として予想していたことだったので驚いた訳ではなかったが、気を遣って大げさに驚いた。
「おう」
父さんは母さんに肩を借りながら食卓に席を下ろした。
母さんはさらにハイテンションで台所に立った。
父さんは病院にずっといて仮退院もできないような病状だったので、どうやら無理を押して帰ってきたらしい。
(無理しやがって)
今の新聞を読んでいる仏頂面からでは考えられない。
「母さん、これ、卵入ってる?」
鼻歌が止まった。父さんの新聞を読む目も止まった。世界全体が止まったかのような沈黙の後、
「入ってないわよ」
嘘だな、
僕の弾劾を受け止めると母さんはまた鼻歌混じりでみそ汁を混ぜ始めた。
が、僕はその鼻歌が先ほどとは違う事を知っている。
父さんはやがて居間に行った。物憂げな表情から察して僕と数年ぶりの会話を首を伸ばして待っていたらしいが、その話題がなかったらしい。
また二人になった。
その頃にはハンバーグ以外はほぼ食べ終わっていた。
母さんは鼻歌を辞めた。先ほどの席に座った。
「卵、入ってるの」
悲しそうな顔をしていた。
「そう」
それしか言えなかった。
「ごめんなさい。もう下げるわね」
母さんはハンバーグと空の皿を持っていた。
「なんで入れたの?」
とは言えなかった。母親なりに子どもには卵は食べられるようになってもらいたい、という期待がこもったものだったかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
母さんは三角コーナーにたんまりと盛られたハンバーグを流し込んだ。
見ていられなくなって視線を下ろした。
「ごめんなさいね、意地悪しようと思ったんじゃないわよ」
声は微かに霞んでいる。
「まあそうなのかな?」
なんて変な返答をしてしまった。
居たたまれなくなって居間へ逃げるように移動した。父さんが新聞を読んでいた。
(また同じページ読んでる)
「悪かったな」
不意にそう言われた。
「わき腹、痛かったろう」
父さんは多くは語らない。が、それが僕への暴力のことだと分かった。
「もう大丈夫さ」
父さんは大きなため息を一つつくと新聞を置いて傍にきた。
そして
「本当に申し訳ないと思っている」
といって頭を下げた。
この時、脳に電流に流れると同時に何かが壊れた。
幼少期から半分死法だが威厳を放っていた憲法が崩れ落ちた音がした。
「もういいって父さん、頭を上げてくれ」
「そうか」
頭をかきながら父さんは顔を上げた。
笑っていた。
僕は怒るべきなのか、笑うべきなのか分からなくなって逃げるように台所へ行った。
その廊下で泣いた。溢れるようにして、大粒の涙がこぼれた。
両親に申し訳なさというか、恨みというものが積もり積もって飽和量を超えた。らしい。
僕は出来るだけ声を抑えて泣いていたのだが、気が付くと母さんが脇にいて
「どうしたんだい」
と言いながら背中をさすってくれていた。
「卵がかゆいんだい」
もう一度
「卵がかゆいんだい」
と言って母さんを手をほどくようにして台所へ行った。
そこには洗われるのを待っているお茶碗とお椀と三角コーナーにどっさり捨てられたハンバーグたちが待っていた。
その時の僕が気がくるっていたのだと思う。
僕は涙目になりながら三角コーナーにあるハンバーグを一つ、手でつかむと口へ運んだ。
もう喉の痒みも目の痛みも眩暈も起こらなかった。
「母さん、おいしいよ…おいしいよ…」
実のところ、涙と興奮であまり味はしなかったが、それはあまり意味をなさない。
母さんも顔をぐしゃぐしゃにしながら泣いていた。
「そうかい。そうかい。お父さんにも言っといで」
食わず嫌い 枕火流 @makurabiryu
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